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第31話 上位座の門

 本鐘の足元に広がる亀裂は、さっきまでより静かになっていた。


 無色の光はまだ滲んでいる。だが、エルシオンの黒銀の接続札を引き剥がしたことで、深層へ向かっていた暴力的な引力はかなり弱まっていた。ごうん、ごうんと鳴っていた鐘の響きも、今は遠い地鳴りのように空洞の底へ沈んでいる。


 それでも、終わった空気ではない。


 床下のさらに奥で、何かがまだ息をしている。


 ゼノンは黒銀の札を手の中でひっくり返した。薄く平たい金属片で、表面には聖典文字と古代文字が重なるように刻まれている。表面は冷たい。だが意識を向けると、その内側に細い穴のようなものがあり、そこを通じてまだ深層の残響が漏れてくるのが分かった。


「気をつけて。それ、素手で長く持たない方がいい」


 セラフィナが白杭でエルシオンを足場に縫い止めながら言う。


「深層接続札は保持者の輪郭を削る」

「短時間なら平気でも、ずっと触れてると境界が曖昧になる」


 ゼノンはすぐに札を袋へ押し込み、代わりに木札を握り直した。


「先に言え」


「今言った」


 相変わらずの言い草だ。


 エルシオンは足場に片膝をついたまま、白杭で拘束されている。それでも姿勢は完全には崩れていない。黒い光はかなり剥がれ落ちたが、目の奥にはまだ冷たい熱が残っていた。深層との接続を断たれたはずなのに、あまりにも落ち着きすぎている。


 ゼノンはその顔を睨む。


「何だ、その顔」


「別に」

 エルシオンは掠れた声で言った。

「お前たちが、ようやく入口に立っただけだと思っただけだ」


「強がりか」


「事実だ」

 男は小さく笑う。

「本鐘も、選定機構も、中継にすぎない」

「上位座へ行けば、お前は嫌でも選ぶことになる」

「返流器だろうが何だろうがな」


 セラフィナが白杭をもう一本打ち込む。

 エルシオンの肩がわずかに揺れた。


「黙ってなさい」

「今のあなたに助言される筋合いはない」


「助言じゃない」

「予告だ」


 ゼノンはそのやり取りを聞きながら、本鐘の真下を見下ろした。


 亀裂の奥で無色の光が脈打っている。さっき無色の像が浮かび上がった判断層は、もう静まっていた。代わりにそのさらに下から、ゆっくりと何かが上がってきている。


 最初はただの光の柱に見えた。

 だが数秒もしないうちに、それが“階段”だと分かる。無色の光をそのまま削り出したような、半透明の螺旋階。床下の亀裂からせり上がり、本鐘の前の足場と深層のさらに下を繋ぐ一本の道になっていく。


 無色の像の声が、もう一度だけ落ちた。


『返流器へ次位勧告』

『上位座との接続断絶を実施せよ』

『遅延時、辺境第三区画の再偏流確率上昇』


 淡々とした告知。

 そこに善意も悪意もない。

 だからこそ気味が悪い。


「確率、ね」


 ゼノンが低く呟くと、セラフィナが本鐘から視線を逸らさずに答えた。


「深層はいつもそういう言い方をする」

「起きるか起きないかじゃなくて、どれだけ歪みが再発しやすいかで判断してる」


「便利な言い回しだな」


「ええ。責任が希薄になるから」


 その言葉に、エルシオンがかすかに嗤った。


「深層に責任を求めるのは筋違いだ」

「責任を負うのは、人間側だ」

「だから私は負った」


「辺境に押しつけてな」


「全体のために必要だった」


 ゼノンはもう言い返さなかった。

 これ以上こいつと理屈を噛み合わせても、同じところを回るだけだ。


 代わりに足元の導路へ意識を沈める。


 返流器として開いたばかりの流れは、まだ粗い。

 前の村の井戸、北の集落の湧き水、灰白の塔の中継核。それらへ細く戻っていく線は見える。だが、その戻り方はぎこちない。本鐘の下の深層が完全に収まらなければ、またどこかで詰まるだろうということも分かった。


「……行くしかないか」


 ゼノンが小さく言うと、セラフィナが立ち上がった。


「ええ」

「本鐘は私が最低限固定しておく」

「その間に下へ降りる」


「私が、じゃないだろ」


 ゼノンが横目で見る。

 セラフィナは少しだけ黙り、それから肩をすくめた。


「そうね」

「一緒に降りる」

「今のあなた一人だと、深層が何を“返せ”と言ってきても、全部受けて潰れる可能性がある」


「お前がいれば潰れないと?」


「少なくとも、嫌な時に横から止めることはできる」


 正直なのか高圧的なのか分からない言い方だった。

 だが間違ってもいない。


 ゼノンは袋の中を確かめた。

 木札。

 透明結晶。

 補助鍵。

 黒銀の接続札。

 どれも軽いのに、やけに重く感じる。


「その前に聞く」

 ゼノンはセラフィナへ向き直った。

「上位座ってのは、結局何だ」


 セラフィナは無色の階段を見下ろしたまま答える。


「名称はいくつもあるわ」

「原初座、中枢座、上位座、深層心核」

「でも、どれも正確じゃない」


「分かりやすく言え」


「……祈りが奇跡へ変わる直前の場所」

「人の願いがまだ神の名を持たず、ただの力として留まっている座」


 その説明は、妙に耳に残った。


 神ではない。

 神の手前。

 だから人が触れれば禁忌になる。


 エルシオンが足場の端で笑う。


「綺麗に言い換えたな、セラフィナ」

「本質はもっと単純だ」

「上位座は、世界が“誰に奇跡を通すか”決める場所だ」

「だからこそ、器の定義一つで全部が変わる」


 ゼノンは眉をひそめる。


「返流器ってやつも、そこで本決まりになるのか」


「そうだ」

 エルシオンは頷く。

「今のお前は暫定だ。第一節と本鐘の介入で、一時的に“そういう器として扱われている”だけ」

「上位座に入れば、深層はお前を正式な受け手にするか、壊して別の器を探すかを決める」


 セラフィナが低く吐き捨てる。


「随分親切に説明するじゃない」


「決まっている」

 エルシオンは静かに言う。

「どうせ行くんだろう」

「なら、知らないまま落ちるよりはましだ」


 その言葉だけは、妙に素直だった。

 敗北を認めたわけではない。だが、少なくともこの場で本鐘を鳴らし続ける手は失ったと理解したのだろう。


 ゼノンは少しだけ考え、それからセラフィナへ言った。


「こいつ、置いていくのか」


「連れてはいけない」


「置いていけば、また何かするかもしれない」


「その時は、ここごと潰すしかない」


 冷たい言葉だった。

 だが、それが今の彼女の限界なのだろう。


 ゼノンはエルシオンを見る。

 男はもう抵抗しなかった。ただ、足場の向こうへ伸びる無色の階段を見ている。


「……お前は行かないのか」


 試すようにゼノンが問うと、エルシオンは薄く目を細めた。


「行けない」

「今の私は、上位座に拒まれる」

「自己同一率が閾値を下回っているらしいからな」


 選定機構の言葉を、皮肉みたいに繰り返す。

 だがその声の奥に、悔しさに近いものが滲んでいた。


「だからお前に行かせる」

「そして多分、お前は戻ってきた時、私の言葉を少しは理解する」


「理解しても、同じ側に立つとは限らない」


「そうだな」

 エルシオンはかすかに笑う。

「それでも、今よりは遠くへ見えるようになる」


 それを聞きながら、ゼノンは内心で小さく舌打ちした。


 気に入らない。

 だが、完全に否定しきれないのも事実だった。


 ここまで来るだけで、前の自分が見ていた世界はもうずいぶん遠い。井戸の底の祭壇に触れる前、勇者パーティを追放された補助神官だった頃の自分なら、こんな話は何一つ理解できなかっただろう。


 それでも――

 だからといって、余白を切り捨てる側へ行く気はない。


 ゼノンは無色の階段へ足を向けた。


 階段の縁に立つと、胸の奥の熱が静かに応える。怖い。足がすくむほどではないが、正体の知れない冷たさが背骨を這う。それでも後ずさる気にはならなかった。


 セラフィナが並ぶ。


「先に言っておく」

「上位座では、今まで以上に“問い”が来ると思う」

「本鐘みたいな呼び声じゃない。もっと根本的なやつ」


「答えを間違えたら?」


「器として固定されるか、弾かれて壊れるか、その両方」


「簡単に言うな」


「簡単じゃない」

「でも、そういう場所よ」


 ゼノンは小さく息を吐き、振り返った。


 足場の上には、本鐘。

 拘束されたエルシオン。

 砕けた白杭。

 そして、自分たちがここまで下ってきた道の暗がり。


 さらにその上には、崩聖堂の裂け目で待っているミラがいる。

 二日待つと言った。戻らなければ逃げろとも言った。


 その言葉を、本当に守らせる気があるなら。

 ここで止まるわけにはいかなかった。


「行くぞ」


 ゼノンが言う。

 セラフィナが頷く。


 そして二人は、無色の階段へ足を踏み出した。


 踏んだはずなのに、石の感触はなかった。

 水面に乗ったみたいに、足裏の境界が一瞬だけ曖昧になる。


 次の瞬間、空洞の景色がぐにゃりと歪んだ。


 本鐘も、足場も、エルシオンの姿も、白い灯も、全部が遠ざかる。

 視界を埋めるのは無色の流れだけだ。その中に、無数の祈りの線が交差している。村。集落。もっと遠い場所。まだ知らない誰かの願いまで、すべてが一本の巨大な網へ繋がっていた。


『返流器』

『第二節保持個体』


 静かな声が、今度はすぐ近くで響く。


『上位座前域へ到達』

『最後の問いを開始します』


 世界が、また一段深く沈んだ。

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