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白銀血の覚醒、そして未来へ

 アクト・リーメルは疲れ果てて、尻餅をつくように座り込んだ。雨がざあざあと降っていて、髪の毛も服も靴もびしょ濡れだ。周囲は真っ暗で、誰もいない。規則的な雨音は耳に入ってこなくなり始め、静寂の中もはや自分の体が濡れていることさえ感じなくなっていた。アクトは膝を抱えて、腕に顔を埋めた。これまでの事やこれからの事に失望し、絶望して、どうでもよくなっていた。何もかも諦めよう。希望なんてない。悲しみも苦しみも、今となっては幻想のようだ。空っぽの心では何も感じない。もう何もかもどうでもいい。生きていたって仕方ない。じゃあ、もう死んでしまえばいい。何もかも終わりにしてしまいたい。だが、アクトの心の奥底に潜んでいた部分が彼自身の死を許さなかった。自らの死によって、これまでの全てが否定されることになるし、全てが無駄になってしまうからだった。

 その場所がどこだったかはよく覚えていない。草原だったかもしれないし、森だったかも、いや、海辺だったか、それとも岩山だったか。アクトは一人孤独の中で、周囲を見ていなかったからよく覚えていなかった。アクトが見ていたのは、戦いで受けた右腕の傷跡から流れ出てきた自らの血だった。斜めに切りつけられた5cmほどの傷が開き赤い血が流れ、膝を伝っていった。赤い血がだんだんと薄くピンク色になっていき、透明になっていって、次第に白く輝き始めた。アクトは目を見開いて、白銀の血を見つめた。自分の赤い血が白銀の血に変わるなんて信じられなかった。もう何もしたくなかったし、誰とも関わりあいたくなかったのに。でも、まだ何か出来ることがあるのかもしれない。アクトがそう思った途端に、目の前に白いローブ姿が四人姿を現した。

「勇者アクト・リーメル。君の白銀のオーラは、自らの血の赤を白銀に染めるまでに強くなった。君は正式に白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドを受け継ぐことになる」

「テトラ・モルフ。これまでの闘いで自分の力が増したことはわかった。けど、僕を勇者と呼ぶのはやめてくれ」

 アクトは立ち上がり、腰にある剣をちらりと見た。白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドは腕から流れる白銀血に反応するように、剣を抜いてもいないのに白く輝きだしていた。テトラ・モルフ達がその輝きを見て、お互いに頷きあった。

「アクト・リーメル。君には本当に申し訳ないが、もう少しだけ頑張ってもらいたい。頼むから、今一度戦ってくれないか」

「どうせ、もう何もかも終わってしまったんだ。今更、何をしようっていうんですか」

 テトラ・モルフはアクトの返事を聞くと、アクトを連れてその場から姿を消した。

 突然の移動に慌てて、アクトは周囲を見渡した。どこまでも果てしなく空間が広がっていて、全てが白かった。通常の世界でないのはすぐにわかった。白い空間には、フードを被った白いローブ姿の四人のテトラモルフ以外にアクトしかいなかった。黒髪と汚れた黒い服の姿は、白い空間では異質に感じられた。気づくと、びしょ濡れだった全身は嘘のように乾いていた。でも、白銀血は残っていた。

「それで、いきなり人をこんなところに連れてきて、どうするつもりですか、テトラモルフ」

「白銀血を宿す者として、白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドの継承者として、君に選択を提示したいと思う。一つは〈混沌〉の子エレボスを追いかける道、もう一つは戦士フィート・ディクロースを追いかける道。さあ、どちらを選ぶ、アクト・リーメル」

 アクトの脳裏にかつての場面が蘇った。漆黒のオーラによってフォルティナの胸が射抜かれるのを見せつけられ、アクトは愕然として現実を思い知った。フォルティナはいなくなってしまった。胸が締め付けられ、涙が込み上げてきた。この血は、フォルティナの代わりだとでも言うのか。自分に発現した白銀血を見つめ、アクトは眉を顰めた。アクトの眼前からフォルティナが消失し、今度はフィートが漆黒の霧の奥に吸い込まれていく場面が蘇った。フィートは、どうしてあんな事をしたんだ。

「フィートは生きているんですか? そんな、どうやって。それに、エレボスも……」

 アクトにとってフィートは希望だったし、エレボスは絶望だった。

「さあ、アクト・リーメル、選択してくれ。いつまでも二人の辿った時間線が残っているとは限らないのだから」

「答えはもちろん決まってますよ、テトラモルフ。僕が追いかけるのは、フィートだ」

「了解した、アクト・リーメル。では、君にはフィート・ディクロースが時空移動していった、今より未来のアルドビルデへ向かってもらう」

「あの時の漆黒の霧が、フィートを未来へ移動させたという事ですか。そんな簡単に時間を超越してしまえるものなんですかね」

「いや、それは間違いだ。時空を移動するのには我々の承認がない限り、誰であろうと不可能だ。それが神や天使であろうと、悪魔であろうともね」

「そうなんですか。僕にはまだよくわかりませんが」

「そろそろ、出発してもらうよ、アクト・リーメル。君の〈想いの力〉がフィート・ディクロースを救い出せるほどに、純粋で強烈であればいいのだが」

 アクトの視界がぼやけて薄れてきた。テトラモルフの声も不明瞭で聞こえなくなっていく。アクトの意識はその場から消失した。


 気付くと、さっきまでテトラモルフと一緒にいた白い空間の場所とは異なり、背後に森が広がる草原に立っていた。これが時空移動なんだろうけど、本当に時代を渡ってきたんだろうか。視線を落として、アクトは自分の姿を確認した。黒い長袖シャツを腕捲りし、黒い長ズボンを履いて、靴は黒いショートブーツ。左腰には白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドが括られている。右腕に流れていた白銀血は無くなっていて、傷口には瘡蓋ができていた。

 突然、遠くから興奮した喚声が上がって、アクトは前方をさっと見据えた。見た事のある光景に、アクトの全身にぞわっと鳥肌が立った。草原の緑の中に、無数の黒い点が群がって、所々では赤い火の手が上がっている。戦が行われているのに嫌な予感がして、アクトはその場を蹴って駆け出した。

 アクトの左肩の上の空中に、白銀の光に包まれた書物が出現し、独りでに本は開かれた。アクトの〈想いの力〉パスト・テンスが発動し、凄まじい速さでアクトは戦場へと近づいていった。アクトが近づくにつれ、向こうから数人の者達がこちらへ向かってくるのが見え始めた。お互いの距離はすぐに縮まっていき、アクトはその者達の一人がフィートだというのに気付き、再び鳥肌が立った。相手はフィートを含めて四人だった。フィート以外の者達は見た事が無かった。二人が女性で、一人が男性のようだった。赤い髪の女性と黒い髪の女性、それから中性的な顔をした黒い髪の男性。

「アクト。どうして、お前がここに?」

 フィートの低い声にびくりとして、アクトはフィートを凝視した。青い長髪と、獣人族特有の太い腕と尻尾、背中に括られている大剣は記憶のままだった。でも、フィートは変わっていた。黄色い瞳はアクトを鋭く睨みつけていたし、小さな牙が出てる口は片方に吊り上って歪み、笑みを浮かべる事を忘れてしまったようだった。

「フィートこそ、どうして、ここに? 僕はここに、フィートを追ってきたんだ」

「追ってきた、ということは、テトラモルフに送り込まれたということか。何しに来たんだ、アクト。ここではお前は必要とされてないぞ」

「フィート。僕はフィートを助けに来たんだ。フィート。生きてて本当に良かった。だから、僕と一緒に帰ろう。僕等のいるべき場所へ」

 そう言って、アクトはフィートに一歩近づいた。途端にフィートが凄まじい速さで背中の巨大な剣を抜いて、アクトに切っ先を向けた。

「アクト。俺はもう帰るつもりはない。それに、帰る場所も無くなった」

 アクトは自分に突きつけられた大剣を一瞥し、フィートに視線を戻した。フィートの背後にいる二人の女性も剣を構えていた。フィートがここへ移動してから今までで、色々とあったみたいだ。

「じゃあ、フィート。戻らないんだとして、一体どうするつもりなんだ?」

「お前には関係ないんだがな」 

 フィートは眉を顰めた。

「世界の善悪を見極め、生きてる価値もない愚かなクズどもを始末してやる。わかったら、邪魔するな、アクト」

 フィートは剣をしまい、踵を返した。姿はフィートに間違いなかったけど、言動はまるで別人だ。フィートもエレボスとの戦いで変わってしまったんだ。アクトはフィートの説得を諦めなかった。

「フィート。フォルティナが死んだのに、責任を感じてるのか?」

 フィートがさっと大剣を抜き、アクトに斬りかかった。アクトの〈想いの力〉パスト・テンスが発動し、アクトが凄まじい速さでフィートの振り下ろされる大剣を白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドで受け止めた。ガキンと金属音が鳴り響く中で、フィートはアクトを睨みつけた。

「勇者の力がどれほどか、前々から興味があったんだ」

 フィートの頭上に、漆黒の光に覆われた書物が出現し、パラパラとページが捲られた。フィートの〈想いの力〉罪狩りが発動した。同時に漆黒のオーラがフィートの身を覆った。フィートが大剣を横薙ぎにして攻撃する。アクトは白銀剣で受け止め、白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドの力を解放し、フィートに魔術を放った。右手甲に刻まれた赤黒い刺青に意識を集中し、魔術発動の為に小声で呪文を呟いた。

「aurora」

 フィートの体をオーロラが包んで身動きを封じた。アクトは包み込むオーロラに向かって指で十字を切った。乳白色のオーロラが十字にスパッと分断され、そのままフィートを強烈な十字形の衝撃波が襲う。オーロラを透かしてフィートの体から血飛沫が上がるのを見て、すかさずアクトは飛び出して追い討ちに出た。白銀剣を振りかぶり、思い切りフィートに振り下ろす。今のフィートを止めるには気絶ぐらいさせないと無理かもしれない。ガキンと金属音が鳴り響き、アクトの白銀剣はフィートには届かなかった。フィートは無傷でアクトの攻撃を受け止めていた。アクトは驚いてフィートの全身に目を凝らした。絶対防御不可能なはずなのに。可能性として考えられるのはフィートの〈想いの力〉だった。漆黒のオーラがゆらゆらとフィートの体を覆うのを見て、アクトは苛々してフィートの大剣を振り払った。フィートが漆黒の側に染まってしまったのは見てわかるが、受け入れたくなかった。全てエレボスとの戦いのせいだ。そう思うと、アクトの〈想いの力〉は強く増していった。アクトは一瞬でフィートの背後に移動して、同時に既に振りかぶっていた白銀剣を振り下ろした。フィートが衝撃で前のめりになる。アクトはとてつもない速さでフィートの正面に移動し、白銀剣を横薙ぎにした。フィートの脇腹に直撃し、フィートは膝をついてかがみこんだ。どうして声一つ上げないんだろう。攻撃の感触は確かにあったし、直撃しているのに、どうして。フィートが何事も無かったかのように俯いていた顔を上げ、アクトを見据えた。どうにかして、攻撃を無効化しているみたいだ。けど衝撃が与えられるなら、続けるしかない。アクトは覚悟を決めて、思い切りフィートに白銀剣を振り下ろした。ガキンと大きな金属音が鳴り響いた。受け止めたのはフィートではなかった。アクトはギョッとして、その場から跳躍で離れ、新たな敵対者を見渡した。フィートを守るようにして、多くの者達がアクトの攻撃を防ぎに集っていた。さっきまでフィートの背後にいた男一人と女二人。それから九人の黒いローブ姿もいつの間にか現れて、アクトとフィートの間に立ちふさがっていた。

「エノキアンが……どうして……。フィートを守ったっていうのか……」

 複数の敵対者を見据え、アクトは更に速度を上げて、フィートに攻撃を仕掛けた。だが十二人の敵に遮られて、フィートには届かなかった。

「お前の相手はもう終わりだ」

 フィートの呟きが聞こえたと思ったら、相手の姿が不鮮明になり、その場からフィート達は姿を消してしまった。目の前からフィートが姿を消すのは、これで二度目だ。もっと自分に力があれば、こんなことにはならなかったはずだ。気付くと、あたりは静寂に包まれていた。戦いは終わったみたいだった。新たな仲間が必要だった。エノキアンとフィートに対抗しうる手段として、純粋な思いやりによって生じる〈想いの力〉の適格者を見つけなければ。フィートとの次の戦いのチャンスに向けて、準備を進めないと。テトラモルフと話して計画を立てる必要があったし、アメルスに向かうに関して、あらかじめテトラモルフと打ち合わせし、アメルスの防衛機能の対処を講じる必要もあった。

 アクトはテトラモルフの力も借りて、〈想いの力〉の適格者を三人見つけた。アクトは白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドの力を解放させ魔力を高めた。右手甲の刻印に意識を集中し、呪文を唱える。

「spatium」

 呪文が発動し、アクトは彼等を仲間にする為に、空間移動した。


 黒髪の少年は町の近くの森にいた。黒い瞳と整った顔立ちをした白い肌の少年は簡素な布の普段着を着て、薪を腕に抱えていた。そこで少年アクト・リーメルは、白銀剣と出会った。アクトが薪を集めていた時、突然、目の前にまばゆい光が出現した。その閃光の白い輝きの中に、黒いシルエットとなって剣が浮かび上がった。アクトは何が何だかわからず、立ち尽くしていた。何か特別な魔術でも発動したんだろうか。白銀の輝きは次第に落ち着いていき、光が消失すると空中に浮かぶ剣が残った。鞘も柄も白銀に輝く白い剣だった。これは何か魔力が込められた特別な剣だ。アクトは白銀の剣に見惚れ、思わず手を伸ばしていた。剣を手にした瞬間、アクトに情報が流れ込んできた。それは白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドだった。白銀剣の担い手の姿とその戦いぶりのイメージが目の前に広がる。黒髪の女の人が白銀剣で次々と魔物を切り倒していた。凄まじい早さと強さだった。女性は戦争の最中で戦っていた。次々と現れるイメージは突然終わって、アクトは自分が森にいたことを思い出した。アクトは驚嘆の眼差しで白銀剣を見つめた。幻惑でなかったら、この剣はとてつもないものだ。アクトは薪と白銀剣を両脇に抱え、町に戻っていった。

 町に戻ると、大国アルドビルデの使者がもたらした魔王討伐隊募集の話で騒がしかった。大声でアクトに近づいてくるのは青い髪の獣人フィートだった。親友のフィートはいつも元気で、でもしょっちゅう何かで怒ったり感情の起伏は激しかったけど、一緒にいていつも飽きない友人だった。フィートはいち早くその知らせを持ってきて、応募しようと喚き立てた。

「おい、アクト、フォルティナ、知ってるか? とうとう俺達の町にもアルドビルデからの兵隊募集の知らせがやってきたんだぜ。アクト、もちろん応募するよな?」

「ちょっと待ってよ、フィート。まず僕達にその資格があるの?」

「年齢、性別問わず。魔王討伐の強い意思がある者求む。どうだ、資格ならばっちしだろ」

 フィートが見せびらかすポスターには、間違いなくそう書かれていた。

「よし、応募しよう、アクト。一緒に討伐隊に参加しようぜ」

 アクトは興奮するフィートを見て躊躇っていた。フィートの隣にいたのは、同じく親友のフォルティナだった。フォルティナは栗色の綺麗な髪の毛を長く伸ばしていて、笑顔が可愛い優しい女の子だった。でも、時々フォルティナは頑固でわがままな一面もあった。フォルティナがフィートのポスターを手にとって眺めた。

「ねえ、フィート。私も参加するわ」

「はっ?」

 アクトとフィートが同時にフォルティナを見つめた。すぐにフィートが笑い出した。

「おいおい、フォルティナ。お前に何が出来るっていうんだよ」

「うるさいわね、フィート。私も町を出てアルドビルデへ行きたいの!」

 フィートの頭を叩いて、フォルティナはフィートを黙らせた。それからアクトに顔を向けて、問い掛けの視線を送った。

「もう、フォルティナがそう言うんなら、行くって事でしょ。わかったよ。じゃあ、僕達三人で討伐隊に参加しよう」

 フィートとフォルティナの歓声が上がった。どうせ門前払いを食らうだけだ。アクトは盛り上がる二人をよそに、淡々とアルドビルデへの出発の準備を進めた。どうやらフォルティナの両親も同じ考えを抱いたようで、娘の出発を許したみたいだった。人生経験も未熟、戦闘経験も皆無な若造の応募者を誰が魔王討伐隊に選ぶだろうか。そもそも戦士なんてほぼいないこの町に、何で今更応募が来るんだろうか。まあ、すぐ近くのアルドビルデまで行くなら安全だし、結局討伐隊に選ばれず戻ってくるんだから、ちょっとした遠足みたいなものだ。アクトとフィートとフォルティナはアルドビルデに向かって出発した。町の近くの森を抜け、そこから広がる草原を進むと、次第に灰色の壁が見えてきた。アルドビルデの四方を囲む石の壁だった。アルドビルデに近づくにつれ、草原の道も横に広がり大きくなり、往来者も増えていった。見ると、荷馬車を引く商人もいれば、旅行中の子供連れの家族、これ見よがしに武器を携えた物騒な集団もあった。アクト達は壁に設けられた検問所で討伐隊応募を伝えて、壁を通過することが出来た。

 防壁の中の喧騒は、自分の町とは大違いだった。活気のある人の波を縫って、両脇に並ぶ商店の間にある立看板の矢印の方へ進んで行く。突き当たりの建物の壁面に、目を引く姿があった。それは女性の吟遊詩人だった。白い半袖の服と緩やかなひだのあるスカートがつなぎになっている見慣れない格好、不思議な音楽が妙に気になった。黒髪を肩ほどまで伸ばした女性は、黒いリュートに似た楽器をトン・テン・シャンと奏でていた。

「こんにちは。小さな冒険者さん達」

 フォルティナが興味津々で女性の楽器を眺めた。

「こんにちは。綺麗な曲ですね」

「ありがとう」

 フィートが不思議そうに吟遊詩人の周囲を見回した。往来が多いのに、T字路の中心部は開けていて、まるで吟遊詩人を避けているかのように見えた。女性は面白そうにフィートの方を見た。

「もう聞き飽きられちゃったかしらね。さて、あなた達も、魔王討伐隊志願者なんでしょ」

 アクト達が頷くのを見て、シャン・シャンと吟遊詩人が楽器を打ち鳴らした。

「もう一度戻れるのなら、あの白き世界へ

手放された今も、君の為に解放を祈るよ

訪れた安息、けどそれは仮初に過ぎない

もう一度闘えるなら、あの黒き輝きと

縛られている今も、君の大切なものを守るよ

いつか来る再会、いつまでも君の笑みと共に」

 アクト達が拍手すると、吟遊詩人はニコリと笑った。

「さあ、もう選考の時間よ」

 そう言って、右に曲がった先を指差した。アクト達は礼を言って、小走りでその場を後にし、そのまま案内の通りに討伐隊応募の会場へと向かった。

「なあ、フィート。僕達、場違いなんじゃないか」

 石畳の広場にいる応募者達は誰もがいかつい武器を装備していて、腕に傷跡があったり防具に血痕が残っていたりと見るからに戦闘経験が豊富そうだった。

「いいか、アクト。見かけで判断すんなよ。俺達だって、それなりにやれるさ」

「本気で言ってるのかよ」

 アクトは改めて自分達の姿を眺めて、ため息をついた。自分達が着ているのは布製の普段着だったし、フィートの武器は安物の片手剣で、フォルティナは武器すら持っていなかった。アクトが布で包んで隠し持っていた白銀剣だけが、他の応募者に唯一対抗できそうだった。

「おい、餓鬼がなんでこんなところにいるんだ」

 下卑た声と共に、応募者が三人近づいてきた。どれも太った巨漢で、野蛮そうだった。

「はは、女がいるぞ、女が」

「ねえ、君、俺達と一緒に来いよ」

 一人がニヤニヤしながらフォルティナの腕を掴んだ。

「やめて! 離してよ!」

 フォルティナは腕を振り回して必死に抵抗したが、悪漢は万力のようにフォルティナを掴んで放さなかった。三人のデブ達は嫌らしい笑い声を上げた。

「おい、フォルティナを放せ。クソデブ野郎」

 フィートが剣を悪漢に突きつけた。悪漢達は顔を見合わせ、再びゲラゲラと下卑た笑い声を上げた。フィートは舌打ちを打って、悪漢に襲い掛かった。フィートの剣は相手に易々と掴まれ、そのまま剣もろともフィートは投げ飛ばされてしまう。起き上がろうとするフィートの顔面を悪漢は足で踏みつけた。

「やめなさいよ、あんた達! 最低だわっ!」

 フォルティナの罵倒にも悪漢達はニヤニヤと笑うだけだ。

「おい、てめえら。ふざけやがって」

「うるせえ、餓鬼だな」

 悪漢はフィートの顔面を更に地面に踏みつけて黙らせた。悪漢の一人がアクトに近づいていった。

「お前は何もしねえのか。お前達みたいな餓鬼が何の役に立つっていうんだ。討伐隊に参加出来るわけねえだろ」

「まあ、女は別だがな」

 フォルティナを掴む悪漢がフォルティナに顔を近づけ、嫌らしい笑みを浮かべた。それから、悪漢達はフォルティナを連れてその場から離れようとし始めた。

「放してよ、放してってばっ! やめてっ!」

「フォルティナを放せっ!」

 アクトの大声に悪漢達が振り返った。アクトは悪漢達を睨みつけた。

「お前達みたいな悪党だって、魔王討伐隊に相応しいとは思えない。お前達だって、討伐隊に選ばれはしない」

 相手の思わぬ反抗に、悪漢達三人は顔を見合わせた。次第に募ってきた怒りで悪漢達は顔を赤くして、アクトに近づいていった。

「ふざけたこといいやがって、クソガキがっ!」

「俺達とお前のどっちが討伐隊に相応しいか、今ここで試してやるよ」

 目の前に立ちはだかった巨漢二人が剣を抜くのを目の当たりにして、アクトは恐怖で震えだしていた。フォルティナとフィートに酷いことをされて思わず反抗してしまったけど、どうやっても大男二人を相手に出来るとは思えない。怖くて声が出せなかったから、アクトは心中で祈るように叫んだ。

(誰か助けて!)

 さっと周囲を見渡したが、誰も助けの手を差し伸べようとはしていなかった。

「思い知れ、クソガキがっ!」

 悪漢の剣が振り下ろされた時、何か不思議なエネルギーがアクトの全身を電撃のように駆け巡った。無意識にアクトは持っていた白銀剣を布から取り出し、攻撃を受け止めていた。アクトの持つ白銀剣は鞘に収めたままだったが、ほのかに白く輝きだしていた。

「何だ、その剣は」

 悪漢が再び攻撃してきた。振り下ろされる二本の剣を凄まじい速さで弾き返し、アクトは白銀剣を振り払って一人の脇腹へ強打させ、もう一人の悪漢には肩に思い切り振り下ろした。凄まじい衝撃に襲われ、悪漢は悲鳴を上げて地面に倒れこんだ。フォルティナを捕まえていた悪漢は地面で悶え苦しむ仲間を見下ろし、呆然とした。一体何が起きたのかわからなかった。あんなヒョロチビのガキの一撃なんて、大したことないはずだ。

「ガキがっ、ふざけやがってっ!」

 残っていた三人目の悪漢がアクトに襲い掛かった。アクトは振り下ろされる剣をさっと横に避けて、そのまま悪漢の背後に回って相手の首筋に白銀剣を叩き付けた。悪漢は痛みに絶叫しながら倒れこんだ。アクトは目の前に倒れる三人の悪漢達を呆然と見つめた。フォルティナとフィートがアクトの元に駆け寄ってきた。

「おい、どうしたんだよ、その剣? アクト、聞いてないぜ」

「アクト、ありがとう! でも、その剣、どうしたの?」

 見ると、アクトの握る白銀剣の輝きは次第に小さくなってやがて消えてしまった。

「アクト! お前、すごい動きだったじゃないか!」

「その剣光ってたけど、魔力でも込められてるの?」

 フィートとフォルティナが何が起きたのか次々と質問を浴びせてくるが、アクトは困惑していて答えられなかった。白銀剣は輝きを失っていたが、それでも握っている剣から力が流れてくるような感覚は消えていなかった。

 騒ぎを聞きつけたアルドビルデの兵士がアクト達の元にやってきた。話を聞いて、兵士達は悪漢達をその場から連れて行き、アクト達を討伐隊採用者達が待つ広場へと案内していった。アクト達は何が何だかわからず、採用に驚きながら待っていた。広場にアルドビルデ四騎士団の者達がやってきた。それぞれが白蛇、黒馬、赤鳥、青龍の刻印が刻まれた鎧を装備していた。四騎士団の登場に、広場の志願兵達はピタリと静かになった。四騎士団の鎧はそれぞれ象徴となる白、黒、赤、青の色で着色され、胸部に白蛇と黒馬と赤鳥と青龍が刻印されている。その場にやってきたのは各騎士団の団長で、どの騎士団長も独特なオーラをまとっていて集まった志願兵達を威圧していた。白蛇騎士団団長が張り詰めた静寂を破った。

「君達を魔王討伐隊志願兵として、アルドビルデは歓迎したい。世界各地で魔王の手下が暴れている。魔王は世界を征服するつもりなのか、それとも世界を滅亡させるつもりなのか。魔王に好き勝手にさせる筋合いは毛頭ない。兵を集め、魔王に立ち向かうのだ! 魔王の軍勢との戦争は近い。それまでにより多くの兵を仲間にし、各地で暴れている魔王の手下を打倒するのだ!」

 白蛇騎士団団長が喋り終えると、集められた志願兵達は武器を掲げて叫び声を上げた。白蛇騎士団団長の言葉こそ、志願兵達に与えられた任務だった。


 ベルンハルトは仕事斡旋所のギルドへ仕事を求めに向かった。ベルンハルトは茶色い髪の毛の長身の男で、刀を装備していた。木製のスイングドアを開けて、ベルンハルトはギルドに入った。ギルド内はR&BのBGMが流れ、仕事を求める者達の会話でざわざわしていた。仕事を求める者達は老若男女様々で、それぞれ求める仕事は異なっているようだ。中にはベルンハルトのように武器を携帯している者もいた。ベルンハルトはカウンターに向かい、俯いて書類と格闘しているギルドメンバーに話しかけた。

「すまないが、仕事を求めているんだ」

「了解しました。あなたの名前は?」

「俺の名はベルンハルト。求めるのは、教会関連の仕事だ」

 ベルンハルトの返答を聞いて、ギルドメンバーの女性はベルンハルトの顔をちらと見た。

「では、あなたがあのギルドメンバー、シュリンクの後継者という事ですか」

「……」

 ベルンハルトが何も答えないでいると、ギルドメンバーはため息をついた。

「了解しました、ベルンハルト。けど、あなた自身が一番わかっているように、新世界救済教会への派遣はとても厳しいの」

「頼む、どうしても俺は教会について知らなければならないんだ」

「了解しました。あなたはそれ以外の仕事を請けるつもりは無いみたいね。ギルドでどうにかしますので、あなたをひとまずドイツの教会本部に派遣します。あなたのパーソナルクレジットカードを提出してください。教会へのスペースサーフィン許可を登録致します」

「ありがとう。助かるよ」

 ベルンハルトはカウンターのギルドメンバーにパーソナルクレジットカードを手渡した。ギルドメンバーは受け取ったカードをリーダーに通し、ベルンハルトのカードに新世界救済教会ドイツ本部へ向かう転送許可を登録させた。ギルドメンバーはカードをベルンハルトに返した。

「何か準備するのであれば、行ってきて下さい。もし何も無いのであれば、ギルドのスペースサーフィンゲートから教会へ移動して下さい」

「大丈夫。準備は済んでいる」

 ベルンハルトはカードを受け取り、カウンター横の奥に設置されたスペースサーフィンのゲートへ向かった。ゲートのリーダーに自分のパーソナルクレジットカードを通すと、ディスプレイに赤いNew!の文字が光って、続けてドイツ教会本部の名前が表示された。タッチパネルのその文字を押すと、ディスプレイにPlease Waitの文字が点滅して表示された。すぐにゲートに不透明な揺らめく膜が出現し、ディスプレイの文字はHave a nice dayに変わっていた。ベルンハルトはゲートの揺らめく膜を通過して瞬間転送した。

 ベルンハルトがシュトゥットガルトにあるドイツの教会本部に瞬間転送すると、すぐに教会の者に誰何された。ベルンハルトはギルドの仕事で派遣されてきたと説明したが、教会側はそんなの聞いていないと主張した。教会の者がベルンハルトを逮捕しようという時、それを止めたのは賢人エディリルーヴァだった。

「やめなさい、お前達。彼はギルドから教会に派遣されてきたベルンハルト君だ」

 その声で、教会の者達はベルンハルトを掴んでいた手を放した。

「あんたは?」

「私はエディリルーヴァ。まあ、ついてきなさい」

 ベルンハルトはエディリルーヴァの案内で教会の中へ入っていった。チャペルを抜け、聖堂へと向かう。そこには例外的に多くの司祭が集まっていた。どうやらエディリルーヴァに集められ、待たされていたみたいだ。エディリルーヴァは至聖所の近くまで歩いていった。ベルンハルトは聖堂の入り口近くで立ち止まった。エディリルーヴァの長い金髪はオールバックになって背中まで垂れていた。色彩豊かな祭服を身にまとい、青い瞳で鋭くその場に集まる者達を眺めている。

「さて、諸君。教会は大きな転換期を迎えている。かつて全世界から見つけられた白銀血を宿す聖なる赤子達の中、選ばれた聖なる子は今や聖女となった。他の二人の赤子達は堕落する運命にあったのだ。それ故に、天使と悪魔に誘拐されてしまった。残られた一人こそ、選ばれた真正な聖女として、教会の象徴となった。悪魔の活動が活発となった今、我々は世界を混沌から救い出さなければならない」

 その場に集まったベルンハルト以外の全員が瞑目して祈りを捧げた。しばらくして司祭達が目を開け始めるのと同時に、ベルンハルトは自分を睨む視線を無数に感じた。

「そうだ、諸君に紹介しよう。そこにいるのは我々教会の助けとして悪魔討伐の戦いに参加してくれるギルドメンバー、ベルンハルト君だ」

 歓迎されていないのはすぐにわかった。微笑みを浮かべているのはエディリルーヴァだけで、聖堂に集まる全員が眉間にしわを寄せていた。

「賢人エディリルーヴァ様。どうしてギルドの犬なんかが、神聖な教会に足を踏み入れるのですか」

「そうです、エディリルーヴァ様。こんな罰当たりな者の手など借りずとも、我々教会の力のみで十分に忌まわしき悪魔どもを駆逐できるはずです」

 次々と司祭達から文句が飛び出てきた。エディリルーヴァは微笑みを崩さずに、手をヒラヒラさせて司祭達を静かにさせた。

「わかるよ、お前達。しかし、我々に必要なのは世界の救済ではないか。彼の力を借りる事を、神はけして反対しないはず。彼は十分に期待に応えてくれるだろう。そうだろう、ベルンハルト?」

 ベルンハルトはその問い掛けに肩を竦めるだけだった。

「ほう、お前の持っている刀からは異界のオーラが感じられるな」

 エディリルーヴァのその言葉を聞いた途端に、司祭達の罵詈雑言が一気にベルンハルトに浴びせられた。

「悪魔の刀だ!」

「悪魔の手先めっ!」

「この、人の皮をかぶった悪魔めっ!」

「諸君、静かにしたまえ。私は異界と言っただけで、魔界とは言っていないのだから」

 エディリルーヴァはピシャリと周囲を黙らせた。

「少し貸してくれないか、ベルンハルト」

 エディリルーヴァは微笑みながら手を前に差し出した。ベルンハルトは動かなかった。それを見て、再び周囲で悪態が飛び交った。

「どうした、私に刀を渡すのが怖いのかね」

 エディリルーヴァが穏やかに聞いてきた。ベルンハルトはハアとため息をついた。

「別に。ただ、俺以外は刀を抜けないだろうと思って」

 ベルンハルトはエディリルーヴァに近づいて、刀を手渡した。エディリルーヴァは受け取った刀を鞘から抜こうとしたが、案の定刀はビクともしなかった。エディリルーヴァに促されて、今度はベルンハルトが抜刀した。

「なるほど。では、試してもらおうか。準備をしてくれ」

 エディリルーヴァがそう言うと、教会の者が台車で鉄の塊を持ってきた。

「さあ、この鉄の塊を切ってくれ」

「わかった。切ればいいんだな」

 ベルンハルトは言われた通りに鉄の塊を切った。その場の全員が息を飲んだ。熱したナイフでバターを切るように、鉄は真っ二つに割れた。

「素晴らしい」

 エディリルーヴァが静かに呟いた。


 アクトとフィートとフォルティナは派遣部隊に配属され、魔王討伐軍として戦いに赴いた。部隊の他の一員達は誰もが戦闘経験があるようで、アクトは未だに気後れしていた。アクトとフィートは半人前で二人でようやく一人として数えられ、フォルティナはいてもいなくても一緒。そうやって部隊の者達に馬鹿にされていた。アクト達を含めた派遣部隊は支給されたアルドビルデ兵士の武具を装備して、魔王の手下が暴れている場所に向かった。大勢の魔物達が暴れまわっていた。部隊と魔王軍とがぶつかり合った。アクト達はお互いの背後を守りながら戦った。魔王の手下には異形の者が多く、あらゆる姿をしていた。毛むくじゃらの大きな狼のような魔物が奇声を発しながら襲い掛かってきた。フィートが魔物の心臓目掛けて剣を突き刺した。背後でフォルティナの悲鳴が上がった。アクトが振り返ると、岩のような肌をした一つ目の巨大な魔物がフォルティナに斧を振り下ろそうとしていた。再び、アクトの持つ白銀剣が覚醒した。白銀剣が白く輝き、アクトに力が流れ込んでくる。アクトは凄まじい速さでフォルティナの前に移動し、振り下ろされる巨大な斧目掛けて跳躍した。空中で白銀剣を振り払い、斧をはじき返す。思わぬ反撃に魔物は巨大な一つ目をギョロリと回してアクトを見据えた。動きが緩慢な巨大な魔物相手に、アクトは黙って見ていなかった。白銀剣から流れ込んでくる情報と力がアクトにどうすればいいかを教えてくれた。白銀剣が白く輝き出す。アクトは白銀剣の力を用いて魔術を放った。キィーンと音を響かせながら刀身が白銀に輝き、魔力が集約していく。アクトは一つ目の魔物目掛けて白銀剣を振り払った。白銀に輝く衝撃波が剣から放たれ、魔物の左腕を切断した。アクトは次から次へと白銀剣を振るって衝撃波を放った。魔物が絶叫する中、魔物の全身は白銀の衝撃波で切り刻まれ、無数の細切れが地面に散らばった。

「praesidium」

 アクトは素早くそう呟き、白銀剣の力でフォルティナとフィートに白銀に輝く保護膜を施し、自らは蠢く魔物の群れに飛び込んでいった。白銀剣は魔物を一振りで両断した。魔王軍の深くに入り込んで周囲に討伐軍がいないのを確認すると、アクトは白銀剣に力を込めて体を一回転させながら衝撃波を四方に放った。白銀の衝撃波はアクトを中心にしてどこまでも広がっていき、群がる魔物達を真っ二つに切断した。アクトの心配をよそに、衝撃波は討伐軍の人間達を傷つけることなく魔物だけを襲った。討伐軍の兵士達は必死になって相手していた魔物達がことごとく切り殺されている光景を目の前にして、呆然としていた。フォルティナの目の前では白銀に輝く保護膜に張り付いた巨大なトカゲ姿の魔物が両断されて、ずるずると地面にずり落ちていった。フィートは黒い翼が生えた人型の魔物と相対していた。黒翼の魔物の湾曲した剣はフィートの首筋近くまで近づいていた。アクトの衝撃波で両断されて動かなくなった黒翼の魔物は、ゆっくりと後方に倒れていった。ドサッと音がして、フィートは目の前の魔物の上半身と下半身が別々に地面に倒れこんでいるのに気付いた。この黒い翼を持つ魔物は知能が高く、動きも素早くて、強力な剣士だった。フィートは自分が死ぬかもしれないと思っていた。もし、あと少しアクトの衝撃波が遅く放たれていて、更に魔力の保護膜が自分を守ってくれていなかったなら。フィートは自分の力量不足、不甲斐なさに苛々して、それから自分に失望した。こんなんじゃ足手まといだ。俺だってどうにかして、アクトに追いついて戦ってやる。

 アクトの人並みはずれた強さを目の当たりにして、もはやアクト達に文句を言う者はいなくなった。


 ギルドメンバーとして新世界救済教会に派遣されたベルンハルトは、早速世界を脅かす悪魔の討伐に向かった。まずはドイツだけでなくフランスやイタリアの教会を巡り、助けを求める者達を悪夢から救っていった。教会の司祭と賢人エディリルーヴァが悩める信者達の話を聞き、邪悪な悪魔の正体を見極めると、悪魔が物質界に出現した。ベルンハルトはひとまず静観することにした。ベルンハルト達の目の前に出現したのは、実態のない低級悪魔の影でしかなかった。悪魔に対して、新世界救済教会の聖職者達は各自に瞑目して祈り始めた。奇蹟の力が発動すると、白銀に輝く光球が聖職者達の胸の前に出現し、蠢く悪魔の黒い影に向けて発射された。

「ひぎゃあああ!」

 悪魔の絶叫が響き渡り、白銀の閃光と共に黒い影は散り散りになって消え去った。黒い影が悉く消滅し、聖職者達が目を開け始めると、ベルンハルトはハアとため息をついた。もう終わりか。俺は必要なかったな。

「にひかおるおのおおオオオ!」

 信者の一人が絶叫しながら床を転げ回った。二人の聖職者が発狂した信者を床に押さえつけ、一人が顔面に、もう一人が胸に手を当て、祈り始めると白銀の光が発せられた。全身を捩って苦しみ出した信者の体から、角状の漆黒のオーラが無数に飛び出して、押さえつけていた聖職者二人をはたき飛ばした。エディリルーヴァがすぐ様負傷した一人に近づいた。黒い祭服の至る所が破れていて、出血で変色しており、意識はなかった。狂った信者の胸部から漆黒のオーラが盛り上がるようにして出てきて、悪魔の本質の一部が物質界に召喚された。全長2メートルほどの悪魔は全身が黒い剛毛でびっしり覆われ、二本の大きくて湾曲した角が額から二本伸びていた。ベルンハルトは腰に括ってある破滅の刀を手に取った。破滅の刀の鞘は白く輝いていて、光沢のある象牙柄はとてもなめらかだった。ベルンハルトが抜刀し、白く煌く細い刀身が露わとなった。黒毛の悪魔は大きくて丸い瞳をぎょろぎょろさせて、無感情にベルンハルトを見つめていた。教会に集った人々は遠巻きにして悪魔を眺めていた。唯一、エディリルーヴァだけがベルンハルトのすぐ後ろに立ち続けていた。ベルンハルトが刀を振りかぶって悪魔に飛び掛った。破滅の刀を思い切り振り下ろすが、悪魔はさっと横に動いてそれを避けた。黒毛の悪魔が魔術を放った。教会に並ぶ長椅子がベルンハルト目掛けて飛んでいく。ベルンハルトは刀で椅子を真っ二つに割った。すかさず悪魔の口から炎が飛び出してベルンハルトを襲った。ベルンハルトは刀を振り回して炎を拡散させた。気付くと、黒毛の悪魔が鋭い角を突き出して突進してきていた。ベルンハルトはさっと後方に跳躍しながら、悪魔の二本の角を刀で切り落とした。バランスを崩した悪魔が転んで床に突っ伏した。起き上がろうとする黒毛の悪魔の腕を切り落とし、顔を上げた悪魔の首を刀を振るって切り落とす。ベルンハルトは破滅の刀を納めて、踵を返した。エディリルーヴァが死んだ悪魔の元へ近付いていった。エディリルーヴァはしゃがむと、黒毛の悪魔の切り落とされた体の切断面をまじまじと眺めた。滑らかな切り口から、今になって悪魔の体液が噴出し始めた。司祭達が慌ててエディリルーヴァに近付き、壊れた椅子や燃える絨毯の片付けに取り掛かり、黒毛の悪魔の死体の回収を始めた。

 エディリルーヴァは立ち上がり、首を振ってため息をついた。

「よもや、教会に悪魔の実体が出入りする時代が訪れるとはね」


 アクトとフィートとフォルティナは魔王の軍勢と戦い続けた。アルドビルデの討伐軍の中で、アクトが所属する部隊は絶対に敗北することはなかった。

 魔物の軍勢を目の前にして、アクトは白銀剣の力を解放させた。白銀の輝きが剣から放たれると、一斉に魔物達がアクトに襲い掛かった。アクトが剣を一振りすると、凄まじい衝撃波が魔物達を襲った。それでも群がる魔物の勢いは止まらなかった。アクトは白銀剣を天空に掲げ、腕を回して空中に円を描いた。白い光の輪が出現し、輪は空高く浮かび上がると無数の光線を地上へ発射した。光の矢の雨は容赦なく魔物達に突き刺さり、魔物達の動きを止めた。光の矢を逃れた魔物をアクトはすぐさま見て取り、白銀剣で両断していった。フィートも生き残った魔物を見つけ、襲い掛かった。アルドビルデに特別に製作してもらった自分の背丈以上の長さの大剣を背中から抜き、フィートは思い切り横に振るって魔物の胴体を真っ二つにした。獣人族の有する凄まじい膂力が開花し、フィートは巨大な剣を自在に操って魔物を倒していった。部隊の他の仲間も、アクトの放った光の矢を逃れた魔物の残党を倒していった。累々と積みあがった魔物の死体の中に黒いローブ姿が一人出現し、アクトは眉根を寄せた。戦場にあんな黒いローブ姿があっただろうか。黒いローブ姿が突然凄まじい速さでアクトに近付いてきて、ローブから黒い剣を取り出して襲ってきた。フィートも黒いローブ姿に気付き、アクトの元に駆け寄って黒いローブ姿目掛けて大剣を振り下ろした。黒いローブ姿は更にもう一本の剣を取り出し、片手でフィートの大剣を受け止めた。アクトもフィートも驚いて目を丸くした。黒いローブの奥から静かな男の笑い声が聞こえてきた。

「驚いているようだな、アクト・リーメル、フィート・ディクロース。だが、私の方こそ驚きだよ。私の動きを見て取り、速さについてこれたのだから」

「あなたは何者ですか? 人間なんですか?」

「私はメリジム。貴様等の敵対者だよ」

「ふざけるな、お前。ローブを脱いで姿を見せやがれ」

 フィートの言葉に対し、メリジムは嘲笑するだけだった。フィートは大剣を引いてメリジムの脇腹目掛けて振り払った。メリジムは片手で大剣を受け止め、もう片方でフィートの胸を切り払った。フィートは悲鳴を上げて、後方に倒れこんでしまった。防具が切り裂かれ、フィートの胸に血が滲んだ。

「フィートぉぉー! よくもやったなあっ!」

「さあ、見せてみろ。白銀剣の担い手である勇者の力」

 黒いローブ姿のメリジム目掛けて、アクトは白銀剣を振るって光の矢を放出させた。メリジムは両手に持つ剣を凄まじい速さで動かし、無数に放たれる光線を消滅させた。その隙にメリジムに近づいたアクトは、思い切り白銀剣を振り下ろした。メリジムが二本の剣を交差させて白銀剣を受け止めると、ガキンと大きな金属音が響き渡った。アクトは間髪いれずに白銀剣で次々と切りかかった。メリジムは全てを受け止めて防いだ。それからメリジムは大きく後方に跳躍して、アクトから距離を取った。戦場を見渡し、栗色の長い毛の女を見つけ、ローブの奥でにやりと笑った。メリジムはフォルティナ目掛けて走り始めた。アクトはメリジムの行動に一瞬戸惑い、メリジムの向かう直線状にフォルティナがいるのに気付くと、自分もすぐにフォルティナの方へ走り始めた。アクトは一歩遅かった。アクトの目の前でメリジムの両手の剣がフォルティナに振り下ろされた。

「フォルティナーッ!!」

 アクトは絶叫しながら白銀剣を突き出し、メリジムの凶刃からフォルティナを守ろうとした。座り込んだフォルティナは呆然と襲い掛かる剣を見つめていた。斬撃がフォルティナに直撃する瞬間、フォルティナの全身から強烈な光が放たれ、周囲が真っ白に染まった。フォルティナは白銀の輝きに包まれていた。アクトの持つ白銀剣も強く輝きだし、キィーンと甲高い音が響き始めた。フォルティナが輝く白銀剣に手を伸ばした。白銀の光が爆発し、アクトとフォルティナの意識は消失していった。


 アクトもフォルティナも夢を見ている感覚だった。

「僕達に一体何が起こったんだ……」

「ここは、どこなの……?」

 気づくと、アクトとフォルティナは異質な空間にいた。地面も空も暗く黒く、それはどこまでも果てしなく続いていた。暗黒な世界を見渡すことができたのは、空から絶え間無く降り注ぐ微細な粒子が白く光っていたからだ。その粒子はまるで光る雪のように空中を浮遊し、地面に降り積もっていた。アクトが足を踏み出すと、降り積もる光の雪にくっきりと足跡が残った。数メートル先に、一段と光り輝く場所があった。そこは光る雪が周囲よりも多く積もっているようだった。光に照らされて、一人の人影が見えた。アクトとフォルティナは互いに頷き合い、その人影に近づいて行った。密集する光の粒子を見つめていたのは、黒いニット帽を被った男だった。

「あの、ここは一体何なんですか? 僕達は一体?」

 男はアクトとフォルティナに背を向けて立っていて、すぐには答えなかった。男が振り返る瞬間、アクトは奇妙な物を目にした。ニット帽の男の向こう側で光の粒子が凝縮して直径10cmほどの円形を形成し、その円の内部に何かの光景が映し出されていた。しかもその円状の粒子の集合体は一つだけではなく、四つあった。四つの光る円にはそれぞれ別の映像が流れていた。アクトがニット帽の男に視線を戻すと、男の黒い瞳が怪しく光った。

「どうやら〈時空の彼方〉に迷い込んだようだな。勇者アクト・リーメル。聖女フォルティナ・ラストア」

 アクトとフォルティナはハッとして、眉を顰めてニット帽の男を見つめた。

「どうして、僕達の名前を知ってるんですか?」

「あなたは、一体何者なの?」

「意図せずして〈時空の彼方〉に辿り着いたのは、君達二人のポテンシャルの高さを裏付けているし、何やら奇妙な運命すら感じられるよ。だが、何も知らずに到達した者に、果たして何を語ればいいのだろう。何を説明したところで、現段階では何も理解できまい。無理解を覚悟で教えたとしても、結局は無為だな。何も知らないのであれば、何も知らずに帰ってもらわないとならない。それが〈時空の彼方〉の訪問者の前提だから。でないと、世界のバランスは容易に崩壊してしまうし、そもそもそれを未然に防止するのが〈時空の彼方〉の存在意義なのだからね。ともあれ、〈時空の彼方〉から去るというなら、時空の監視者として、この空間の規則と規制により君達の記憶を消さないとならない。覚悟と準備が整ってからの再訪を待っているよ。アクト・リーメル。フォルティナ・ラストア」


 気付くと、アクトはベッドに寝ていた。朦朧とする意識の中で何が起きたのか考えようとするが、頭痛が酷くて何も思い出せない。ベッドカーテンを開いてフィートがやってきた。

「気付いたか、アクト。心配したぜ」

「ああ、フィート。一体、何があったんだ?」

「覚えてないのか、アクト。戦場でメリジムとかいう黒ローブ姿が襲い掛かってきてさ」

「そうだ、フィートは大丈夫だったのか?」

「ああ、俺は何とか浅い傷で済んだみたいだ」

「じゃあ、フォルティナは? フォルティナはどうなったんだ?」

「大丈夫、安心しろ、アクト。お前と同じで気を失ったみたいだが、命に別状は無い。もうすぐ目覚めるんじゃないかな」

「良かった。みんな無事で」

 アクトはベッドから降りて白銀剣を手に取り、フィートと一緒に部屋を出た。フォルティナの病室へと向かう。病室のドアをノックすると、中からフォルティナの声が返事した。部屋に入ると、ベッドカーテンは開かれ、フォルティナはベッドの上で上体を起こして食事していた。

「アクト。フィート。二人とも大丈夫そうね」

「何だよ。心配して来てみたら、お前は呑気に飯かよ」

「うるさいわね、フィート」

「良かったよ、フォルティナ。無事だったんだね」

「うん。ありがとう、アクト」

 アクトが意識していないのに、白銀剣が白く輝きだした。すると、フォルティナの体が白銀の輝きで包まれた。フィートがびっくりして、アクトとフォルティナを交互に眺めた。

「何だよ。一体、どうしたっていうんだ、二人とも」

「これは……。僕は何もしていないのに、白銀剣が……」

「私、どうして、こんな光が」

 フォルティナが呟いた瞬間、情報が流れ込んできた。黒髪のショートカットの女性が鎧を装備して、軍勢の先頭に立っていた。その手には白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドが握られていた。彼女は白銀血を持つ者だった。白銀血を持つ女性は隣に立つ白いローブ姿の褐色の髪の男に何かを話しかけた。すると、二人は笑いあい、そして口づけを交わした。イメージはそこで途切れ、フォルティナは心配そうにこちらを見つめるアクトとフィートの顔に気付いた。フォルティナは静かに呟いた。

「私に白銀血が発現したみたい。だから、こんな光のオーラが現れるのよ」

 フォルティナの全身を包む白銀の輝きは、次第に落ち着いていき消えていった。アクトの白銀剣も輝きを失っていた。フィートは気まずそうにアクトとフォルティナを見ていた。


 ベルンハルトはエディリルーヴァに呼び出されて、ドイツのフランクフルトにある教会の一室にいた。茶色いスーツを着て、腰に破滅の刀を括りつけたベルンハルトの姿を見て、エディリルーヴァは自分が座っていたソファの向かいにあるソファに座るように手で促した。

「早速なんだが、ベルンハルト。各国の政府がマリア様の来訪を願い出ていてね」

「どうしてそんな事を今更俺に話すんだ? どの国も一緒だろう。聖女に花束贈って、パーティーに誘い、教会のご機嫌を取る。だから、教会はマリアの所属をどこにも置かず、聖女が定住することは無いんじゃなかったのか」

「違うんだ。そうじゃないんだよ、ベルンハルト。各国は本気で不安になっているんだ。悪魔のせいで」

「悪魔だって? ハッ、それがどうしたって言うんだ。ヨーロッパにもアジアにも、大西洋だろうが太平洋だろうが関係なく悪魔は出没してるじゃないか。何を心配してんだ、今更」

「ここ最近、悪魔の影だけでなく、悪魔の実体出現の報告事例が増加している。さらに低位だけでなく、出現悪魔のレベルは徐々にあがってきている。問題になっているのは、そこらにいる低位の小物とはわけが違うという点だ。階層ピラミッドにおいて、限りなく頂点に近い高位の悪魔が出現したようなんだ。わかるか、ベルンハルト? 私が言っているのは、神話で物語られるような悪魔の事だ」

 ベルンハルトはそこで眉を顰めた。

「どこにそんな悪魔が現れたって言うんだ?」

「中国だよ。襲われたのは米軍の兵士達だ」

「殺されたのか?」

 エディリルーヴァはオールバックの金髪を掻き揚げて首を振った。

「まあ、そうなんだろうが、私が連絡を受けた時、大司教は多くを語らなかった。これからマリア様と共に中国へ向かう。君も付いてきてもらおう」

 エディリルーヴァは立ち上がり、ベルンハルトに黒いコートを手渡した。ベルンハルトは茶色いスーツの上にそのコートを羽織り、黒いコート姿のエディリルーヴァの後についていった。エディリルーヴァは準備中の聖女マリアの元に向かった。

 ベルンハルト達は教会の中にあるスペースサーフィンゲートへと向かった。ベルンハルトがリーダーにパーソナルクレジットカードを通すと、新たに赤い文字で中国教会支部が追加されてディスプレイに表示されていた。ベルンハルトはそれを押して、ゲートの準備が済むと、揺らめく不透明な膜を通過し瞬間転送した。

 聖女マリアは金髪を肩まで伸ばし、雪のように白い肌をした美しい女性だった。マリアは白地に金糸で装飾が施された祭服を着ていた。ベルンハルトとマリアとエディリルーヴァは教会内の広い通路を歩いていた。時折すれ違う司祭や祈祷者に会う度に、マリアは笑顔で対応し、真摯に話を聞いていた。無遠慮にじろじろとマリアを眺めるベルンハルトに気付き、エディリルーヴァはにやりとしてベルンハルトの肩をぽんと叩いた。

「聖女は新世界救済教会の現人神そのものだし、その地位に相応しい品格と風貌で世界中の人々から愛され、マリア様の神聖さに畏怖する集団もいるほどだ」

「そうか、エディリルーヴァ。それで、実際に中国で一体何が起きたって言うんだ? テロ、ジェノサイド、ジハード、呼び方はどうだっていいが、悪魔によるものなんだろ? 今は米中共に対応対策に追われて悲鳴を上げているところか。表向きは肘掛け椅子に踏ん反り返って、いかにも問題なしと澄ました顔して取り繕っているんだろうがな」

「二つ言っておこう、ベルンハルト。一つ、教会の極めて重要な問題をところ構わず喚き散らさないこと。二つ、世界各国の政府を軽々しく扱わないこと」

 ベルンハルトはエディリルーヴァの叱責を無視して続けた。

「俺はこれからその〝教会の重要な問題〟に巻き込まれるわけだよな。少しぐらい事情を知っていても悪くはないと思うが」

「申し訳ないが、ベルンハルト。私も詳しくはわからない」

「あんたの意見を聞かせてくれ。あんたはどう考えているんだ?」

「世界各国で頻発しているスペースサーフィンの失踪事件について、互いに責任を擦り付け合い敵対している米中の現状として、どうにか事件の解決と相手国の確固たる証拠を見つけたいところだ。そこで両国は和平と銘打ち、表向きは信頼と友好の証として親睦隊を派遣したが、実質的には彼等は駐屯兵。悪魔に襲撃されたというのは、中国に駐屯するアメリカ兵だった。私が聞かされているのはここまでだ。私が思うに、被害はまだこんなものじゃない。米中に関して言うなら、被害は米国の中国駐屯兵でもあって、両軍が襲撃されたんだろう。でなければ、戦争が始まっていたはずだ。悪魔の襲撃だと両国が納得できた理由はそう考えられる。ここまでは国家間の問題だ。我々にとっての問題は、この被害をもたらした悪魔がどんな奴なのかって事だよ。悪魔も天使もその存在は偶像的象徴的で、実在し得ないというのが一般の解釈だ。かつて栄えたキリスト教他多くの宗教は、実際に存在を主張してきた天使や悪魔達によって滅ぼされたわけだが、キリスト教世界においても現在と変わらず、その暗黙の了解はあった。今回の事件に関わっている悪魔は、これまでの悪魔とは違う。人間を弄ぶのではなく、明確な理由があって人間を襲ったんだ」

「そうだな。天使も悪魔も高慢でむかつく奴等だが、教会との調停書によって争いを避けようと人間との取り決めが定められているわけだし、犯人はよほどの馬鹿か、自殺願望者ってところか。そう単純じゃないとしたら、立派な行動理念に基づいて動く相当な力を持った狂人という事になるがな」

「何者にしろ、教会が対処しなければならない事になっているようだ。我々がどうにかしなければな」

 ベルンハルトがマリアに視線を向けた。マリアの顔は不安で青ざめていた。白い顔が病的に青くなっている。

「おい、大丈夫か、お前?」

「ええ、ごめんなさい。ちょっと気分が悪くて」

「大丈夫ですか、マリア様? 水でも飲みますか?」

 マリアがエディリルーヴァからペットボトルを受け取り、口に運ぶ。こんな弱々しい少女が世界各国から聖女としての責任を負わされているのかと思うと、ベルンハルトは胸糞が悪くなった。世界も教会も、聖なる血を受け継ぐマリアに期待していた。ベルンハルトにはマリアの聖なる血が哀れに思えて仕方なかった。聖なる血脈は祝福であると同時に、雁字搦めの呪いにもなり得る。まったく、忌まわしい世の中、憎らしい教会だ。

「さて、俺達はどうするんだろうな?」

「それは教皇聖下が判断することだ。大丈夫ですか、マリア様?」

 エディリルーヴァがマリアを介抱しつつ、ベルンハルト達は奥へと向かった。ベルンハルト達に一人の武装した男が近付いてきた。帯刀し、胸当てをしている。

「ご無事で何よりです。マリア様。エディリルーヴァ様。教皇聖下がお待ちです」

 男は道を開け、ベルンハルト達を奥へと促した。ベルンハルトは男が睨みつけているのに気付いた。まったく、どこでも厄介者扱いだ。ベルンハルト達は通路の先にある小階段を上り、天使と悪魔が握手している彫刻が施された鉄扉から中へと入っていった。室内は形式的な広間ではなく、プライベートな小部屋だった。侍従に促されて、ベルンハルト達はソファに並んで座った。テーブルを挟んで座っているのは教皇で、その背後にそれぞれ侍女と近衛兵が立っている。悪魔の襲撃事件の表向きな対応として、中国までやってきたわけか。灰色の髭を生やした禿頭の初老の男は、黒いローブだけという楽な格好で教皇という立場を思わせない雰囲気だった。教皇は前置き抜きに話を切り出した。

「長旅ご苦労。マリア様、ご無事で何より」

 そこで教皇は軽く首を傾げた。

「もう教会の者は全員知っている。君達が来ても、騒がないように外出を禁じさせてもらった。君達には可及的速やかに行動してもらいたい。エディリルーヴァには教会に残ってもらう。マリア様はベルンハルトと共にすぐに出発してもらいたい」

 ベルンハルトとマリアは目を丸めて、互いに顔を見合わせた。

「一体、どういうことなんだ。エディリルーヴァ?」

「いいか。時間がないんだ、ベルンハルト。すぐにサーフしてくれ。行けばわかる。話はそっちでそこの奴に聞いてくれ。米中を襲った事件を解決する為だ。問題は時間なんだよ」

 そのまま有無を言わさず、教皇はエディリルーヴァと一緒にベルンハルトとマリアを今さっき通った場所を逆戻りする形でスペースサーフィンのゲートまで連れて行った。ベルンハルトの心中は疑問まみれだったが、次第に苛立ちに代わっていった。問題解決の為と呼び出しを食らって急いでやってきてこれじゃあ、話にならない。マリアは馬鹿みたいに首をくりくり揺らす人形みたいにうんうん頷いているが、エディリルーヴァがしていることと言えば、俺達に何も話さずにただ出発を急かしているだけだ。教会の大切な大切な聖なるお姫様を出発させて、あの脳足りんの黒ンボ禿げ爺は何を企んでいるんだ。エディリルーヴァに促されてベルンハルトとマリアは自分のパーソナルクレジットカードをゲートのリーダーに通した。教皇がディスプレイを操作し、すぐにゲートに不透明な膜が出現した。エディリルーヴァに急かされ、ベルンハルトとマリアは半ば押されるようにゲートへと近付いていった。瞬間転送する直前、ベルンハルトが慌てて振り向いた。

「おい、エディリルーヴァ。目的地はどこなんだ?」

「言ってなかったか? 偽りの聖地、アンチエルサレムだよ」

 同時にサーフしていったベルンハルトとマリアには、エディリルーヴァの返答は儚く空ろな物にしかならなかった。


 白銀血を覚醒させたフォルティナの力は凄まじく、その聖なる白銀の力は魔王の手下をことごとく退けた。濃厚なフォルティナの白銀血は強烈な聖なる波動を放ち、魔王の手下は例外なく彼女に触れる事さえ出来なかった。

 アクトの白銀剣の力とフォルティナの白銀血の力に置いていかれまいと、フィートは獣人族らしい凄まじい膂力を存分に発揮させて戦いに食らいついていった。アクト達はどんどん困難な任務に派遣され、その全てを達成し続けた。いまや魔王討伐軍のリーダーとなったアクトの率いる部隊は、大国アルドビルデの代表のような存在だった。誰もがアクトなら必ず魔王を倒せると希望を抱き、アクトこそ真の勇者だと賞賛した。フィートは心の何処かでずっと、白銀剣を手にしたアクトに嫉妬を抱いていた。だが、フィートは始めから一緒にアクトと戦い続けてきたし、アクトの背後を守れるのは他に誰もいないと自負していた。

 アクトは白銀剣の力を存分に発揮し勇者と謳われるまでになったが、アクトだけでなくフィートもまた成長していた。フィートは部隊の中で彼以外には扱えない大剣を操り、魔王の手下を薙ぎ倒してきた。フィートはアクトと協力し、絶対に魔王を倒すと固く誓っていた。

 フォルティナも守られているだけではなかった。アクトの部隊と魔王軍とがぶつかり合う戦場の中で、フォルティナの周囲だけは静かで、怪我人が治療し休んでいた。魔物達は遠巻きにして唸るだけで、フォルティナに近寄ろうとはしなかった。フォルティナが意識すると、白銀のオーラがフォルティナから噴出し、魔物達はその防壁に阻まれて何もすることが出来なかった。無理して白銀のオーラに立ち向かった勇敢だが愚かなる魔物は、白銀の光に包まれて消滅してしまった。部隊の者がそんなフォルティナの姿を見た事によって、魔王軍を退けるフォルティナの異常な力の話が広まり、その絶対的な力を恐怖し、蔑む者が出てきた。フィートはそんなくずどもを許しはしなかった。フィートは人間ではなく獣人だからという謂れのない見た目の差別に晒されてきたので、フォルティナに対する視線に怒り心頭だった。フィートが怒りを爆発させてくずどもを半殺しにしなかったのは、当の本人であるフォルティナに諭されたからだった。

「どうして、止めるんだ、フォルティナ! あんな腐った奴ら、痛い目見ないとわからねえんだよ!」

「落ち着いて、フィート。誰もが理解できないものを畏怖して、弾圧したくなる。けど、それを力でねじ伏せても何の解決にもならないわ。たとえ永遠に理解されなくても、こっちが相手を信用しない限り、お互いに信用することなんて出来ないわ」

 フィートは納得できなかったが、それでもフォルティナの意見に頷くしかなかった。フィートにできるのはフォルティナの言葉を疑わずに信じ、フォルティナを信用することだった。

 アクトは白銀剣に導かれるままに、最初はわけもわからず戦っていた。最初は魔王の手下が怖くて、恐ろしかった。それでも白銀剣のエネルギーによって、アクトは敵を倒してきた。今では白銀剣でなくても戦うことの出来る剣士に育ったし、白銀剣を握れば自在に魔術を発動できるまでに成長した。かつて夢見ていた勇者にいつの間にかなっている自分にふと気付き、アクトは困惑していた。もう、あの夢見ていた頃の自分とは違う。夢見ていた時は未来への希望で胸高鳴り、やがていつか来るその時を憧れ楽しんでいた。けど、今はもうあの時とは違う。勇者アクト・リーメルと聖女フォルティナ・ラストアと戦士フィート・ディクロース。世の中の希望と期待の称号を背負わされた三人の重責は、昔の仲良し三人組という役割では担いきれなかった。


 エディリルーヴァに言われたとおり、ベルンハルトとマリアはアンチエルサレムの滅びた大地に瞬間転送してきた。教皇の思惑はどうあれ、二人は愕然としていた。

 かつて興隆し特定の宗教徒が聖なる地として崇め、それ故に争いの原因ともなった周知の場所は、いまや面影を感じさせぬほどに崩壊し、誰も訪れることのない忘却の彼方に追いやられてしまっていた。というのも、同時代に模範的ともいえるほどに世界に流布していたキリスト教の崩壊が少なからず関係している。キリスト教はまさに神業と賞賛できる営業能力を駆使し、長年を重ねて世界に広まり、その聖書は世界で最も出回っている文書となった。昔のセールスマンはこの凄まじい営業能力を学び、畏怖すべきだ。キリスト教の崩壊は伝染し、ユダヤ、イスラム、仏、他多くの宗教、流派が廃れ、駄々崩れとなった。今から百余年前の出来事、宗教の没落だ。これに伴い、没落した宗教に関するあらゆるものは破壊を免れなかった。中でも各地のそれまでに神聖と思われていた場所で数年に渡り大規模な破壊活動が行われたが、まさにこのアンチエルサレムもその内の一つだった。ベルンハルトとマリアの眼前には、滅びたアンチエルサレムの光景が広がっていた。そこはかつての都市が崩壊しアンチエルサレムと改名された後に設置された、実際には中心部から離れた場所に位置するスペースサーフィンのゲートだった。二人は頭を振って、目の前の光景をよく見ようとした。アンチエルサレムは崩壊していたが、更に崩壊していたのだ。

「一体、何が起こっているんだ?」

「ベルンハルト、あなたにも見えているのね? 私だけが幻覚を見ているわけじゃないのね?」

「俺達は現実を目の当たりにしているんだ」

 ベルンハルトはうぅんと唸った。

「滅びたアンチエルサレムの土地を破壊して回ったってわけか」

 アンチエルサレムの茶色い大地は所々ひび割れ、生物と見られるものは何も無く、砂煙で空中は灰色にぼやけていた。ぽつんとあるスペースサーフィンゲートを中心に見渡すと、茶色くぼやけているものの地平線の先まで見通すことが出来る。建物も木々も山も何もかも障害物は昔に崩壊していた。しかし、それはアンチエルサレムのあるべき姿だった。この崩壊に加えて、アンチエルサレムの中心部の方では大きな黒い穴が開いていた。ベルンハルト達がいるところまで細い亀裂を走らせて大地に大きな裂け目を作っている。ところどころで砂煙に混じり、灰色の火煙と思われるものが立ち上っていた。燃えるものは何も無いはずなのに。驚きで麻痺していた感覚が戻ってくると、ベルンハルト達は思わず眉根を寄せて鼻と口を押さえた。その場には悪臭が漂っていて、吐き気を催した。太陽が雲か煙に隠されて、周囲は薄暗かった。

「一体、誰がこんなことを」

「聖女様。こんなとこに来る奴なんて、とち狂った奴しかいないさ。それか、アンチエルサレムを訪れる者と言ったら、愚かなユダヤ人くらいだろ」

「けど、ユダヤ人がこんな酷いことするわけないわ」

「いいか、マリア。狂人のやることなんてわかるわけない。ユダヤ人は何でもするのさ、自分達に都合のいいことはね」

「だと言って、この有様がユダヤ人の仕業だとは思えないわ」

「正解。その通りだよ」

 ベルンハルト達の背後から返事が聞こえた。突然の出現に、二人はさっと振り返り身構えた。

「ああ。しかし、時既に遅しだ。君達の到着は遅過ぎた」

 一人の男が立っていた。男は二十代後半から四十代半ばにも見える年齢不詳の感があり、若そうに見えたが髪は全部白く染まっていた。男が着ているのは白いローブのようだったが、砂埃で薄茶色に見えた。男はにやにや笑いながらベルンハルトとマリアの様子を面白そうに眺めていた。男の肩には〝白い翼の生えた〟手の平サイズの亀が乗っていた。ベルンハルトは眉根を寄せて唸った。こんな状況じゃなきゃ、狂人か知能障害者かと思って相手にしないところだ。

「誰だ、お前は? ここで何をしている?」

「私はリヴラ。君達を待っていたんだ」

「エディリルーヴァ様が言っていたのは、あなたなのね?」

「君がマリアだね」

 リヴラが眉を上げた。

「そして、君がベルンハルトか。よろしく」

 リヴラが差し出した手をベルンハルトは渋々握った。リヴラは大きく二回手を振ってマリアに笑って見せたが、マリアは不安そうに見返すだけだった。

「ここで何が起こったんだ、リヴラ? 俺達はエディリルーヴァから何も聞いていないんだ」

「そうか、ベルンハルト。さっきマリアが言ったように、下手人はユダヤ人などではないよ。そもそも、彼等はそんな立場には無い。彼等の評価は世界では逆転しているんだ。いつの時代もね。彼等は勘違いされているんだよ。それより君達がどうしてここにやってきたのか。そして、君達がどんな使命を帯びているのかを考えてくれよ」

「まどろっこしいな、あんた。アンチエルサレムを破壊したのは、米中に被害を与えたのと同じ奴だっていうのか?」

「正解。君達が追っている奴が、エルサレムを襲ったんだ」

 リヴラの口調にベルンハルトとマリアは眉根を寄せた。二人は深く追求しなかった。

「新世界救済教会が時間を重要視しているのは、そいつが移動しているからだ。スピーディーかつアトランダムにね。そいつと接触するには、先回りしないとならない。でないと、こうなってしまうんだ」

 リヴラが右腕を広げ、アンチエルサレムの現状を示した。リヴラがさっき言ったように、ベルンハルト達教会側は遅かったようだ。アンチエルサレムも米中の二の舞となってしまった。ベルンハルトの脳裏に、蹂躙された場所に一歩遅れて到着する教会の者達を見てほくそ笑む悪魔のにやけ面が浮かび上がった。舌打ちしてから、頭を振ってむかつくイメージを追い払う。

「あんたは見たのか? ここを襲った悪魔を?」

「いや、私も遅かった。皆遅れているのさ、奴に比べれば」

「おい、ふざけてるのか、リヴラ?」

 ベルンハルトはむっとして足を踏み出した。リヴラは黒いコートの肩に両手を置いてベルンハルトをなだめた。リヴラより頭一つ分背の高いベルンハルトは、リヴラを見下ろし睨みつけた。

「落ち着けよ、ベルンハルト。単なる喩えじゃないか。それに、時間はないんだ。こんなことしてる場合じゃないだろ。私の話を聞けよ」

「じゃあ、話してみせろ」

 まだ怒っているベルンハルトにリヴラは肩をすくめて、ため息をついた。

「あなたは何者なの? どうしてエディリルーヴァ様はあなたのところに私達を送ったの? 時間は無いかもしれないけど、それは聞きたいわ」

「私は調停者だよ、マリア。だから、もちろん新世界救済教会は私のことを知っていた。私は今回の奴のことを教会に教えたんだ。それからまもなくして、米中の兵士が襲撃され、次はここだ。米中が襲われて初めて、教会は重い腰を上げて、君達を私の場所に追い払ったんだろうね」

「追い払った?」

 マリアが不思議そうに呟いた。

「教会は君達を噛ませ犬役に選んだんだよ」

「俺達は餌ってわけか」

 ベルンハルトは納得がいった。

「ああ。だから、エディリルーヴァは俺達を追い出すようにここに送り出したわけか。俺達にその悪魔の相手をさせておけば、当面世界の大混乱は防げるというわけか」

「そう、全ては教会の地位の為だよ。私も含めて、君達は囮ということだよ。その為には早く相手が私達のことを知らなければならない。でないと、奴は無闇矢鱈に動き回るだけで私達を追っかけてくれないからね。だから教会は急いでいるわけだ」

「そうだったのね。だからエディリルーヴァ様はあんな態度を……」

「それにしても、あんたが調停者だって? ほんとにそうなのか?」

 ベルンハルトが疑いの目を向けても、リヴラは苦笑するだけだった。

「さて。じゃあ、そろそろ行こう」

 リヴラがスペースサーフィンのゲートへ近づき、ディスプレイを操作し始めた。

「おい、どこに行くんだ? 問題の悪魔がどこにいるか、あんたにわかるっていうのか?」

「いや、わからないさ」

 辛辣な質問に笑って答えるリヴラに、ベルンハルトは苛立ちを募らせた。気に食わん。まるで何でも知ってるかのように振舞いやがって。いっそのことあのにやけ面を一発ぶん殴れたらすっきりするだろうに。

 リヴラが手慣れた感じで操作を済ますと、ゲートに揺らめく不透明な膜が出現した。

「わからないけどね、ベルンハルト。あてはあるんだ。奴がいる、というか、いたところにね」

「どこだそれは?」

「ヴァチカン市国だよ」

 リヴラがサーフしようとするので、ベルンハルトは急いでその背中に声を掛けた。

「おい、待ってくれ。リヴラ。ヴァチカン市国跡地に問題の悪魔がいるっていうのか?」

「いや、もういないだろ。それに、そいつは悪魔なんかじゃないよ」

 リヴラがサーフして姿を消した。ベルンハルトとマリアは顔を見合わせ、すぐにリヴラの後を追ってサーフした。


「ようこそ、ヴァチカン市国へ。お二人さん」

 ベルンハルトの目の前が鮮明になり、リヴラのにやけ面が現れた。眉根を寄せて周囲を見渡す。ヴァチカン市国跡地へ来るのは初めてだった。けど、ベルンハルトに感慨に耽っている暇は無かった。ローマ市内は阿鼻叫喚の騒ぎとなっていた。リヴラは〝ようこそ、ヴァチカン市国へ〟と言ったが、厳密には国境の外であり、ヴァチカン市国跡地がある丘から少し離れた場所に築かれたゲートにベルンハルト達は瞬間転送していた。街中で走り回っている民衆の群れから警官が飛び出してきて、ベルンハルト達を怒鳴り散らした。

「ちくしょう! こんな時に観光客かよ。お前ら、さっさとこの場を離れるか、どっかへサーフしちまえ! だいたい、何しに来たんだ、こんな時に」

 五月蝿い警官を無視して、ベルンハルトはローマ市内の有様を眺めた。まず、騒々しかった。街路という街路が逃げ惑う人でごった返しているし、遠くからは自動車のクラクションや誰かの警報警告が拡声器から飛び出ている。人々は悲鳴を上げ、怒りや嘆きを喚き散らし、中には泣きながら叫喚している者さえいた。ローマ市内では所々で火事が起き、灰色の煙がローマ上空をほぼ覆いつくし薄暗かった。誰かが悪魔と叫んだので、ベルンハルトは反射的にヴァチカン市国跡地の方角を探して視線をさ迷わせた。すぐさま目を引く光景があった。巨大な火柱、そして積乱雲のような灰色の煙。そこで凄まじい災害が起きたのがすぐにわかった。リヴラがベルンハルトの隣にやってきて、やれやれとため息をついた。

「ああ。わかっていたけど、遅かったな、私達は」

「あんたには、ローマがこうなる事がわかっていたんだな」

「まあ、〝こう〟とまではいかなかったが、ある程度はね」

 リヴラが淡々と状況を見回し判断しているのが、ベルンハルトにはわかった。ローブ姿の白髪の男の顔には、困惑も恐怖も悲嘆も浮かばず、興味さえ微塵も見られなかった。ベルンハルトの中でリヴラという男の人物像がゆらゆらと形作られようとしていた。観察者、傍観者。ベルンハルトはその人物像に嫌悪しか感じられなかった。無関心を装うにもほどがある。何が〝ようこそ〟だ。街の人々が混乱して逃げ惑っている中、よくあんなふざけた態度が取れたものだ。リヴラがどんなに秀でた人間か知りもしないが、確実に頭のおかしいトランス野郎だってのは間違いない。

「じゃあ、行こうか。あの地獄の口、アバドンへ」

 リヴラのいかにもな戯曲的態度にベルンハルトは鼻を鳴らした。それでも、とりあえず現状の元凶と思われるヴァチカン市国跡地には行かなければならない。マリアはどうしたかとベルンハルトが振り返ると、まだゲート入り口近くにいて警官と何やら話していた。ベルンハルトが舌打ちしてそっちへ近づこうとすると、リヴラがスタスタと警官の背後に移動してポンと肩を叩いた。リヴラは素早く警官の脇腹を殴りつけた。警官は振り向いた瞬間に悲鳴を上げて、地面に膝をついて苦悶し始めた。

「さあ、行こうか。マリア」

 マリアとベルンハルトが呆然とする中、ヴァチカン市国跡地へ向かい始めたリヴラの後頭部に翼の生えた亀が突撃して体当たりを与えた。リヴラは思い切り地面に顔面を打ち付けて、額から血が流れ出た。マリアとベルンハルトは何も見ていなかった。マリアは唸っている警官をチラッと見て、リヴラの後を追っていった。ベルンハルトもそれに続いた。ベルンハルトが横を歩くマリアの顔を見ると、白い顔が真っ青になっていた。

「大丈夫か。マリア?」

「ええ、大丈夫とは言えないけど。このローマの惨状も酷いわ。それに……」

「リヴラか」

 マリアがコクリと頷いた。確かにリヴラの大胆で暴力的な態度には背筋が寒くなる。ベルンハルト達は人の流れに逆らって黙々と進んでいった。騒ぎは未だに沈静しないようで、所々でパチパチと火が揺らめいている。ヴァチカン市国跡地に近づいていくと、かつてならサン・ピエトロ大聖堂などのヴァチカンの城壁内の狭い国土に建立された宗教的、芸術的にも優れた建造物を眺められたのだろうが、今では何も無くなっていた。代わりに禍々しい火柱と大量の火煙で満たされているのを、かつての誰が予想出来ただろう。ベルンハルトは皮肉な笑みを口元に浮かべた。世間に蔓延る占いなんて糞食らえだ。煙と塵芥で呼吸が苦しくなり始めた。ヴァチカン市国跡地の近くには建物は一切なく、剥き出しの地面も干乾びてひび割れていた。およそ0.4平方キロメートルに渡ってクレーターが出来ており、火柱が上がっていた。

「あれがどこだかわかるかい?」

 誰にともなくリヴラが聞いた。

「かつてあった大聖堂か宮殿ってところだろ?」

 ベルンハルトの答えに、リヴラは満足そうに頷いた。

「あそこはヴァチカン南東端に位置する。サン・ピエトロ大聖堂が建っていた場所、ペテロが眠る場所だよ」

「あれは何が燃えているんだ? 米中を襲った奴がやったわけだよな?」

「かつての聖地エルサレムへの従軍でも再現しているつもりか」

「何だって?」

「ベルンハルト、見えないか?」

 そう言って、リヴラはクレーターの窪みに向かって行った。強風でマリアの金髪が横に流された。悪臭が漂い始め、目に埃が飛び込んでくる。煙で視界が悪い中、ベルンハルトは目を細めて前方のリヴラを確認し、鼻と口を手で覆って後についていった。奥へ奥へと進むリヴラの姿はクレーターの中に消えてしまい、ベルンハルトは声を上げようと口を開いてみたが埃が口に入ってしまい、上手くいかずに舌打ちした。ベルンハルトとマリアは坂を上り、クレーターの窪みへと下っていった。地面が平らになってすぐのところにリヴラが立っている影が見え、二人はそこまで行ってリヴラの隣に並んだ。空気は灰色にぼやけ、奥を見通すことが出来なくなっていた。上空で火柱が灰色の煙を切り裂いている。火柱は何か黒い細長い物で組み立てられているように見えた。

「あれは……信じられない」

 口を押さえていたマリアの声は震えていた。ベルンハルトは目にゴミが入らないように注意しながら目を凝らしてみた。火柱の中で黒く細長い物がたくさん積み重なっていた。棒状のそれは一本から枝分かれしていたが、木ではないようだった。丸みを帯びて、それぞれ形が違う。揺らめく火の中で、異質な物がちらついた。手、足、顔。夥しい数の人間が折り重なって、それを作っていた。マリアがゲェと地面に吐き出した。悪臭と頭痛が酷く、嗚咽を漏らしていたベルンハルトも我慢できずに続けて吐いた。吐き出すだけ吐き出して、ベルンハルトは口を腕で拭いて、込み上げてきた涙を逆の腕で拭いた。気持ち悪さは治まらず、頭もまだ痛かった。

「何だ……。あれは?」

 ベルンハルトはどうにか声を搾り出して聞いた。

「燃えているんだ。何百人という人間がね。交互に積み重ねられて、火柱を形作るようにして、燃やしたんだ。おぞましい事をするもんだ。傲慢にも、その罪に対する罰を下しているとでもいうのか。聖地を汚した人間達で積み上げた死体の塔は当然の報いで、聖地を血で洗うのを許した神の裁きは正しくて賞賛すべきとでも言いたげだな。だが、従軍運動は政治的野心から発生したもので、聖地奪還の意図は希薄だった。聖戦といえど、千年王国主義者の歪んだ妄想で、同じ人間を悪魔とみなして殺戮するものでしかなかった。奴らの終末思想のせいで偽メシアが出現し、史上最悪の詐欺師が生み出されてしまったんだ。民衆十字軍は従軍過程で何をしたと思う。改宗を促し、異端者を許すとでも? いや違うね。暴力と略奪を繰り返し、老人と子供も容赦なく殺し、女は凌辱したんだ。客観視すれば、どちらが悪魔かは明白だ。ヨハネの黙示録で語られる殉教者と復活のくだりのせいで、おぞましい罪は正当化されてしまった」

 リヴラは舌打ちして、火柱を睨みつけた。リヴラの言葉にベルンハルトは眉を顰めた。こいつは誰に向かって、何を言っているんだ。

「あの人達は誰なの?」

「マリア。〝誰〟というのが重要なのか?」

 マリアが何も言わないので、リヴラは肩をすくめた。

「あれは巡礼者たちだよ。宗教の没落後でも、一部の人々はかつての信仰を大切に抱き続けているんだ。たとえその場所に何も無くても、かつて神聖だった場所は、今でも神聖だという事なんだろうよ。惨劇は繰り返されるものだね。場所は違えど、聖地に積み上げられたアラブ人の亡骸を模倣でもしているのだろうか。数千年経過しても、宗教の狂気はそのままだ。これもまた、汚された聖地を彼等の血で染めることを神が許したとでも主張するのだろうかね。ただ、かつてと違って、今回は加害者は聖職者とは言えないか。悲運、と言いたいところだが、彼等はこの被害をいずれにしろ免れなかっただろう。ヴァチカン市国で襲われなかったとしても、他の宗教関連場所で襲われていたはずだ。皮肉なもんだ。今は滅亡した宗教を大切にしているが故に、その存在しない宗教に憎悪を抱く者に身を焼かれてしまったんだから。どっちも愚かで盲目的だよ。互いに実在しない物に執着してるんだからね。まあ、宗教とは盲目的なものか」

 リヴラが口を閉じると、しばらくベルンハルト達は沈黙した。風の唸りと遠くでパチパチと火が爆ぜる音が聞こえる。ベルンハルトとマリアはもう火柱からは目を背け、周辺を見渡したが、視界が悪くてこれといって何も見つけられなかった。

「アンチエルサレムのように、ここも破壊されてしまったのね」

 マリアが疲れ切った感じで呟いた。

「もう、ここにいたって意味無いね」

 そう言ってリヴラは踵を返して火柱に背を向け、来た道を戻り始めた。ベルンハルトも埃で汚れた黒いロングコートを手で払いながらリヴラの後に続いた。マリアも慌ててベルンハルトに従い、三人は騒がしいローマ市内へと戻っていった。ベルンハルト達はローマ郊外にある静かなカフェで休憩を取った。三人の姿は汚くて異様に見えたが、客は他の問題に気を取られていたので普通に振舞っていられた。ベルンハルト達の服は埃まみれで強風で皺クチャに乱れていたし、ベルンハルトの腕に至っては嘔吐した口を拭いたのでシミになっていた。ベルンハルトは自分の有様に落胆しながらも、テーブルのピザを取ってパクついた。ベルンハルト達のように丸い木製テーブルを囲むように座りながら食事を取っている客達は、店内に何台か設置された天井から吊るす形のモニターディスプレイに見入っていた。テレビ番組は緊急速報で、瓦礫を背後に女性が深刻そうにマイクを握って中継している最中だ。今はどのチャンネルも似たり寄ったりだろう。

「被害は甚大で、前代未聞の事件です。一体何が、どうしてこのような事が起こってしまったのでしょうか」

 番組の舞台がスタジオに移って、専門家や何やらが色々と状況説明しようと熱弁している。店内がざわめき、かわいそうだの怖いだのベルンハルト達の席にも聞こえてきた。ベルンハルトがカフェラテを一口飲んでテレビを一瞥し、隣で瓶を傾けて炭酸水をゴクゴク飲んでいるリヴラに目を向けた。

「頼む、説明してくれ、リヴラ。一体、何が起こっているんだ」

 フウと一息し、次の瞬間、ゲフッとゲップしたリヴラにベルンハルトは眉を顰めた。肩に止まっていた翼の生えた亀がリヴラの顎に突撃体当たりした。リヴラは思わず舌を噛んでしまった。ベルンハルトとマリアはぬいぐるみかと思っていた亀が動いたので、呆然としていた。

「失礼」

 リヴラは真面目に呟き、それから腑抜けた顔でニヤニヤし始めた。ベルンハルトは亀は無視して話を続けた。

「ふざけるな。アンチエルサレムもヴァチカン市国跡地も同じなんだろ? 問題の悪魔の破壊工作は何が目的なんだ?」

 ベルンハルトは白髪の男を睨み付けた。リヴラは眉を上げて、テーブルのピザに手を伸ばした。ベルンハルトが唸って立ち上がろうとしたので、リヴラは空いた手を前に突き出してそれを制し、モグモグしながら喋り始めた。

「確信はできないが、私の予想はヴァチカンの襲撃で証明されたよ。君達が追っている奴は、宗教に関連のある場所を目指しているみたいだ。それら神聖な場所を破壊するのが目的なのかどうかはわからないけどな。私達がこうしてコーヒーブレイクしている最中にも、世界のどこかは破壊者の脅威に晒されているはずだ」

「つまり、俺達が追っている悪魔は何らかの目的があって各地の襲撃を行っているわけか」

 ベルンハルトは肘を付いて右手で顎を支え、眉根を寄せて唸った。マリアは不安そうにベルンハルトを見つめた。

「でも、米中の兵隊はどうなるの? あれも何か目的があったの?」

「もちろん、目的はあるだろうな」

 リヴラが答えた。

「けど、これは後の宗教都市の破壊活動とは違うな。何か別の理由があるはずだ」

「どうしたらいいんだ。リヴラの言う通りだとしたら、世界の各地が破壊しつくされてしまう。宗教の没落後といえど、その崩壊した場所周辺には各コミュニティーが栄えているのはざらだ。ここローマのように、ヴァチカン市国跡地のとばっちりを受ける都市が続出するぞ。そうなったら、傍観なんてしてられない。ローマの二の舞となる第二、第三のとばっちり都市が次から次へとテレビを飾る事になるぞ」

 今もテレビでヴァチカン市国跡地と付近のローマ市内の損害について報道が続いていた。これが世界各地で次々起こるとなるとうんざりする。ベルンハルトは何度も何度も悲惨な現場の状況を逐一伝えてくるのに嫌気が差して、ディスプレイを割ってでもテレビ画面を消したくなってきた。

「おい、リヴラ。悪魔は何故、かつて神聖だった場所を襲っているんだ? 何か恨みでもあるのか?」

「かつての宗教を知っている者なら、悪魔はどう控えめに言っても丁重に扱われていたとは言えないな。悪魔は絶対悪で、人間のマイナス的要因の原因や根源、象徴と考えられていた。まあ、お勉強じゃないんだから、詳細は省くけどね。とにかく人間にとって、天使は善なる味方であり、悪魔は邪悪な敵だったのさ。当然だよな。それら宗教を作り出した人間が、天使と悪魔を役割分担させ、その役割に相応しい印象を植え付けたんだから。本来は天使にも悪魔にも良い悪いなんて無いのにな。傍目に見たら、悪魔がそれを見て面白くは思わないだろう。でも、実際にはどうでもよかった。別に人間にどう思われようと、次元なんかを超越しているからね。そこに恨みも妬みも生まれることはなかったようだよ」

「じゃあ、あれはなんだったっていうんだ」

 ベルンハルトはテレビを憤然と指差した。恐ろしげなBGMが流れる中でヴァチカン市国跡地に聳える火柱が放映されているところだった。

「おいおい、待ってくれ。ベルンハルト」

 リヴラはちょっとムッとして言った。

「私は教会にこの事件の首謀者について教えに行ったが、そいつが何を考えてこんな事をしているのか、何をしようとしているかまではわからないんだよ」

「じゃあ、なんであんたにはそいつの事を教会に知らせる事が出来て、そいつがかつての宗教の名残に執着している事がわかるんだ? あんたは何か悪魔達から聞いているんじゃないか? あんたは調停者で、それでいて誰の側にもつかない中途半端などっちつかずの諜報員なんだろ? だから、上手い具合に煙に巻こうとしてるだけなんじゃないか?」

 ベルンハルトの冷淡な態度に、リヴラは嘲るようにフンと鼻を鳴らした。

「ハッ、何かと思えば。ベルンハルト。私が調停者だってのを持ち出してきて。そうか、だから、私が信用できないってのか。まるであの火柱が私の所為だ、みたいな言い草だな」

 しばらく二人は睨み合ったが、リヴラがフウとため息して、先にお手上げした。

「こんな内輪揉めしてる場合じゃないよ、ベルンハルト。この事件の首謀者について、私は誰からも詳しくは聞いていないし、詳しく知っている奴を知りもしない。私はチラホラと人から聞いた話や、あちらこちらで調査した事から推測し、仮説を立てたんだよ。そしたら、その通りになったってことさ。ほぼ、その通りにね。未だに何の確証も無いから、私の考えは推測の域を出ないんだよ。この事件が宗教の没落以前の事柄に関係しているかどうかも、実際疑わしいところだ」

 厳しい表情は緩んだもののベルンハルトが何も言わないので、リヴラがやれやれと首を振った。

「まだ納得できないって感じだな。ベルンハルト。君が言いたい事もわかるんだがね。私は本当にほとんど知らないんだよ。ああ、そうだ。ベルンハルト。君は私が悪魔から何か聞いてると思っているようだが、悪魔達も何も知らないよ。何故って、違うからだよ。事件の首謀者は――」

「ねえ。ベルンハルト。リヴラ。あれ」

 マリアが指差して、二人の注意をテレビに向けさせた。気づくと、カフェは静まり返っていて、店内の者達は誰もがテレビに釘付けになっていた。何か進展でもあったのだろうか。見る間に報道の雰囲気がガラリと変わってしまった。

「緊急速報です」

 男性アナウンサーの声は機械的だった。

「ドイツ。シュトゥットガルトの新世界救済教会本部から大量の煙が立ち上っているのが、ただ今確認されました。状況がわかり次第、追ってお伝えします」

「一体、何を言っているんだ」

 ベルンハルトが呆然と呟く。店内がザワザワし始めた。人々は口々に囁いている。ここローマと何か関係があるのだろうか。ローマではかつてのカトリック世界の中枢であるヴァチカン市国が襲撃され、ニュースで新たに取り沙汰されているドイツには宗教の没落後で唯一の教会の立場を保持している新世界救済教会の本拠地がある。偶然の一致にしては出来すぎていないか。ベルンハルト達の席だけが沈黙していた。ベルンハルトとマリアはショックで思考が半ば停止し、喋るのがままならなかった。テレビが再びドイツの報道に切り替わり、店内がピタリと静まった。テレビにその場の視線が集中した。

「シュトゥットガルトの状況が確認されたようです。中継に繋ぎます」

 テレビ画面が切り替わった。ベルンハルト達にとって、信じられない有様が映し出された。記者が何やら深刻そうに話しているが、マリアの耳には全く入ってこなかった。マリアには映像のショックが強すぎた。ベルンハルトが立ち上がり、静かに言った。

「戻ろう、教会へ」

 マリアにとってその声は遠くから聞こえる無関係な物に感じられた。意識が判然としない中、夢遊病患者のようにフラフラとカフェを出て、ベルンハルトに促されるままにマリアはローマを後にした。


 大国アルドビルデは魔王軍との最終決戦を迎えていた。これは事実上の世界の命運を賭けた、人間対魔物による覇権争いの最終局面だった。大国ルメ・ドスは自国を守ろうとする消極的な防戦のみで、大国アメルスは自国に火の粉が飛んでこない限り我関せずの無関心を貫き通していたからだ。史上二度目となる第二次大戦で人々を率いているのは、勇者アクト・リーメルだった。討伐軍が魔王の本拠地である城に戦いを挑む時が来たのだった。夥しい数の魔王の手下が城の周辺に蠢いていた。魔王の軍勢と向き合う討伐軍の先頭に立つアクトの隣で、フォルティナは息を軽く吐き出して自らの力を解放させた。フォルティナの全身が白銀に輝く膜に包まれると、フォルティナは眼前に広がる無限の魔物の群れへ向かって歩き出した。そのすぐ後に、アクトとフィート、それから討伐軍が続いて行軍し始めた。フォルティナの白銀のオーラに魔物は為す術なく弾かれ、ゆっくりと魔王の城への一直線の道が切り開かれていった。討伐軍の兵士達は聖女フォルティナを大声で称え、先に魔王城へ向かうアクト達の背後を襲おうとする魔王軍に立ち向かっていった。

 アクトとフィートとフォルティナは無傷で魔王エレボスの居城までやってきた。細い尖塔が幾つも折り重なって構成された城は全てが漆黒で覆われ、とても禍々しかった。開かれた城門を抜け、アクト達は城の入り口にやってきた。巨大な黒い鉄扉はアクトの身長の五倍もありそうだった。フィートが鉄扉を両手で押すと、ギギギィと音を立てながら魔王の城への入り口がゆっくりと開いた。城の中は外の喧騒が嘘のように静かで閑散としていた。城内は薄暗く、どこもかしこも黒や灰色の配色で陰気な雰囲気だったが、綺麗ではあった。建物内の柱や壁は傷一つなかったし、塵や埃が積もっているわけでも無く、天井に蜘蛛の巣が張っている事も無かった。アクト達は無言で顔を見合わせると、お互いに頷き合い、城の奥へと向かった。手すりに装飾が施された螺旋階段を登っていく。黒い絨毯の敷かれた通路をしばらく進んでいくと、魔王の手下が姿を現した。広い通路に黒いローブ姿が三人。アクト達は並んで足を止めた。

「我々は〈混沌〉の子の眷属。よくここまで来れたな、勇者アクト・リーメル」

「僕達は世界の平和の為に、魔王を倒さなきゃならないんだ」

 黒いローブ姿の一人がクツクツと笑い出した。

「なあ、フィート・ディクロース。獣人である貴様が人間に属しているなんておかしくないか。本来は異形であるこちら側に属しているんじゃないのか」

「うるせえな。誰だお前は? 俺達はお前達なんかで足止め食ってる場合じゃねえんだよ」

 フィートは背中の大剣を抜き払い、黒いローブに襲い掛かった。凄まじい勢いの大剣は黒いローブを真っ二つに両断した。残った二人のローブ姿は素早く後方に下がっていた。

「さあ、これで二人だ。どうする?」

「マモンを退けたからといって、偉そうにするなよ、小僧。獣人とはいえ、貴様も所詮、単なる凡人。白銀の力を有する勇者と聖女に嫉妬しているんだろうが。それに勇者と謳われていようが、未熟な餓鬼に過ぎない。世界からの期待の重責に押しつぶされておしまいだろ」

 アクトもフィートも何も答えなかった。アクトが凄まじい速度で黒いローブ姿に近づき、白銀剣を振り払った。続け様にフィートが跳躍して大剣を思い切り振り下ろし、黒いローブ姿を一刀両断する。

「さあ、ラストだ」

「ふざけるなよ、貴様等。マモンもアスタロトもやりやがって。それに、俺達の同胞もだ。貴様等に多くの同胞が殺されたんだ!」

 黒いローブ姿が怒り狂って襲い掛かってきた。アクトとフィートが剣を構えたが、さっとフォルティナが前に出て右手を突き出した。フォルティナの全身を白銀の光が包み込む。黒いローブ姿がフォルティナの白いオーラに激突すると、バチっと音がして黒いローブが散り散りに消し飛んだ。アクト達は通路に落ちた黒いローブを一瞥し、奥へと進んでいった。奥には大きな黒い鉄扉があった。扉には天使と悪魔が握手するという不気味な彫刻が施されていた。フィートが鉄扉を押し開け、アクト達は中へと入っていった。そこはとても広いバルコニーだった。周囲にそそり立つ無数の尖塔の影で、そのバルコニーは夜のように薄暗かった。アクト達の前方に、黒いドラゴンが鎮座していた。ドラゴンの全身は真っ黒で周囲の薄暗さに溶け込んで姿が判然としなかったが、赤黒い双眸はギラギラと光っていた。見た事のない漆黒のドラゴンの姿に驚いている三人は、すぐに臨戦態勢に入った。ドラゴンが翼を広げ、突進してきたのだ。アクト達はそれぞれ左右に散って、ドラゴンの巨体から退避した。フィートは背中の大剣を抜いてドラゴンに斬りかかった。アクトは白銀剣の力を解放させ、凄まじい速さでドラゴンに近づき白銀剣を振り払った。フォルティナの全身が白く輝きだし、フォルティナが左右の手をそれぞれアクトとフィートに向けると、白銀に光る保護膜が二人の全身を包み込んだ。アクトとフィートはドラゴンの強烈な攻撃に耐えつつも剣でドラゴンを傷つけていった。

「忌まわしい白銀剣だが、何ともいえない郷愁が沸き起こるのは不思議だな」

 ドラゴンの呟きにアクトは凄まじい攻撃の手を休めた。信じられなかったが、この目の前にいるドラゴンこそ魔王らしかった。

「お前が魔王なのか」

「じゃあ、何だというのだ。勇者アクト・リーメル」

「かつての大戦において、戦乙女アケショナルに倒された魔王が姿を変えて復活したという事なの?」

「違うな。聖女フォルティナ・ラストア」

 いまやドラゴンの姿はよく見て取れていた。漆黒の硬い鱗に全身を覆われ、頭にはねじれた角が二本生えていた。太くて長い尻尾は4メートルもありそうで、大きな翼は広げると全長あ10メートルにもなりそうだった。ドラゴンの口には大きな牙が並んでいた。魔王はとても静かで落ち着いた声で応じてきた。

「復活ではない。ただ、移動してきただけだ。あの時は人族の姿で、今が龍族の姿だというだけ」

 アクトが魔王の答えに困惑する中、フィートが魔王に襲い掛かった。フィートの大剣を魔王は翼で弾き返した。フィートが魔王を睨み付けた。

「お前がどうやってここに来て、どんな姿だろうと関係ない」

 フィートはアクトに向かって頷き、アクトも頷き返した。

 魔王がドラゴンの口で不敵な笑みを浮かべた。

 アクトが白銀剣に意識を集中させると、アクトの全身が強く輝きだし、アクトの黒髪までも白銀に輝きだした。力がみなぎり、白銀剣の刀身を白銀のオーラがまとった。アクトは一瞬にして魔王の顔面近くまで跳躍して、凄まじい速さで剣を振るい二本の角を切り落とした。それからアクトは右手を魔王の尻尾に向け、巨大な光の矢を放った。矢は尻尾根元に突き刺さった。フィートの激情によって沸き起こった力は凄まじく、白銀剣を操るアクトに勝るとも劣っていなかった。フィートは大剣を思い切り振り下ろし、アクトが動きを封じた尻尾を叩き切った。アクトとフィートは続け様に魔王の腕も脚も切り捨てた。

 黒い血まみれでだるま状態の魔王だったが、ドラゴンの口でニヤリと笑うのがわかった。不気味な魔王の姿にアクトは眉根を寄せた。

(傷だらけで身動きが出来ないというのに、なんで笑っているんだ)

 フィートが大剣でとどめの一撃を放とうとすると、魔王が黒い炎を吐き出した。とっさにフォルティナが黒炎を防ごうと前に出て、右手を突き出した。白銀のオーラに包まれたフォルティナの腕をクネクネと巧みに動いて避け、漆黒の炎がフォルティナに迫った。バリンッという大きな衝撃音が響き渡り、保護膜が失われたフォルティナの胸に黒い炎が突き刺さった。アクトが間髪いれずに白銀剣を打ち振るうと、漆黒の炎はガキンと金属音を響かせ、次の瞬間には黒い煙となって消えていった。仰向けに倒れこむフォルティナの後頭部をアクトが支える。フィートもすぐに駆け寄った。フォルティナの胸に残った黒い穴――漆黒の炎の残余が黒い煙となって消えていく中、黒々とした穴は消えずに残っている。耳が痛いほどの静寂の中、魔王の嘲笑がクツクツと響き渡った。

「防げると思ったのか。白銀の支流に過ぎない娘が、漆黒の本流である〈混沌〉の子の力を防ぎ切れるとでも。その程度の反漆黒で、防ぎきれるわけが無い」

 魔王の口から出てくる呟きが、静寂の中に恐ろしいほど長く反響し続けた。アクトとフィートは優しくフォルティナを床に寝かせた。

「少しここで待っていてくれ、フォルティナ。すぐに戻って来る」

 アクトはキッと魔王を睨みつけた。

「魔王ーっ!!」

 さっきまでの静けさが嘘だったかのように二人は絶叫し、魔王に襲い掛かった。もはや動く術を失っていた魔王から次々と吐き出される黒い炎を意に介することなく、特にフィートはむしろその炎に向かっていくように攻撃を仕掛けた。アクトの白銀剣とフィートの大剣が魔王の喉を刺し貫いた。

「………」

 魔王は口から血を吐き出しながら、ゴボゴボと何かを言った。魔王は笑ったのだった。突然、魔王の周囲が黒い霧に覆われ、更にその霧の奥に漆黒の穴のようなものが出現した。黒い霧がすごい勢いで奥へと吸い込まれていく。アクトとフィートは何とか踏ん張って、どうなるかを見ていた。ふと見ると、フォルティナが奥の穴に向かって床を滑り出していた。アクトとフィートはそれを見て、同時にその場から駆け出した。

「!?」

 アクトはフォルティナの元へ急ぎ、フィートは奥の黒い霧に立ち向かっていった。アクトはフィートの行動に愕然としたが、フィートが一瞬こちらを見たかと思った次の瞬間には、フィートもろとも黒い霧は掻き消えていた。傷ついた体が押し潰されそうな静寂が訪れた。締め付けられるような胸の痛みで、アクトはシクシクと泣き崩れた。


 ベルンハルト達がシュトゥットガルトの教会本部へサーフすると、周囲は灰色の煙が充満していて、無数の人々で騒々しかった。マリアは目を腕で覆って、咳で咽る口をもう片方の手で押さえた。ベルンハルト達は人ごみを掻き分けて教会を目指した。煙は途切れる事を知らず、数歩先は白濁した空気で何も見えない。煙が立ち込めて奥の状況は不確かだったが、ベルンハルトは上を見てハッとした。煙にむせて何度か咳をし、涙で曇る目を細めて何とか視界前方の上空を見定めようとする。

「そんな……嘘……」

 マリアが呆然と呟いた。教会の尖塔が崩壊していた。教会へ戻ってきて帰路の途中で必ず目にしていた黒い尖塔が、いまや瓦礫となって跡形もなくなっていた。新世界救済教会にとって、本拠地となるシュトゥットガルトの教会の見慣れた尖塔の崩壊は、教会そのものの崩壊を象徴しているようにベルンハルトには感じられた。

「行かないと、誰かいるかもしれない」

「ええ……そうね」

 マリアは必死に最悪の結果を受け入れまいと、上辺だけを繕っているようにしか見えなかった。ベルンハルト達が報道関連や警察を振り切って教会の方へ進んでいくと、少し風が出てきて周辺を覆っていた煙が少し取り払われた。教会付近の建物はあちこちに黒い焦げ跡が出来て崩壊していた。マリアは胸がむかつき、煙の刺激も相まって目から大粒の涙がこぼれ出た。

「同じだな。エルサレムやヴァチカンと」

 マリアの背後でリヴラが呟いた。先頭を行くベルンハルトが足を止めた。何か見つけたのかと思って、マリアは小走りでベルンハルトに追いつき前方に注意を向けた。見る前から予想はしていたが、教会は崩壊していた。新世界救済教会の本拠地であるシュトゥットガルトの教会が瓦礫の山と化していたのだ。マリアはこの悲惨な有様を眼前にして、ようやく自分の慣れ親しんだ漆黒の教会が無くなってしまった事を実感した。尖塔は倒れ、屋根は地面に落下し、壁という壁が崩れ去っていたので教会内部は全壊を免れなかったに違いない。どうにか原型を留めていた小階段の上に、正面扉が倒れていたが、象徴的な天使と悪魔の彫刻は隠れていた。ショック状態のせいか、どこかへ瞬間転送して帰ってくれば、また元通りの教会に戻ってこれるという感覚がしてならなかった。教会の崩壊は衝撃的だったが、それよりもベルンハルトとマリアの注意を奪うものがあった。人影が一つあったのだ。そいつは所々が欠ける小階段の上に倒れた鉄扉の手前に、背を向けて佇んでいた。再び風が吹き、煙を取り払った。二十メートルほど先にある小階段の上に立つ者がよく見て取れるようになった。黒いローブを着ていた。

「エノキアン! なんでいるんだ!?」

 突然リヴラが叫んだので、ベルンハルト達はビックリして背後のリヴラを振り返った。リヴラの表情は険しかった。リヴラは二人を無視して、前方の黒いローブ姿へと近づいていった。相手が振り返ったので、リヴラは足を止めた。

「その名で呼ぶな、糞が。貴様こそ、何故ここにいる? どっちつかずのロキめが、何しに来たっていうんだ、ええ? 貴様みたいな傍観者が俺をどうにか出来るとでも思ってるのか」

「お前、ベルゼブブか。ベルゼブブ。お前、ここで何を企んでいたんだ。何をしようとしてる」

 リヴラの肩に乗っている有翼の亀がベルゼブブ目掛けて突撃体当たりした。ベルゼブブは有翼の亀をはたき落とし、リヴラ目掛けて蹴り返した。

「鬱陶しい亀がっ。貴様には何もわからんだろうよ。まさか、こんなに早く新世界救済教会を襲撃されるとは思わなかった。先を越されてしまった。まあ、仕方ないな。種は世界中に蒔いたんだ。種子は消えては無くならん」

 喋るだけ喋って、ベルゼブブはサッと右手で空中を縦に切り裂き、そこに生じた裂け目にスルリと入り込んだ。裂け目はすぐさま閉じて、何事も無かったように空間は元通りになった。黒いローブ姿が消えていなくなっただけだ。

「今回は私も傍観するつもりはない。逃げられると思うな」

 リヴラがひとしきり罵倒を吐き出したかと思ったら、ベルゼブブと同じように空間を切り裂いた。翼の生えた小さな亀が猛スピードでリヴラの肩に飛んで戻って行った。リヴラもベルゼブブと同じように姿を消してしまった。驚く暇もなく、あっという間に二人の人物がその場から掻き消えたので、マリアはしばらく呆然としていた。

「まるで、サーフしたかのように消えてしまったけど……」

 ベルンハルトは腑に落ちなかった。確かにリヴラ達の現象そのものはスペースサーフィンのようだったが。

「あいつ等は人間の皮を纏った天使か悪魔だとでもいうのか。あいつ等のあれはそうだといっているようにしか思えない」

 ベルンハルトが苛々と呟いた。あんな移動をするのは異界の奴等だけだ。それにしても、相変わらず次から次へと状況が変わっていくし、今何が起こっているのか自分で把握できないのが腹立たしい。教会の崩壊は絶望的だが、それよりもわからない事まみれで心の底から悲しむ気分にはなれない。どうして新世界救済教会が襲撃されなきゃいけなかったのか。アンチエルサレムとヴァチカン市国跡地を見てきた後となっては、ここも同じように見えてしまうが。リヴラもそんな事言ってたな。リヴラといえば、あいつ、ここにいた奴の事知ってたようだし、勝手に消えてどっかに行ってしまうし。最低だな、あのとち狂ったほら吹き野郎め。結局、奴がしたことといえば、俺達を困惑させただけだ。それにしても、あの黒ローブは一体どこの誰なんだ。事態は自分を置き去りにし、あらぬところでドンドン進んでいる。

 突然、プルルルル、プルルルルと携帯電話の着信音が鳴った。ベルンハルトは携帯を上着の内ポケットから取り出し、モニター画面を覗いた。

「エディリルーヴァからだ」

 マリアにそう言って、ベルンハルトは電話に出た。

「そうだ、わかった。ああ、急いで向かう」

 ベルンハルトが電話を切って、懐にしまった。

「大丈夫なの、ベルンハルト?」

「心配するな、マリア。急いでサーフするぞ」

 ベルンハルトは踵を返して元来た道を戻り始めた。マリアは小走りで遠のいていく茶色いスーツを追いかけた。二人がゲートへ到着すると、ベルンハルトはテキパキとスペースサーフィンの設定を終わらせた。ゲートに不透明な膜が出現すると、すぐに二人は瞬間転送した。残されたディスプレイモニターにはイギリスの文字が光っていた。


 サーフしたベルンハルトとマリアの頭にポツポツと冷たい雨が落ちてきた。周囲は暗くて、饐えた酸っぱい臭いがした。思わず手を鼻に当てたマリアは眼前に聳える黒い建物を見上げた。三角屋根の上に立つ一本の黒い十字架。黒を基調とした新世界救済教の教会だった。シュトゥットガルトの本拠地より小振りだが、相変わらず厳格で静謐な雰囲気を醸し出していた。教会は左右対称で、中央の小階段から教会内へ繋がる鉄扉へと続き、訪れる者を握手する天使と悪魔が迎えた。ベルンハルトが振り返ると、テムズ川が見えた。ロンドンのテムズ川南部に位置する新世界救済教の教会は、沿岸に近接し通行人からよく目立つようになっていた。教会が建立された地域は今も貧困者が多く、参拝者は自然とその階級の人々が目立つようになった。何も持たない者は神に願うが、金持ちが敬うのは金だ。だが、得てして両者は誤認している。神は願う相手には不相応だし、神は敬うべき存在で、神と比較すると人間はあまりにも卑小だからだ。どうやら教皇とエディリルーヴァはロンドンの教会にいるみたいだ。どうしてこんなみすぼらしくて臭い場所にいるんだか。どうでもいいがな。ベルンハルトは次々とスペースサーフィンで移動させられる事にうんざりしていた。俺のこともそうだが、教会の大事な聖女をこの扱いとは、エディリルーヴァは何考えているんだ。

「行こう、マリア」

 ぼうっとしているマリアをベルンハルトは教会へと促した。教会の正面扉を開けると、目の前で教会の人間が待っていた。黒いローブを着た信徒の男は無言で会釈し、片手で中に入るように促し、先に奥へと進み出した。礼拝堂は閑散としていて、暗くてよく見えなかった。正面奥のマリア像だけが光に当てられていた。マリア像へと続く中央通路には絨毯が敷かれ、その両脇に並べられた長椅子には誰も座っていないようだ。信者は左に曲がって礼拝堂から出て行った。ベルンハルト達が続くと、教会の更に奥に進む通路が伸びていて、信者が数歩先で待っていた。薄暗い通路を進んで突き当りを右に曲がり、少し歩いて左手にある扉を信者が開き、自分は入らずにベルンハルト達を中へ促した。中へ入ると、エディリルーヴァが座って待っていた。

「無事でしたか、マリア様。よく戻ってくれた、ベルンハルト。座ってくれ」

 その部屋は明るく、十平米ほどで窓が二つ、扉が一つあり、質素な調度品が壁際に並び、室内中央に四角いテーブルとソファーが向かい合わせで二つ置いてあった。エディリルーヴァは部屋の奥のソファーに教皇と並んで座っていた。ベルンハルトが空いているソファーに座ったので、マリアも隣に並んだ。エディリルーヴァも教皇も格好はシュトゥットガルトで別れた時と変わらず、黒いローブという出で立ちだ。エディリルーヴァが落ち着いた雰囲気で座っているので、至って普通にロンドンの教会を訪れた感じに見えたが、教皇を見て改めてシュトゥットガルトの有様を実感した。教皇は肩を落としてうなだれていて、一気に老け込んだように見えた。エディリルーヴァがそんな教皇に気付かないように話し始めた。

「無事で本当に良かった。シュトゥットガルトは崩壊してしまった。当分、ドイツには戻れない。当時教会にいた信徒も祈願者も全滅してしまった。取り返しのつかない事になってしまった。だが、新世界救済教会は無くならない。我々は最悪、消耗品だ。聖女の血脈さえ無事であれば、組織の構成員はいくらでも代替できる」

 エディリルーヴァは満足そうに悲愴に満ちたマリアを見つめた。ベルンハルトは眉を顰めて小さく舌打ちした。

(前々から思っていたが、エディリルーヴァは人の心を持たない残酷な機械野郎だ)

 それは新世界救済教会の外観とシンクロしているみたいだ。共に無機質で、身震いさせる不気味な感じ。確かにマリアは大事だろうが、多くの人が死んでるっていうのに、何だ、あの顔は。マリアさえ生きていれば、後はどうとでもなれって事かよ。どんな神経してるんだ、この禿げじじい。

「ベルンハルト。リヴラと会ったのだろう? どうだった?」

「ああ、会ったよ。エディリルーヴァ。アンチエルサレムでリヴラと崩壊の痕跡を調査してから、リヴラの案内でヴァチカン市国跡地に向かい、同様に破壊された現場を目撃してきた。リヴラの考えでは、米中を襲った悪魔と同一の犯行らしい。そして、シュトゥットガルトもそうだと思ってるようだ」

「そうか。我々がどうこうするよりも早く、次々と襲撃されてしまったな。いつも、一歩遅いというわけか。脅威だな、非常に深刻的に。さて、どうしたものか。リヴラは何か言っていたか?」

「いや、シュトゥットガルトで不気味な男と遭遇して、その男と一緒にリヴラは姿を消してしまったんだ」

「ほう」

 エディリルーヴァがニヤリと面白そうに笑う。

「〝消えた〟とは厳密にはどのようにだ?」

「だから、その場から、俺達の眼前から掻き消えたんだよ。二人共、まるで天使や悪魔がするように、空間を切り裂いて消えていったんだ」

「そうかそうか。なるほど」

 一人得心しているエディリルーヴァにベルンハルトは苛立ちを募らせた。浮かんでいた微笑が引っ込み、エディリルーヴァは無表情に話を続けた。

「結局、どこかへ行ってしまったという訳か。リヴラ。裏切りのユダめ。ともあれ、マリア様直属のエスコートが無事で良かった」

「おい、ちょっとそれだけかよ」

 ベルンハルトはいい加減我慢できなくなった。

「わけもわからず世界をサーフさせられて、気付いたら全てが破壊されてたんだぞ! 生き残っていたのはあんたと教皇だけ。それなのに、あんたのその言い様、その顔!」

 ぶちまけている間に興奮してきて、ベルンハルトはテーブルを叩いて立ち上がった。無表情のエディリルーヴァを睨みつけ、更に怒号を上げた。

「何でそんな顔してられんだ! どうして笑える? マリアもこんなになって、どうするつもりだ!」

「まあ、まず、座れ。ベルンハルト」

「んだと、お前っ!」

 エディリルーヴァがハアと大きくため息をついた。

「静かにしろ。ベルンハルト。座れ」

 大きく舌打ちして、渋々ベルンハルトは言うとおりに座った。

「それでいい。五月蝿くてたまらん。いいか、ベルンハルト。マリア様と教皇は無事だ」

「何だとっ! それのどこが――」

 ベルンハルトはまた立ち上がりそうになった。

「落ち着け。確かに精神的にやられてしまっているが、それでも死んではいない。それが最悪な状況下での最上の結果だ」

 ベルンハルトは納得いかなかった。けど、これ以上話しても無駄だ。エディリルーヴァは冷酷でむかつく奴なんだと思うしかなかった。

「それで、どうする? 新世界救済教会は、あんたの言う〝最悪な状況下〟でどうすればいいんだ?」

「調子に乗るのも大概にしろ、ベルンハルト。それぐらいにしておけ」

 ベルンハルトはエディリルーヴァを睨み付けた。

「まあ、当初はリヴラがどうにかしてくれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのだが、詮無いことだったか」

「あいつに何が出来たって言うんだ」

 ベルンハルトが疑いの目を向けた。

「あいつから言ってきたんだ。〝私がどうにかするから、教会の者を二、三人寄越してくれ〟とな」

「えっ、そうだったんですか?」

 マリアが驚きの声を上げた。

「はあん? あいつはあんたが俺達を追い出したって言い張ってたぞ」

「いや、リヴラは何らかの私意でそのように言ったのだろうよ。いなくなった奴のことよりも、これからどうするかが問題だな。とにかく、一連の破壊工作が同じ悪魔による仕業なのは明白。その邪悪なる悪魔の正体を突き止め、抹殺するしかないだろう」

 エディリルーヴァはそこで斜め向かいに座るマリアに険しい眼差しを向けた。ベルンハルトはすぐにその意味を察して、胸糞が悪くなった。あの冷酷な禿げじじいはこう言いたいんだ。我々は悪魔の正体を突き止める。後は任せた、マリア様。あの悪魔めを抹殺してください。どいつもこいつも腐ってる。一体、マリアが何をしたっていうんだ。マリアは新世界救済教会の大切な聖女なんじゃないのか。何でマリアがこんな扱いを受け、作業員として動き回らなきゃならないんだ。俺がマリアなら、教会なんか見捨ててやる。

「私達はどうすればいいですか、エディリルーヴァ様」

 マリアが聞いた。

「マリア様達には捜索を続けてもらいましょう。わかったか、ベルンハルト。リヴラと移動していたように、世界各国の宗教重要拠点の跡地をサーフして回ってくれ。人海戦術といこうじゃないか。悪魔より先回りしてやろう。少し休憩したら、すぐに出発してくれ。後でまた連絡する。では、行ってくれ」

 マリアが立ち上がって一礼し、部屋を出て行こうとしたので、ベルンハルトもため息をつきながら後に続いた。ベルンハルトはふと気になる事を思い出し、扉を開ける直前にエディリルーヴァへと振り返った。

「そういえば、リヴラが変な事を言っていたぞ、エディリルーヴァ」

「変な事とは、どんな事だ、ベルンハルト?」

 エディリルーヴァが眉を上げた。

「この一連の事件の犯人は悪魔などではないと」

「おいおい、何を言っているんだ。リヴラは巧みに言葉を使い分けて、真実を煙に巻くようだな。あんな惨劇をどのようにして、他の人間に気付かれずに人間が引き起こせるだろうか。人間の力では限りなく不可能に近い。では果たして、その存在そのものが神聖な天使が、自らの品位を貶めるような残虐な行為を起こせるのだろうか。それは天使にとって自己否定も同然だ。さあ、どうだ。ほら、消去法だ。残ったのは悪魔だけだ。我々が敵対しているのは、いつでも悪魔なのだよ」


 第二次大戦終戦時に勇者アクト・リーメルの仲間である聖女フォルティナ・ラストアが死亡し、獣人族の戦士フィート・ディクロースが姿を消してしまった。魔王消滅の吉報はすぐさま世界に広まり、魔王が黒い霧となって掻き消えたであろう瞬間に、魔王の手下も忽然と姿を消してしまった。勇者アクト・リーメルは世界中から賞賛され、悲しみに包まれながらも聖女フォルティナと戦士フィートの葬儀が盛大に行われた。中には平和になった途端に軽口を叩く者もいて、不気味な力を持つフォルティナと獣人のフィートの死を茶化す始末だった。アクトの耳にもそんな中傷が届いてしまったが、空虚な心には何も響かなかった。異常な力や姿は、人間達に恐れられ、弾圧されてしまう。いつしか言っていたフォルティナの言葉が思い出された。

〝こっちが相手を信用しない限り、お互いに信用することなんて出来ないわ〟

 今のアクトは疲れきっていて、人を信用するのも疑うのもどちらもできなかった。アクトは故郷に帰ったが、すぐに旅立った。じっとしていると、なんだか震えが止まらなかったから。かつて勇者を夢見ていた少年は、もういない。楽しく笑いあっていた仲良し三人組も、もういない。アクトは一人孤独で、周りはしんと静まり返っていた。もう永遠に笑えないような気がした。感情がギリギリまで剥げ落ちたアクトはそれでも何かを待ち続けた。そうして、白銀血を持たなかったアクトに白銀血が発現した。


 新世界救済教会の象徴たる聖女マリアはテムズ川沿岸に設置されているスペースサーフィンゲートの前に立っていた。十分に休憩を取り、出発の準備を済ませてはいたものの、気分は一向に高まらない。隣には茶色いスーツの上に教会の地味な黒いコート姿のベルンハルトが立っていた。ベルンハルトは睡眠不足でもっと寝ていたかった。エディリルーヴァの命令による無理矢理の出発でやる気は全く起こらなかった。エディリルーヴァは世界各国の新世界救済教会の信徒に、今回の米中より始まった正体不明の悪魔の襲撃事件についてこれまでわかっている限りの詳細を伝え、その対策の為に教会がどう動くかについて指示した。その対策というのは、犯人が現れると思われる場所の出来る限り全てに教会の人間を派遣する事だった。何とも陳腐な作戦だ。話を聞かされた時、ベルンハルトは心中で嘲笑ったが、その作戦に自分も参加させられる事を考えると憂鬱になった。エディリルーヴァはある程度の事情を各国の政府にも説明しようと試みたようだが、マスコミの動向を見て断念せざるを得なかったらしい。世間は今回の事件の責任の擦り付け合いで不穏な空気が流れていた。その矛先は教会にも向けられているらしく、ここは表面上はおとなしくしているのが無難だった。ベルンハルトは地面に置いていた黒いバックパックを背負い、出発しようとスペースサーフィンゲートへと近づいていった。それにしてもまた瞬間転送とはうんざりする。世界中のどこにでも瞬時に移動できるのは魅力的だが、この揺らめく不透明な膜に突入する度に何だか不安な気分になる。もう何十年も使用されてるが、どこかのお偉いさんはこのスペースサーフィンについて明確に把握してるんだろうか。

 さあ、果たして全世界に派遣されたそこら辺の信者に一体何が出来るのか。何度も自問しているが、そんな単なる凡人で、高潔な血脈とは無縁、特別な力も無ければ、都合良く奇跡も起こりやしない奴等に何が出来る。ああ、でも、だからこそ、そんな無力な歩兵がキングの為に動き回って、大敵の正体を突き止めるわけか。たとえ、その身を滅ぼされようとも。後は、優れた能力を持つ限られた人間が解決してくれるって計算か。全く、腐ってるな。ベルンハルトはマリアに声を掛け、ゲートへと近づいていった。二人はサーフして、その場から姿を消した。エディリルーヴァに指示されてベルンハルト達がやってきたのはシュトゥットガルトの崩壊した教会跡地だった。一度訪れた場所に犯人が二度と現れないとは限らない。エディリルーヴァはそう考えたらしい。嫌な役回りばっかなのにこれといった役得がないのは損な気分だった。前回と比べると周辺に漂う煙が薄らいでいたが、それ以外は何も変わらなかった。どこを見ても残骸ばっかりだ。人の気配はもちろん、生き物の気配は全く感じられない。青空に白い雲が浮かぶよく晴れた日だったので清々しいといっても良い位だったが、不気味なほどの静寂に包まれ、何とも非現実的な光景だった。破壊されて間もない新世界救済教会の黒い残骸。踏み荒らされた草地と何本も倒され所々焼かれた木々。何故か教会の意向らしく、警察関連に圧力をかけたのか、未だに何も処理されていなかった。見たくはなかったが、黒い塊やどす黒い血にまみれてバラバラになってしまった死体も少なからず点在していた。腐食せずに焼き尽くされたみたいなので悪臭はしなかったが、ウッと込み上げてくるものは止められなかった。火葬とは程遠い、浮かばれぬ処遇だ。悪魔に蹂躙された有様が、太陽の日差しによってありありと照らし出されていた。ベルンハルトとマリアは教会跡地の正面入り口の小階段に並んで腰掛けた。二人とも何も言わなかった。マリアはようやくシュトゥットガルトの崩壊を実感し始め、もう以前とは何もかもが変わってしまった事を思い知り、悲しみに胸が痛くなり大きな喪失感に苛まれた。涙が込み上げてくるのをマリアは必死に堪えていた。

 ベルンハルトは教会が好きじゃなかった。今、自分がこうしてここにいるのも、全て父親が教会に固執していたせいだった。神なんているわけ無い。教会が教会の都合で決めた事を神託などと言い張って、第三者の厳然たる判断によって決められたと思い込んでいるか、もしくは装っているかに過ぎない。前者なら何とも愚かで、後者なら神聖さとは程遠い邪悪な行いだ。それに教会は独りよがりで利己的だ。今から百年ほど前にそれまでの全ての宗教が退廃に追い遣られた。それまでの全ての宗教観が崩壊し、実際には道徳的・人種的に堕落したもので、世界中の人々の社会や民族感情を害していた事に気付いていなかったとされ、退廃宗教として禁止され、歴史上では抹消されたとしている。まあ、実際にはかつての宗教はあえて残されているみたいだが。後に宗教の没落と呼ばれるようになり、またしばらくすると、その時代精神に見合う宗教が生まれた。新世界救済教会だ。ベルンハルトは小さい頃にこんな事をよく聞かされたが、教会の思惑とは裏腹にベルンハルトは洗脳されなかった。こんな話はベルンハルトにとって、どうでもいい事だった。ベルンハルトにとって新世界救済教などそれぐらいの存在だったが、父親が執着し、そしてそれ故に行方不明となってしまったのが原因で、教会はとても重要な存在となっていた。

 ベルンハルトとマリアは無言のまま小階段に座り続けた。時折、互いに軽食や飲み水を口にするも、会話は無い。時間が経ち、日が落ちてきた。夕陽で空が橙色に染まっていく。静かだった。風も無く、何の物音もしなかった。そのまま暗くなって、あっという間に夜になりそうだった。ベルンハルトは空模様を見飽きて、下を向いて何気なく瓦礫を見ていた。瓦礫の影が少しずつ伸びていき、地面が徐々に黒に染まっていく。地面に散らばる細かな破片の一つ一つが、大きな教会の一部分を担っていたのかとぼんやりと思った。無意味に時間が過ぎているような気がした。夕暮れが近づく時、何も変わりそうに無い状況が、不意に変わった。最初、ベルンハルトはぼうっとしていたし、そのまま夜になってしまったとしたら、ここで野宿するのか、それともどこかへ瞬間転送して夜を明かすのか、どっちにするかと考えていたので、何も気付かなかった。音は何もしなかったが、何か気配のようなものを感じて、ベルンハルトはサッと顔を上げた。小階段から十メートルほど先に何かがあるような気がした。ベルンハルトは目を凝らし、ハッとした。空中に裂け目が生じていると気付いた次の瞬間には、裂け目から一人の人間が出てきた。

「ベルンハルト。あれ!」

 マリアが声を上げて立ち上がった。ベルンハルトも同時に立ち上がり、二人で様子を窺った。相手がベルンハルト達の方を見て、ゆっくりと近づいてきた。ベルンハルトは身構えたが、現れた者の正体がわかって緊張を解いた。そいつがニヤリと笑って、声を掛けてきた。

「やあ。ベルンハルト。マリア。こんなところで野宿とは、いい趣味してるな」

「リヴラ。一体何なんだ、あんたは。どこに行っていたんだ?」

「ちょっと野暮用でね。それより、一緒にささやかな食事とでもいこうじゃないか」

「ハッ、何とも味気ない食卓を囲もうっていうのか。いい趣味してるのはどっちだ」

「相変わらずだな、おい。まあ、良いじゃないか。少し話がしたいんだ。いいだろ?」

 リヴラに促されて、ベルンハルトとマリアは小階段を上ったところに倒れている教会の正面入り口だった鉄扉の隣に座って、携帯食料と水で寂しい夕食を始めた。リヴラが携帯食料の味に舌打ちすると、肩に乗っていた有翼の亀がリヴラの顔面に突撃体当たりした。

「有難く思え、リヴラ! 食べられるだけマシだろ」

 リヴラが顔を手で押さえて首を振るのをベルンハルトとマリアは呆然と見ていた。有翼の亀が動いて喋るのが信じられなかった。

「なあ、リヴラ。その肩に乗っている亀は何なんだ?」

 ベルンハルトが聞くと、答えたのはリヴラではなく亀の方だった。

「私の名はデウス。有翼亀族のデウスだ。訳あって、リヴラと旅を共にしている。よろしくな。ベルンハルト。マリア」

「あっ、私はマリアです。よろしくお願いします。デウスさん。有力貴族なんですか?」

「バカめ。有力貴族ではない。お前ら人族と違って、亀の社会に上流も下流も無いわ。私は有翼亀族だ。それとデウスで良いぞ、さんはいらん。私も呼び付けにするからな。マリア。ベルンハルト」

「すみません。わかりました。デウス」

 ベルンハルトは何も言わずにウゥンと唸るだけだった。亀に何故白い羽が生えていて、喋るのかなんてのはもう無視だ。

 夜空に月と星が浮かんでいたので、教会跡地は仄かに明るかった。

「話がしたいって言っていたな。リヴラ。こちらとしても、色々話はあるんだが」

「そうなんだが。そんなこと言うなよ。ベルンハルト。ちょっと聞いてくれよ、私の話を」

「なら話せ。あんたが話したいって言う話を」

「教会は聖女にシュトゥットガルトの襲撃者をどうにかしてもうおうと思っているんだよな? 一体、どうしようと考えているんだ」

 真剣な面持ちのリヴラにベルンハルトが眉根を寄せた。

「俺は知らんが、エディリルーヴァならこう言うだろう。〝マリア様は神聖なるお方だ。かつて栄えた宗教の神々などとは次元が違うんだ。マリア様こそが救世主となるのだ。マリア様は必ず我々を救済してくれるはずだ〟とね」

 ベルンハルトは自分で言って、盲目的な教会に胸糞が悪くなった。新世界救済教の人間はどいつもこいつも楽観視している。マリアが何でも解決してくれると思い込んでいる――全知全能というわけか。ならマリア自身は誰が救ってくれるんだ。ああ、そうか。それこそ、そこで神の登場というわけか。ふん、冗談じゃない。

 ベルンハルトの心を代弁するかのように、リヴラが話し出した。

「聖女マリアが何でも解決してくれるというわけか。聖女が救世主をも担い、二束の草鞋を履くなんて、神のみぞこれを知れり、とでも言うのかな。そういえば新世界救済教会は、キリストなんていう人物は存在しないと主張しているだろ。聖母マリアはキリストなんて子を身篭らなかったと。存在していたのは聖母という矛盾した聖称を持つマリアという女性だけだと。もちろん存在しないキリストによる復活の奇跡などなく、マグダラのマリアの役割も無かった。それこそが、新世界救済教会の根本的な宗教的概念の柱となっているんだろう?」

「さあな、リヴラ。俺は宗教徒でも信仰者でもないし、冒涜者でも異端者でもないからわからんな。あんたはどうなんだ」

「私はどっちの側にもつかない。調停者は特定の団体や考えに傾倒してはならないんだよ。だから、第三者という立場で変な固定観念を抱かずに意見しただけだ。私は事実に関して話がしたいんだ。教会が聖女に期待しているというなら、聖女はどうするつもりなんだ? 君は教会側の人間として、私に答えなければならない義務があるんだ。答えてくれ、ベルンハルト」

「どうして、あんたのような奴が調停者なんだ」

 ベルンハルトは不服そうに呟いた。

「ハハ、仕方ないだろ。私が決めたわけじゃないんだし。さあ、答えてくれ」

「俺は知らんよ。所詮、ギルドから派遣されただけだしな。ただ、今回の犯人がわかって、見つけたなら、俺はそいつを問答無用で斬るつもりだ。マリアの聖なる力に頼るつもりも、俺はない」

 マリアが少し驚いて隣に座るベルンハルトを見つめた。

「なるほど。まあ、君になら出来るかもしれないな。ベルンハルト。良かったね、聖なるお姫様」

 リヴラがニコリとマリアに笑いかけた。ベルンハルトがそれを見て舌打ちした。

「おい、リヴラ。あんた、一体、どうやって姿を消したり現れたりしてるんだ?」

「ベルンハルト。よく考えてくれよ。君達もそうやって移動してるじゃないか」

 リヴラはニヤリと笑った。

「俺達はあんたみたいに消えたり現れたりしない」

「へえ、そうかい。それは知らなかった。じゃあ、世界中どこでも見かけるゲートの入り口は、一体何なんだあれは、ええ?」

「どういうことだ。あんたのあれもスペースサーフィンだって言うのか?」

「まあ、そういうことさ」

「ゲートも何も無いってのに、どうやって移動したって言うんだ。それにあんたは空中に裂け目のような物を作って、そこに入っていったぞ」

「君達は何も知らないんだ。君達には早過ぎたんだ」

 リヴラの口振りにベルンハルトは苛々して詰問しかけたが、携帯の着信音に遮られてしまった。

「ああ、俺だ。わかった、今すぐ向かう」

 ベルンハルトは電話を切ると、立ち上がってすぐに言った。

「行くぞ、マリア。出発だ」

「行くってどこに? エディリルーヴァ様からだったの?」

 ベルンハルトは頷き、バックパックを整理して黙々と出発の準備を進めた。

「ロンドンの教会に戻る。どうやら、犯人の所在を掴めたらしい」

 思わずマリアはリヴラと顔を見合わせていた。ベルンハルトがもう何も言わないので、マリアも急いで支度を済ませた。ベルンハルトとマリアがゲートの方へ歩き出すと、リヴラも無言で二人の後についていった。三人はシュトゥットガルトから瞬間転送し、イギリス・ロンドンへと向かった。


 ティラ・マスカルは褐色の髪と青い瞳を持つ、大国アメルスで魔術を学んでいる少年だった。ある時、ティラは学校の課外授業で歴史美術館に行った。自由行動の時間、古い匂いが漂う歴史美術館をウロウロしていて、とても大きくて綺麗な壁画と出会った。その壁画は建物のアーチ状の装飾彫刻の内部に描かれていて、高さ5メートルほどのスペースに色鮮やかに描かれていた。描かれていたのは一人の女性だった。かつて世界を混沌に陥れた魔王と戦い、勝利して世界の平和を取り戻した戦乙女アケショナル・ラストア。アケショナルは黒い髪を短く切っていて、整った綺麗な顔は斜め上を鋭く見据えていた。装備した鎧は所々に傷があったり血痕がこびりついていたりしたが、右手で掲げ持つ白く輝いている剣は傷一つなく美しかった。その剣の輝きで、壁画全体が白く輝き、アケショナルの姿をより一層際立たせていた。ティラは無意識に戦乙女アケショナル・ラストアの壁画の説明を読みつくし、更に美術館のスタッフに聞いて、アケショナルに関する文献を教えてもらった。ティラは壁画以外の現存するアケショナルの描写を探しては真剣に眺めた。ティラはアケショナルの外見だけでなく、内面にも強く興味を引かれ始めた。アケショナルのあらゆる文献に目を通し、アケショナルという女性がどんなことを行い、彼女に何が起こり、その都度何を感じていたのかを読み取った。

 魔術国家アメルスの少年、ティラ・マスカルは歴史美術館の中で出会ったアケショナル・ラストアに一目惚れしていた。ティラの恋愛感情は尋常ではなく、ティラは運命を感じ、アケショナルを想い続けた。ティラはアケショナルに会うことを願った。ティラがもう何度目になるかというほどに歴史美術館の戦乙女アケショナルの壁画を見つめていると、視界がぼやけ始めた。ティラは慌てて目をこすったが、色彩がぼやけて景色はより不鮮明になっていく。焦って腕を振り回しても、周囲に霧や煙が発生しているわけではないようで事態は一向に改善されない。ズキズキと響く頭痛が強まってきて、平衡感覚がおかしくなりティラは仰向けに昏倒してしまった。眼前の光景がグルグル回り始め、次第に暗くなっていく。次の瞬間、美術館からティラの姿が忽然と消えた。ティラ以外にその場には誰もいなくて、ティラの消失を目撃した客や館員はいなかった。


 ベルンハルト達はテムズ川沿岸にある新世界救済教会にいるエディリルーヴァに会いに向かった。大きな広間に通されると、そこには10メートルほどの楕円形の木製テーブルが置かれ、十数人の人々が席に座って待っていた。広間は静かで、厳粛な空気を肌に感じ、ベルンハルトは居心地が悪くなった。広間に入ってちょうど正面の位置にエディリルーヴァが座っていて、空いている椅子に座るようベルンハルト達を促した。ベルンハルト達が座るのを見て、エディリルーヴァが話し始めた。

「急な呼び出しに応じてもらって、感謝している。中には時間的に就寝している者もいただろうに、どうやら寝癖を直すのも後回しにして来てくれたようだ。ご苦労だった」

 控えめな笑い声がパラパラと上がった。ベルンハルトはそんなくだらない冗談は無視して、広間の様子を窺っていた。席に座っているのは司教やら何やらだろう。顔を見た事がある者が何人かいるが、名前は覚えていなかった。中には女性もいる。皆、黒いローブに丸い黒い帽子を被っていた。教皇だけがみすぼらしい禿げ頭を晒し、いかにもくつろいだ感じで座っていた。他の者達は緊張しているようで、背中に棒でも挿してるように背筋がピンと伸びていた。エディリルーヴァの隣に座っているマリアは無表情だったが、ベルンハルトにはそれは装っているものに見えた。マリアが立ち上がった。どうやらそんな流れになっていたらしい。

「今起こっている事件はとても恐ろしくて、悲しいものです。多くの人々が悲しみ、怒りの中で亡くなってしまいました。私は許せません。皆さん安心して下さい。私が守ります」

 マリアはその場の者に笑い掛けてから座った。大きく頷く者、手を合わせて祈る者、口に手を当てて感動する者、列席する者の反応は様々だった。人任せの糞どもがっ。ベルンハルトの心中に怒りがふつふつと湧いてきた。けどマリアを見るとそれらは一瞬で吹き飛び、憐憫の情で満たされた。ベルンハルトはマリアを連れてどこかへ逃げ出したくなった。エディリルーヴァが咳払いして、再び話し始めた。

「先程も言ったように、一連の事件の首謀者はアフガニスタンのバーミヤン渓谷付近にいる事が確認された。既に先に行った者が待機しているので、マリア様とベルンハルトにはすぐにも出発してもらいたい」

 それが号令ででもあったかのようにエディリルーヴァとマリアが立ち上がって広間の扉へ向かい始めたので、ベルンハルトも慌てて後に続いた。エディリルーヴァがスタスタと先を歩いていき、背後をマリアとリヴラがついていく中、ベルンハルトは誰も何も言わないので聞いてみた。

「おい、これからどうするんだ?」

「おいおい、ベルンハルト。話を聞いてなかったのか?」

 エディリルーヴァがため息して応じた。

「聞いてたさ。アフガニスタンに例の奴がいるって言うんだろ」

「だったら、いちいち聞かないでくれ。今すぐ、アフガニスタン・バーミヤン渓谷に移動し、問題の悪魔と対決してもらう」

 沈黙が訪れ、ベルンハルト達は黙々と歩いて教会を出て、ゲートへと向かった。マリアは出発の準備を予め済ませていたようで、アフガニスタンへの瞬間転送に躊躇いは見られなかった。ベルンハルトは色んな要因からか大きくため息をついた。またもやこんな慌しい出発だ。教会に戻ってきたかと思ったら、まともな休憩も無くすぐに出発だ。スペースサーフィンゲートのディスプレイでエディリルーヴァが設定を済ませた。ベルンハルト達はゲートの揺らめく不透明な膜を通過して瞬間転送した。


 アケショナル・ラストアは机に肘をついて左手で額を押さえていた。ただでさえ忙しいというのに、一体何だっていうの。その場所はアケショナルの為に用意された一室だった。部屋は広くはなかったが、清潔に保たれ、アケショナルが今座る机と椅子と、別にもう一つテーブルがあり、そこに一人掛けのソファが二つ向かい合わせで並んでいた。何も敷かれていない床は剥き出しの木製だったが、よく磨かれて光っていた。周囲の壁も光沢のある木で作られていた。アケショナルは目を瞑って右手で眉間をギュッと押さえてから、ゆっくりと目を開けて目の前に立っている少年を見据えた。奇妙な少年だった。少年は行軍中だったアケショナルの目の前に急に出現した。突然現れた少年をアケショナルは魔王の手の者かと疑い、すぐに襲い掛かった。アケショナルだけではなく、周囲にいた部隊の者達も一斉に襲い掛かった。だが少年は何の抵抗をする事もなく、悲鳴を上げて、ただただ拘束されるだけだった。とにかく弱くて、拍子抜けだった。

「それで、少年。お前の名前は何だったか?」

「名前はティラ・マスカルです。出身はアメルスです」

「ああ。そうだったな。魔術国家アメルスか。だから、見た事の無い魔術だったのか。それにその格好も見慣れないしな」

「あの。僕はどうなるんですか?」

「それは、お前次第だろうな」

 アケショナルはティラを上から下まで見回した。褐色の髪と青い瞳。白の薄い生地の服と黒いズボンといった服装は見慣れなかったが一般市民のそれのようで、戦闘の装備は一切装着していない。不安そうな表情で、緊張しているのか立ちながらそわそわしていた。

「どうやってあの場所に出現したんだ?」

「僕にもよくわからないんです。ただ気付いたら空間移動していたみたいで」

「アメルスの魔術というわけか」

「本当に僕にも何が何だがわからないんです」

「じゃあ、ティラ。一つ聞こう。お前はどうしたいんだ?」

「出来るなら、あなたと共に行きたい」

 ティラの返答にアケショナルは目を丸くした。

「私と共に行きたいだと? どうして、何の為に?」

「僕も戦乙女アケショナルと一緒に戦争を終わらせたい」

「フッ、面白い事を言うな。ティラ。だが、私はどうしてお前を仲間にしなければならないんだ? 突然、私の目の前に現れた素性不明の怪しい男をどうして信じられる。それに弱くて全く戦えなさそうなその男が、何の役に立つと言うんだ? 私がそいつを仲間にしても足手まといにしかならないだろ」

 アケショナルの返答は正論だった。でも、ティラは諦められなかった。どういうわけか本物のアケショナルに出会えたからには、どうしてもアケショナルの近くにいてもっとアケショナルの事を知りたかった。

 アケショナルにとってティラ・マスカルの怪しさは払拭できなかったが、油断していたとしてもティラには殺されそうに無かった。だからといって、近くに置くというわけにもいかない。周囲の仲間達はティラを怪しんでいるし、中にはすぐに処刑した方がいいと言っている者もいる。そこまでする必要はないと思うけど、ティラをこのまま仲間にするのはどうしても難しいし、それにやはり彼が何の役に立つのか疑問だ。特に今は大事な時期だ。魔王との最終決戦も近い。周囲の仲間も素性の知れない輩を戦争の最中に仲間に迎えるわけにはいかないと主張してるし、ティラを今にも追い出そうとしているんだから。

 アケショナルの険しい顔つきを見て、ティラはどうにかしないとやばいと感じ取った。ティラは何とかアケショナルの信用を得ようと、大きく声を張り上げた。

「アケショナルの未来を予言する!」

「何だって?」

「聞こえなかったなら、もう一度言いますよ。アケショナル。あなたの未来を僕が予言してみせます。それなら僕も役に立つでしょう」

「ふざけたことを。予言など、統計と心理を組み合わせた経験則に過ぎない。未来を見通すことなど不可能だ」

「なら、試してください」

 ティラの自信に満ちた言葉に、アケショナルはニヤリと笑った。面白い。どうなるか見てやろう。

「よし、わかった。なら、私の仲間全員にお前のその宣誓を聞かせ、私も含めた全員がお前の宣言の証人となろう。もし本当にお前の言う通りなら、喜んで私の方からお前を仲間に誘おう。ティラ・マスカル」

「よろしくお願いします」

「では、聞こう。この後、私達は魔王の軍勢の一つと戦うことになる。その戦の状況を予言して教えてくれないか」

 ティラはニヤリとして、アケショナルにその戦いの詳細を話してみせた。


 ベルンハルト達はアフガニスタンに瞬間転送してきた。そこはバーミヤン渓谷から少し離れた場所で、荒野と化した周辺に人気は無く、遠くまで茶色い地面と岩が広がる中、ポツンと立つスペースサーフィンゲートが異様に目立っていた。どんよりとした灰色の空に太陽の光がぼやけて見えた。

「じゃあ、行くか。マリア」

 ベルンハルトがマリアを促し、渓谷へ向かって二人で歩き始めた。リヴラは肩をすくめて、二人の後に続いた。バーミヤン渓谷は旧異教の遺跡があったとされる場所だ。今となっては何も残っていない。遺跡そのものも百余年以前に反宗教・反政府団体の襲撃に見舞われ、修復の目途も立たないほどに崩壊してしまった。その後も老朽、風化を重ね、更に宗教の没落によって、バーミヤン渓谷にあった遺跡を含める芸術的遺産は跡形も無くなり、それまでの渓谷の原形すらも失った。今や、砂煙が舞う岩だらけのうら寂しい渓谷だった。ベルンハルト達は休まず渓谷まで歩いていった。渓谷に到着すると、三人は足を止めて、様子を窺った。渓谷は暗がりになっていた。

「先に来ていた者達はどこにいるんだ」

 ベルンハルトが誰にともなく呟いた。

「とにかく、君達教会が探している奴がこの渓谷にいるんだろう? なら、さっさと行って用事を済ませればいいだろ」

 リヴラの他人行儀な言い方にベルンハルトは眉根を寄せた。バーミヤン渓谷は岩壁が両脇に立っていて、奥に進むにつれて岩壁は高く厚くなっていくようだった。木々や草は渓谷にも谷の上部にも見当たらなかった。ベルンハルト達は恐る恐る、渓谷へと入っていった。渓谷は冷たく、暗かった。10メートル程の幅があるので並んで進めたが、地面がゴツゴツしていて大きな岩が所々に鎮座しているので歩きにくかった。

「こんなところに、かつて少なくとも神聖な建造物があったとは、ガッカリだな」

 ベルンハルトは殺風景な渓谷の景観を見渡し、首を振った。

「昔はこんなんじゃなかったんだろうよ。緑と光で溢れ、厳かな雰囲気でも漂っていたのさ」

「何だ、リヴラ。知ったような口振りだな」

「単なる憶測だよ。まあ、何でも時が経てば朽ち落ちていくものってことだ」

 道はしばらくまっすぐ続き、落ちている岩以外には何も変わりはなかった。

「おい、マリア。大丈夫か?」

「ありがとう、ベルンハルト。大丈夫です。ちょっと気持ち悪いだけで」

 マリアの顔つきは疲れてやつれていた。美しい長い金髪と整った顔が台無しだった。ベルンハルト達は再び進み始めたが、すぐにリヴラが口を開いた。

「おい。見てみろ。あれ」

 ベルンハルトは最初何を言っているのかわからなかった。リヴラの後について、ベルンハルト達は数十メートル先に鎮座する大きな岩に近づいていった。灰色の岩石は渓谷が大きく右に湾曲している場所の手前にあった。近づいていくと、リヴラが何を言っていたのかわかった。岩の暗がりに隠れて、地面に何かが横たわっていた。死体だった。三人の死体が仰向けに寝ていた。三人とも黒いローブを着ていて、教会の人間に間違いなかった。マリアはこみ上げて来た吐き気を何とか飲み込んだ。苦味がして眉根を寄せた。

「どういうことだ」

 ベルンハルトが愕然として呟いた。

 マリアが死者の近くに跪き、目を瞑って祈りを捧げ始めた。

(この人達を守って下さい)

 ベルンハルトはマリアの毅然とした態度に少し驚いた。その反面、マリアの覚悟の程を思い知り、ベルンハルトは悲しくなった。わかっていたが、マリアがこんなに追い詰められていたとは。感情やら何やら全部抑え込んで。それもこれも教会やそこらの信徒達の為かと思うと、胸がむかついた。

 奇蹟が発動し、マリアの全身が白く輝きだした。マリアが意識を向けると、死者の体も白銀の光で包まれた。これでもう悪魔に亡骸を汚される心配はない。

「この三人がどうして死んだのか問題だな。こいつらがエディリルーヴァの言っていた先行者達なのは間違いない。多分、殺されたんだろう。あの例の悪魔にか? それとも――」

「こんな場所で突っ立っててもしょうがないだろ、ベルンハルト。先に進めば、こいつらがどうしてこうなってしまったのか、わかるかもしれない」

 言うも早く、リヴラは死体の横を通って渓谷の奥へと進んでいってしまった。確かにここでああだこうだ言っても時間の無駄だ。ベルンハルトとマリアもリヴラに続いた。マリアは最後まで死者を渓谷に置き去りにするのに気が引けていた。全てが明らかになってから、ここに戻ってきて弔うしかなかった。渓谷を右に曲がっていくと、まっすぐと道が伸びていた。数十メートル進むと、ベルンハルト達は開けた場所に出た。奇妙な事に、そこには大きな岩石が無数にあった。人一人が通れるほどの間隔で岩石が密集していて岩石の林のようだ。ベルンハルト達は岩石の迷路を前にして呆然とした。

「なんか、不気味ですね。人為的に作られたのでしょうか」

「気のせいだろ、マリア」

 そう言って、リヴラが近くの岩石を何気なく叩いた。

「何もない。単なる岩だよ。先を急ごう」

 リヴラが奥へ進もうとすると、岩の陰から黒いローブ姿が飛び出してきた。

「Προστασία」

 無意識に呪文を唱え、リヴラは咄嗟に自衛の障壁を展開させたが、衝撃で背後の岩に叩きつけられてしまった。咳き込みながら、リヴラは立ち上がって敵の姿を見た。

「これはこれはエノキアンがこんなところで何をしているんだ? お前は役目もなくふらふらしてるだけなのかい、ベルゼブブ?」

「無駄だ、リヴラ・ジヴァニトゥム。俺を挑発しても、もはや決定されたことは覆されん」

 リヴラは眉を顰めた。満足げな声のベルゼブブに不安を覚えた。

「どういう意味だ、ベルゼブブ? お前はここで何をしているんだ?」

「喜べ、リヴラ・ジヴァニトゥム。貴様の思惑通り、〈混沌〉の子エレボスは〈ニューアース〉から去り、〈ヴェッセル〉へと戻った。これで貴様の役割は果たされたわけだ」

「もうエレボスが十分に回復したというのか。予想以上に早かったな。これで〈ニューアース〉はひとまず安心できるな」

「さあ、それはどうかな。リヴラ・ジヴァニトゥム」

 ベルゼブブが一瞬にしてリヴラの横に移動して、リヴラの顔面を殴りつけた。再びリヴラが岩に叩きつけられた。魔術の障壁で衝撃は吸収されていた。リヴラは右手甲の刻印に意識を集中し、呪文を唱えた。

「Πάγος」

 ベルゼブブの方に向けたリヴラの右手から、氷の矢が無数に発射された。

「小細工めっ!」

 ベルゼブブが激しく咆哮を放つと、氷の矢がことごとく弾け散った。

「調停者よ。貴様は今は邪魔だ」

 ベルゼブブが両手を挙げると、空中に黒い霧が出現した。それを身にまとい、ベルゼブブがリヴラに突進した。黒い霧に二人が包まれ、すぐに黒い霧は散り散りになって消失した。ベルゼブブとリヴラもその場から消えていなくなっていた。ベルンハルトとマリアは呆然と立ち尽くしていた。二人の意識が判然とするより早く、聞き覚えのある声が前方から聞こえてきた。

「ここまでご苦労だった。ベルンハルト。それにマリア様」

 いつの間にか前方に濃い黒い霧が球状に発生していた。その奥から姿を現したのはエディリルーヴァだった。黄金の髪をオールバックにしたエディリルーヴァはいつもの色彩豊かな祭服ではなく、黒いローブを着ていた。ニヤニヤと笑っているエディリルーヴァをベルンハルトは鋭く睨み付けた。

「どういう事だ。エディリルーヴァ」

「まあ、それを見てみろ。二人とも」

 そう言って、エディリルーヴァがディスプレイモニターを投げてきた。ベルンハルトの足元にカチャと音を立ててディスプレイモニターが落ちた。ベルンハルトは舌打ちして地面に落ちたディスプレイを拾って、映し出されている映像を見た。どうやら、リアルタイムのニュース中継映像のようだ。マリアがベルンハルトの横に来て、二人はニュースを眺めた。信じられない映像が流れ始めた。


 ティラがアケショナルに語った予言は全て的中した。アケショナルの軍勢と魔王の軍勢との戦の勝敗はもちろん、それ以外の細かい事も全て。とても信じられない事だったが、アケショナルはティラと約束していた。しょうがないというかなんというか、とにかくティラはもう私の仲間だ。決定事項として、アケショナルはティラの仲間入りを皆に発表した。アケショナルの仲間の中にはティラを信用していない者がほとんどだったが、ティラは予言者としてアケショナルの軍勢に迎えられた。

 アケショナルとティラはアケショナルの私室で向かい合ってソファに座っていた。

「さあ、これを着ろ、ティラ」

 そう言って、アケショナルが渡したのは白いローブだった。自分の格好が時代にそぐわないのは理解したので、ティラは何も言わずに白いローブに着替えた。

「白いローブは聖なる白銀血と〈秩序〉の信奉者テトラモルフの象徴となるものだ。ティラ。お前が私にとって、そんな存在であることを願ってるよ」

「ありがとう、戦乙女アケショナル。僕みたいな怪しい奴を、少しでも信じてくれて。まだ僕は疑わしい奴に過ぎないと思うけど、絶対に君を後悔させない。僕が君の役に立って、魔王を倒すというアケショナルの意志を手助けしてみせる」

「ハハ、頼もしいな。ティラ。そうあることを願うよ」

 アケショナルが半信半疑なのをティラは感じ取っていた。そりゃ、逆の立場だったら自分もそうだったはずだ。それをわかっていても、それでもティラはアケショナルに信用してもらいたかった。確かに、僕の予言はインチキみたいなものだ。全て決定された事柄を既に知っているだけなんだから。けど何を利用しようとも、アケショナルのそばから離れるわけにはいかない。

「それで、ティラ。お前はアメルスで魔術を学んでいるんだろう。予言者としてだけではなく、戦場で私の軍勢に参加するのは可能なのか?」

 アケショナルがティラの右手甲を見ると、魔術の発現に不可欠な赤黒い刺青が彫られていた。

「もちろん、僕もアケショナルと一緒に戦うよ。そうすれば、僕の予測する未来からアケショナルを守ることが出来るしね」

「それなら、お前に何が出来るのか見せてくれ。私が見極めよう」

 アケショナルの真剣な言動はティラの鼓動を早めた。当たり前だけど、これは学園の試験とは違うんだ。ティラの脳裏に学園での記憶が思い返され、スライドショーのように各場面がパッと表示されては消えて次の場面が現れるのが続いた。

 魔術の発現には、幾つかの条件が必要だった。前提として、各人の才能。これは基本的には先天的素質の話だが、例外的に後天的に覚醒する場合もあるという。しかし、教師のフィレドはその例外について詳しく話してはくれなかった。才能のある人間は既存の魔術師によって見出され、本人が望む場合に限り、次のステップに進むことになる。それが君達なんだと言った後に、フィレドはこう締めくくった。

「才能に恵まれたとはいえ、魔術師の道に進むことを選択したのは君達自身なんだ。驕ることなく、知識と技術の習得に励まない限り、君達の未来は開かれはしないよ」

 生徒達が騒がしくなり、ブーブー文句を言う者やため息をつく者など色々だったが、ティラも心中で大きくため息をついていた。そんなこと言われたって、魔術師の才能があることがわかり、特にやりたいこともないからとりあえず魔術学園に入学しただけで、いきなり未来の話をされても困る。魔術師になったとしても、就職先はどうなる。それなりの仕事に就いて生活に困らないようにしたいのはあるけど、国の防衛、もしくは研究者、いや、そんな高尚な職業は自分の人生とは程遠いものだし、そんな能力は僕には無い。

 学園の授業の多くは、少なくともティラを含めた大多数にとって退屈なものでしかなかった。歴史と政治、化学と物理、哲学と宗教など、多くは魔術師に関係することが重点的に授業のカリキュラムに組み込まれ、魔術の呪文と効果の暗記は語学の単語学習や歴史の年表を覚えるのと大差なく、総じて辛抱強い反復学習が求められるのだった。外から見ると華やかな世界に見えた魔術学園も、他と変わらない地味で忍耐が必要なものだと思い知り、生徒達のモチベーションは下がる一方だった。唯一、実践魔術の授業のみが違っていた。魔術発現の次の段階として必要なのは、呪文詠唱と対応刺青の刻印だった。刻印師のレイチェルが説明するには、呪文は彩色魔術と無彩色魔術に大別されていて、彩色魔術は火と水と風と土で構成されている。センスが伴うならば、各属性に対応する刺青を刻印する事で、魔術発現が可能となる。

「あとはお前達が呪文を間違いなく詠唱し、精神力が続く限り魔術の発動は可能だ」

「無彩色魔術はどうすれば出来るようになるんですか?」

 生徒の一人が手を上げて質問した。

「無彩色魔術に対応する刻印は存在しない。魔術発現条件の才能、呪文、刻印というのは、彩色魔術の事を言っているだけなんだ。けど、魔術の世界は広く深い。お前達は既に歴史の授業で学んでいるはずだが、かつての帝国時代に人族は魔術を極めた。帝国魔術師によって刻印が発明され、多くの人々に魔術の発現が可能となり、今に至るわけだが、どれだけ研究を重ねたとしても、無彩色魔術の発現は刻印では不可能だった。結論として、無彩色魔術は更に特別な才能を持つ者しか発現できない代物だった。残念ながら、私も無彩色魔術の使い手では無いし、お前達にも無彩色魔術の才能はないよ。この魔術学園にも誰一人としていない。とにかく、お前達はまず魔術の初歩を学ばなければならない。これから順番に刻印を施す。刻印の種類はお前達の各適性を見極めて、決定するとしよう」

 そう言って、レイチェルは生徒一人一人を呼び出した。レイチェルが右手首に巻いていた黒い包帯をほどいて拳を握ると、手首に刻まれた傷跡から赤い血が出てきてゆらゆらと空中に浮かび上がった。無軌道に浮遊していた赤い線状の血液が、レイチェルの前に立つ生徒の方にサッと向くと、生徒の右手甲目掛けて空中を疾走した。右手甲に突撃した血液はうねりながら何かの文様を形成し、生徒の体に赤黒い刺青を刻み込んだ。その刻印は、基本的な彩色魔術の各属性を象徴していて、同属性でも人によってディテールが異なっていたが、直径3cmほどの大きさで見るからに火や風だとわかるような図柄をしていた。ティラの右手甲の刻印は火を彷彿とさせるものだった。

 レイチェルは生徒を一列に並ばせて、自分は列から5メートルほど離れて生徒達と向き合った。

「さあ、条件は整った。刻印に意識を集中させ、対応呪文を詠唱し、魔術を発現してみろ」

 レイチェルが意識を集中し、呪文を唱えた。

「praesidium」

 魔術が発動し、レイチェルの全身が保護膜に包まれた。レイチェルに倣い、生徒達が呪文を詠唱し始めた。ティラも自らの右手甲の刻印に意識を集中させ、レイチェルに狙いを定め呪文を唱えた。

「ignis」

胸の奥底から何かが沸き起こって、次第に膨れ上がっていく。こんな感覚は生まれて初めてだった。自分の奥底に隠されていた未知の力が一点に集約し、練られて増大し、抑えきれなくなって爆発した。衝動でティラの全身が震えた。弾けたエネルギーが電撃のように胸の真ん中から右手にかけて走り抜け、掌から迸った。

 魔術が発動し、ティラの右手から火球が発射された。生徒達が発動させた彩色魔術――火球、水球、風塊、土塊がレイチェルに直撃した。目眩がして、ティラは膝をついてその場に座り込んでしまった。自分の虚脱状態にビックリしたが、まるで魂の半分が無くなってしまったかのように活力が空っぽになってしまい立ち上がるのは難しかった。

「さて、人生初の魔術発現の感想はどうだった?」

 レイチェルは何事も無かったかのように両手を腰に当てて生徒を見回し、誰一人として立つことができずにいるので笑い出した。

「アハハハ、それどころではないか。これが今のお前達の限界というわけだ。誰だって最初はそうなるよ。才能、呪文、刻印。魔術発現の条件を満たした時点で、簡単に魔術は発動する。けど、使い熟すには勉強と練習が必要だよ。精神力を鍛え、知識と技術を習得し、反復学習する事で、高レベルの魔術が使用可能となるし、魔術の連続詠唱も出来るようになる。これで今日の授業は終了だ。ゆっくり休んで、明日に備えるといい」

 別に上を目指すつもりはなかったが、魔術を使用する度にへたり込むのは癪だったので、ティラのモチベーションはある程度は持続した。ティラの右手甲には火と風を象る刺青が刻まれ、成績で言えば中の上くらいだった。その程度でしかない自分が、世界を救う戦乙女を納得させられるだろうか。

「わかったよ、アケショナル。これが僕の力だ」

 ティラは両手を胸の前に上げて、意識を集中させた。

「ignis」

 ティラの両手が赤く光りだし、赤い炎が出現した。右手の親指を弾き、炎の玉を空中へ飛ばして、落ちてきた炎を左手で掴み取る。アケショナルは無表情でティラのパフォーマンスを眺めていた。ティラがニヤリとして、更に両手に意識を集中させた。

「Ventus」

 両手の炎が揺らめき、パッと消えて、ティラの褐色の髪が風で逆立った。ティラの両腕に螺旋状の風が巻きついた。強力な風塊をギュッと握り締めて、ティラは両手をバッと開くと共に溜め込んだ風塊を解放させた。激しい風が巻き起こりティラの体を空中へ持ち上げた。ティラは空中で座るポーズを見せてから、風を纏ったまま地面へ降り立った。

「なるほどな。ティラ。彩色魔術の中で火と風を司る力を習得しているわけか。無彩色魔術は無理とはいえ、まあ見る限り、それなりに戦えるみたいだな。戦の参加を認めよう」

 ティラはホッとして魔術を解除した。とりあえず資格は手に入れたわけだ。あとは自分次第ってことだ。

 信じられないが、世界は戦争中だった。活字でしか見た事の無い事象がリアルに五感に働きかけてくるのは妙な気分だった。何より気分が高まるのは、そこに生身で存在する戦乙女アケショナルだった。けど、戦いの間はそんな浮ついた気分を抱く余裕はなかった。戦いは本物だったし、魔王の軍勢は容赦なくティラを殺そうと襲い掛かってきた。こんな中途半端な時に死ぬわけにはいかなかった。ティラは戦場で必死に戦った。見たことの無い魔物との戦いを何の経験もないティラが乗り切れたのは、アケショナルへの純粋で強力な〈想いの力〉のおかげだった。ティラの魔術は研ぎ澄まされた。巨大な蜘蛛に似た魔物がティラに襲い掛かった。ティラは風を巻き起こし魔物の攻撃を横に避け、強力な風で魔物の足を切断した。絶叫する魔物が暴れながら襲い掛かってきたが、ティラは落ち着いて両手から膨大な炎を発射した。蜘蛛の魔物の全身が赤い炎で覆いつくされた。ティラは腰に両手を当てて、焼き尽くされる魔物を眺めていた。背後に気配を感じて、ティラはサッと振り返った。人型のねじくれた角を生やした魔物が剣を振りかぶっていた。魔物がニヤリとして剣を振り下ろそうとした瞬間、白銀の剣閃が魔物を一刀両断した。

「危機感がないぞ、ティラ。ここは戦場。片時も気を抜くな。今お前は死んでいた。これから何度となく、死ぬかもしれない状況が襲ってくるんだ。自分が死なないなんていう幻想は抱かない方がいい」

「ごめん。ありがとう。アケショナル」

 アケショナルは応えずにサッと踵を返して、再び魔物へと立ち向かっていった。ティラは落ち込んでいたが、アケショナルの言う通りだった。死ぬわけにはいかないんだ。ティラも再び魔術を発動させ、魔物目掛けて発射させた。


 見ている映像が映画のワンシーンのようで、ベルンハルトとマリアはそれが現実だとは到底思えなかった。世界各地のスペースサーフィンゲートから次々と悪魔が姿を現し、人々を襲っていた。その映像はニュースとして報道されていた。けど、どうしてもフィクションとしてしか受け取れなかった。馬鹿げたフェイクニュースのようなこんな酷い事が今世界で起きているなんて信じられない。

「どうしたんだい、二人とも。さあ、何か言ってくれよ。ベルンハルト。ああ、マリア様には少々刺激的過ぎましたかな」

「ふざけるなよ、エディリルーヴァ。何の冗談だ、これは。説明しろ」

「何を説明するって言うんだ。ベルンハルト。その画面を見ての通りではないか。今、世界各地のゲートから大量の悪魔が物質界へと姿を現し、暴虐の限りを尽くしているんだ。何の偽りもない、リアルな情報だよ」

「だから、どうしてそんなことが起きてるんだって聞いてるんだよ! それに、お前は何でここにいるんだ? 一体、どういうつもりだ。エディリルーヴァ」

 エディリルーヴァは薄笑みを浮かべながら首を振った。ベルンハルトとマリアはエディリルーヴァの不自然な態度に顔を顰めた。

「完璧なる存在アダム・ベリアル様の到来によって、世界は次のステップへと進んだのだよ。その先頭を行くのが、我々――新世界救済教会。素晴らしいだろ? 世界の変革に加担することが許されたのだ。さあ、光栄に思うがいい。この方がアダム・ベリアル様だ」

 エディリルーヴァの背後に漂っていた黒い霧の奥から、新たな人影が出現した。黒いローブ姿で、フードを被っているので顔は陰となって見えなかった。エディリルーヴァの意味不明な言葉は抜きにして、黒ローブを着た奴は背が低くてとても恐ろしい存在には思えなかった。それとは裏腹にベルンハルトは黒ローブから不気味な気配を感じ取っていた。腰に括ってある破滅の刀を介して、異界のオーラも感じられた。

「なるほど。ここが物質界アッシャーか。エディリルーヴァ」

「はい。アダム・ベリアル様。この空間こそ、矮小で愚鈍なる人族の世界です」

「懐かしいなあ。もう忘れてしまったよ。じゃあ、白銀の力がどの程度か早速見てみようか」

 アダム・ベリアルの視線がマリアに向けられた。ベルンハルトはハッとして、破滅の刀を抜き払った。マリアに襲い掛かるアダム・ベリアルにベルンハルトは切りかかった。アダム・ベリアルは凄まじい速さで破滅の刀を避けた。

「危ない危ない。帝国シアルルとロスト・ジャパンの技術から生まれた刀――失われた三神刀とこんなところで出会うなんて、世界は狭いものだな。いくら私とはいえ、テトラモルフの祝福によって施された極小部分での世界の隔絶を覆すことは出来ない。まあ、斬られなければいいわけだ」

 ベルンハルトは苛々して舌打ちした。どうやらネタばれしているようだ。なんとか破滅の刀で斬りつけるか、それとも〝あれ〟を使うか。

「世界が私を待っているんだ。さっさと片付けるか」

 アダム・ベリアルが両手を胸の前で広げると、漆黒の霧が球状になって出現した。黒い霧はどんどん大きくなっていく。アダム・ベリアルの隠れたフードの奥で赤い双眸がギラリと光った。

「死ね。矮小なる人間ども」

 巨大になっていく漆黒の球体に吸い込まれるように、周囲で風が巻き起こった。マリアはベルンハルトの背中にしがみついた。ベルンハルトは足を踏ん張って、破滅の刀を構えた。何だろうと、存在する物質なら切断できるはずだ。そう思ってはいたが、肥大化する漆黒の球体を目の前にして、ベルンハルトの額に冷や汗が伝った。黒の球体がベルンハルト目掛けて放たれた。激突の瞬間、凄まじい速さで横から何者かが割り込んで来た。ベルンハルトの目の前に立ったのは、栗色の長い髪の女性と白髪の男だった。

「Προστασία」

 リヴラが眼前に保護膜を発生させた。

「危なかった」

「長くは持たないわ。急ぎましょう」

 栗色の髪の女性がベルンハルトとマリアの肩を掴んだ。ベルンハルトとマリアの眼前の風景がぼやけて薄れてきた。リヴラの声も不明瞭になっていき、ベルンハルトとマリアの意識は消失した。

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