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【異世界転生溺愛短編小説】沈黙の天才令嬢、辺境の皇帝に溺愛される  作者: 藍埜佑


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第4話: 魔力枯渇の帝国。一分間の詠唱を、一秒の「数式」にデバッグします。

 昨晩の出来事を、物理学的に定義するならば「不可逆的な相転移」だった。

 

 アルカディア帝国の冷たい月明かりの下、額に落とされた体温の残滓。それはエリーゼの脳内ネットワークにおいて、既存の防壁(ファイアウォール)をすべて焼き切り、情動を司る扁桃体を過負荷(オーバーロード)させるに十分な衝撃だった。

 

 翌朝。離宮の寝室で目覚めたエリーゼは、真っ白な天蓋を見上げながら、自身のバイタルサインをチェックしていた。

 

(……心拍数、通常時より十五パーセント増を維持。血中のオキシトシン濃度が異常値を記録しているわ。昨夜のシグルド様の唇から伝達された熱エネルギーは微々たるもののはずなのに、なぜ私の神経系はこれほどまでに……非合理なフィードバック・ループを繰り返しているの?)

 

 彼女はシーツを頭まで被り、もごもごと身悶えした。外見は相変わらず「氷の彫像」のような無表情を保っているが、布団の中では足がバタバタと悶絶を繰り返している。もし前世の教え子たちがこの光景を見たら、物理学界の至宝が「ただの恋する乙女」に成り下がったと驚倒するに違いない。

 

 コンコン、と扉が叩かれる。

 

「エリーゼ様、朝のお召し替えを。陛下がお庭でお待ちです」

 

 侍女の声に、エリーゼは一瞬で思考を「公的モード(パブリックプロトコル)」に切り替えた。

 

 庭園へ向かうと、そこには朝露に濡れた黒い軍服を纏ったシグルドが立っていた。彼はエリーゼの姿を認めると、その端正な唇を柔らかく綻ばせた。

 

「おはよう、エリーゼ。昨夜はよく眠れたか? ……ほう、魔力の揺らぎがまだ少し乱れているな。やはり、昨夜の『挨拶』は刺激が強すぎたか」

 

 シグルドは彼女の赤くなった耳朶を見逃さず、揶揄するように目を細める。

 

「……睡眠、不足。……環境、変化のため」

 

 エリーゼは視線を斜め下四十五度に固定し、それっぽく短い言葉を絞り出した。内心では「あなたのせいです!」と数万文字の苦情(ラブレター)を綴っているのだが。

 

 シグルドは満足げに頷くと、表情を軍事指導者としての鋭いものに変えた。

 

「さて、顧問賢者としての初仕事だ。……ついてきてくれ。我が帝国のアキレス腱……『魔力枯渇(マナ・ドレイン)』の現実を見せる」

 

 二人が向かったのは、帝都の地下深くに位置する『第一魔導修練場』だった。

 

 そこでは、帝国選り抜きの魔導騎士たちが、額に汗を浮かべて魔法の修練に励んでいた。だが、エリーゼが目にした光景は、王国の華やかな魔法行使とはかけ離れた、泥臭く、非効率なものだった。

 

「『荒れ狂う風の精霊よ、大気の理を編み、真空の刃を以て……我が敵を断ち切れ!』」

 

 一人の騎士が、一分近い長大な詠唱を行い、ようやく直径数十センチの「風の刃」を放った。それは訓練用の石柱を僅かに削っただけで、騎士はそのまま膝をつき、激しい呼吸を繰り返している。

 

「見ての通りだ。この帝国の土地は、マナの流動が極めて不安定だ。魔法を発動させるために、他国の三倍以上の詠唱時間と魔力消費を必要とする。戦場において、この『時間的・資源的ロス』は致命的だ」

 

 シグルドの言葉には、重い焦燥が混じっていた。

 

 エリーゼは、倒れ込んだ騎士とその周囲に漂うマナの残滓を、解析眼で凝視した。

 

(……酷い。これはまるで、百年前のダイヤルアップ接続で、4K動画をダウンロードしようとしているようなものね。情報伝達のS/N比が低すぎるわ)

 

 エリーゼは、無言のまま修練場の中央へと歩み出た。

 

「おい、アステリアの令嬢。危ないぞ! ここは魔力が暴走しやすい場所だ!」

 

 騎士たちが叫ぶが、エリーゼの耳には届かない。彼女の脳内ではすでに、この世界の「魔法言語」という名のプログラミング言語のデバッグ作業が始まっていた。

 

(魔法とは、意志を物理事象に変換するための関数。この世界の人々が『詠唱』と呼んでいるものは、不要なコメントアウトや、冗長なライブラリの読み込みが多すぎるわ。……例えば今の『風の刃(ウィンド・カッター)』)

 

 彼女は虚空に指先で、たった一行の「数式」を刻んだ。

 

(精霊への懇願は不要。……必要なのは、流体におけるベルヌーイの定理。速度の二乗に比例して動圧が増加し、静圧が減少する。局所的な圧力差を生成し、真空破壊を引き起こす。……必要なパラメータは、座標、ベクトル、そして圧縮率のみ。……コンパイル、完了)

 

 エリーゼが()()()()()()

 

 シュンッ、という、針が空気を切り裂くような極めて短い音。

 

 刹那。

 

 訓練場の奥にある、高さ三メートルの強化石柱が、バターをナイフで切るように、音もなく水平に真っ二つに分かたれた。

 

「…………は?」

 

 騎士たちの誰かが、間の抜けた声を漏らした。

 

 詠唱はなかった。魔法陣の輝きすら、一瞬だった。

 何より、あの一分間の詠唱を必要とした魔法よりも、圧倒的に鋭く、強力で、そして「速い」。

 

「……デバッグ、完了。……六十秒の冗長。一秒に、短縮」

 

 エリーゼは平然と、自身の指先を見つめながら呟いた。

 

(マナの消費量も、従来の〇・五パーセント以下。……やはり、情報の圧縮こそが魔導における正義だわ。この世界の魔法学者は、情緒に頼りすぎていて、物理定数を疎かにしているのね)

 

 修練場を、震えるような沈黙が支配した。

 

 騎士たちの顔が、驚愕から「畏怖」へと変わっていく。一分かかっていた魔法を、たった一秒で。それは軍事バランスを根底から覆す、悪魔のような、あるいは神のような所業だった。

 

 シグルドだけが、その沈黙の中で一人、喉を鳴らして笑った。

 

「……素晴らしい。これだ、俺が求めていたのは。エリーゼ、君はたった今、我が帝国の騎士団を一千年の遅れから救い出したぞ」

 

 シグルドはエリーゼに歩み寄り、その肩を抱き寄せた。彼の黄金の瞳には、狂おしいほどの称賛と、そして「誰にも渡さない」という剥き出しの熱量が宿っていた。

 

「見ろ、バレンシュタイン! これが、貴様らが『不要なゴミ』と評した少女がもたらした真理だ! 一分を一秒に変える。……これはもはや、魔法ではない。神の審判だ」

 

 公爵バレンシュタインは、地面に膝をつき、震える手で折れた石柱に触れた。

 

「……この切り口……。魔力の干渉痕が、寸分の乱れもない。……エリーゼ様。我々愚鈍な武人に、その深淵の一端を、どうか……どうかご教授願いたい!」

 

 騎士たちが一斉に、エリーゼに向かって跪いた。

 

 かつて王国で、自分勝手な理屈を並べて彼女を「可愛くない」と切り捨てた男たちとは、正反対の反応。ここでは、彼女の「天才性」こそが、何よりも尊ばれる価値だった。

 

 エリーゼは、シグルドの腕の中で、僅かにその表情を綻ばせた。

 

(……認められる、ということ。……解析不能な幸福。……胸の鼓動のグラフが、また、制御不能(アンコントローラブル)に跳ね上がっている……)

 

 彼女は真っ赤な顔で、シグルドの服の袖をぎゅっと握った。

 

「……効率化、進めます。……もっと、速く」

 

 その言葉は短かったが、彼女の心の中では、帝国を救い、そしてこの最愛の男を守り抜くための、数百万行に及ぶ壮大な「愛の演算」が開始されていた。

 

 言葉の代わりに数式で。

 沈黙の代わりに結果で。

 

 コミュ障の天才令嬢による、帝国の「再定義(リブート)」が、今、加速していく。

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