第3話: 「君の思考は宇宙一の宝だ」言葉のいらない溺愛生活が始まりました。
物理学において、ベクトルの向きが変わる瞬間を「転換点」と呼ぶ。
エリーゼ・ド・ラプラスを乗せた軍用馬は、吹き荒れる雪を割り、アルカディア帝国の帝都『アイゼンガルド』へと入城した。
そこは、アステリア王国の優美だが軟弱な装飾とは無縁の世界だった。重厚な黒石と鉄で築かれた建物が立ち並び、街全体が巨大な精密機械のように無駄なく配置されている。道を行く民衆や兵士たちの魔力波形は、厳しい寒さに耐えるために極限まで圧縮され、研ぎ澄まされていた。
(……驚異的。都市設計そのものが、熱流束を最小限に抑えるためのハニカム構造を模しているわ。装飾を排し、機能美のみを追求した結果、この極寒の地でこれほどの熱効率を実現しているなんて。設計者は、ベルヌーイの定理や熱伝導の方程式を本能的に理解していたに違いないわ……!)
エリーゼはシグルドの腕の中で、目を輝かせて周囲を観察していた。内心では興奮のあまり、頭の中で帝都の全景を三次元モデルとして再構築し、空気抵抗と熱損失のシミュレーションを秒速で行っていた。
しかし、外から見える彼女の姿は、相変わらず冷ややかなほどに静まり返った「氷の彫像」そのものだった。
シグルドの愛馬が宮殿の正門をくぐり、広大な中庭で足を止める。そこには、突然の皇帝の帰還と、彼が連れ帰った「敵国の令嬢」を一目見ようと、重臣たちが集まっていた。
「シグルド陛下! 国境での事報は聞き及んでおりますが……まさか、本当にその娘を連れ帰られるとは! アステリア王国のスパイである可能性は考慮されないのですか!?」
馬から降りたシグルドに真っ先に詰め寄ったのは、帝国軍の最高司令官であり、質実剛健を絵に描いたような老将、バレンシュタイン公爵だった。彼の魔力は燃え盛る業火のように荒々しく、エリーゼへの明確な警戒心で赤黒く濁っている。
シグルドは、腕の中から降ろされたエリーゼを庇うように一歩前へ出た。
「バレンシュタイン、貴様の懸念はもっともだ。だが、言葉ではなく結果で判断しろ。このエリーゼが国境で見せた事象改変は、アステリアが百年の歴史をかけても到達しえぬ『真理の欠片』だった。彼女はスパイなどという矮小な存在ではない。この帝国の運命を書き換える『特異点』だ」
シグルドの断言に、重臣たちの間に動揺が走る。
エリーゼは、向けられる疑念の視線の熱量を、皮膚感覚で測定していた。
(……不信のエネルギー準位が高いわね。集団心理における負のバイアスは、論理的な対話だけでは中和できない。この世界の人間は『証明』を言葉で行おうとするけれど、それはあまりにも伝達ロスが大きいわ。情報は、物質を介した現象として提示するのが最も減衰が少ないのに)
彼女は無言のまま、宮殿のロビーに設置された巨大な魔導炉を一瞥した。それは、帝都の暖房と結界を一手に引き受ける巨大な魔導装置だったが、エリーゼの眼には「末期的なバグ」を抱えた欠陥品に見えていた。
「……非効率、です。……ロスが、三十パーセント」
エリーゼがぽつりと呟いた言葉は、広間に冷たく響いた。
「な……何を言っているんだ、この小娘は!? この『アルカディアの心臓』は、歴代の宮廷魔導師たちが心血を注いで調整し続けてきた至宝だぞ! それを一目見て、非効率だと断ずるか!」
魔導技術の責任者である技術官が、屈辱に顔を歪めて叫んだ。
エリーゼは心の中で溜息をついた。
(怒りの感情は代謝を無駄に上げるだけなのに。あの装置、マナの流体回路が層流ではなく乱流を起こしている。カルマン渦が発生して、エネルギーの大部分が摩擦熱と振動として逃げてしまっている。これではカルノーサイクルにおける理想的な熱効率には程遠いわ。マナの噴射角を、あと二・七五度修正するだけで、出力は劇的に改善されるのに……)
説明すれば長くなる。そして、説明しても彼らは理解できないだろう。
エリーゼは無表情のまま、シグルドを見上げた。シグルドは彼女の「沈黙の真意」を読み取ろうと、その黄金の瞳を細める。
「エリーゼ、何か気になるのか?」
「……修理、します。……五秒、ください」
エリーゼはそう言うと、周囲の制止を無視して魔導炉の制御盤へと歩み寄った。警備の兵士たちが武器を構えるが、シグルドが片手を上げてそれを制する。
「手出しは無用だ。……見せてみろ、エリーゼ。貴様の言う『効率』という名の奇跡を」
エリーゼは制御盤に右手をかざした。
彼女の脳内で、魔導炉内部のマナ流動がベクトル図として可視化される。彼女が行うのは「魔力の追加」ではない。既存の回路に「最適化のパッチ」を当てることだ。
(座標軸設定。マナの粘性係数を暫定的に一に固定。……ナビエ・ストークス方程式の数値解を導出。流路の特異点を除去し、層流へと再構築。……実行)
パチン、と指先を鳴らすような小さな音がした。
次の瞬間、それまで重低音を立てて振動していた魔導炉が、嘘のように静まり返った。不快な唸り声は消え、代わりにシルクのような滑らかな魔力の波動が、宮殿全体へと静かに波及していく。
直後、室温が急激に上昇した。
「な……なんだと!? 魔力消費量が激減しているのに、出力が三割も上がっているだと!? それに、この安定感……今までどれだけ調整しても消えなかった微振動が、完全に消滅している!」
技術官が計測器を二度見し、膝から崩れ落ちた。
重臣たちの顔から、エリーゼへの軽蔑が消え、代わりに言い知れぬ「恐怖」と、それを上回る「期待」が浮かび上がる。
エリーゼは平然とした顔で、シグルドの元へ戻った。
(ふぅ、これで作動係数は理論上の限界値に近づいたわ。でも、まだ改善の余地はあるわね。触媒の劣化速度を抑えるためのコーティング剤を開発すれば……)
思考に没頭する彼女の肩を、シグルドが強く引き寄せた。
「見たか。これが俺が認めた女、エリーゼの実力だ」
シグルドの声には、確かな誇りと、そしてエリーゼさえも動揺させるほどの「独占欲」が混じっていた。
「バレンシュタイン。もはや異論はないな。今日この時より、エリーゼ・ド・ラプラスを『帝国特級顧問賢者』に任じる。彼女への無礼は、俺への反逆とみなす」
重臣たちは一斉に跪き、帝国の新たな「頭脳」へと頭を垂れた。
エリーゼは、シグルドの横顔を盗み見た。
(……特級、顧問……。現世では学閥と人間関係に阻まれて、自分の理論を世に出すことすら叶わなかったのに。この人は、私の言葉の少なさも、不可解な行動も、すべて『実力』として受け止めてくれる。……なんて、計算外な。胸の奥の収縮が、フーリエ級数展開しても収束しないくらい加速している……!)
その夜、エリーゼに与えられたのは、皇族しか使えない離宮の最上階だった。
一人になった部屋で、彼女は窓から帝都の灯りを見つめていた。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「エリーゼ。入ってもいいか?」
現れたのは、公式の場での威圧的な外套を脱いだ、一人の青年としてのシグルドだった。彼は手にした銀のトレイをテーブルに置く。そこには、温かいココアのような飲み物と、見たこともない繊細な焼き菓子が並んでいた。
「お疲れ様。慣れない環境で、頭を使いすぎただろう? これは俺の国で採れる希少なカカオを使った茶だ。脳の栄養には糖分が必要だと、君の魔力がそう言っている気がしてな」
シグルドはエリーゼの隣に腰を下ろした。その距離は、昼間よりもずっと近い。
エリーゼはパニックを起こしそうになるのを必死で抑え、差し出された茶を啜った。
(……甘い。脳内のグルコース濃度が最適化されていく。……それにしても、シグルド様。私のような不気味な女に、なぜこれほどまでによくしてくださるのかしら。私はあなたの役に立つ『道具』としては優秀かもしれないけれど、それ以上の価値はないはずなのに)
彼女が内心の不安を隠すように俯くと、シグルドがそっと彼女の顎を持ち上げた。
「……君は、自分の価値を低く見積もりすぎだ、エリーゼ」
シグルドの黄金の瞳には、エリーゼが今まで一度も向けられたことのない、深く、重い情愛が宿っていた。
「君の魔力は、夜空の星々が並ぶ法則を視ているかのように美しい。君が黙っている時、その中では宇宙が生まれるような壮大な計算が繰り広げられている。……俺は、その『静かな光』をずっと探していたのかもしれない」
シグルドの顔が近づく。エリーゼの脳内計算機が、警報を出し始める。
「俺の前では、賢者である必要はない。……ただ、エリーゼとしてそこにいてくれれば、それでいい」
シグルドの手が、エリーゼの髪を優しく撫でる。
(あ……あ……。システム、ダウン……。論理的思考回路、完全遮断。熱暴走……! 今のシグルド様の表情に含まれるセロトニンの分泌を解析する余裕なんて、もう……一マイクロも残っていない……!)
エリーゼは真っ赤な顔をして、震える手でコップを握りしめた。
「ほう……お前の魔力、今はとても『可愛らしい色』をしているな」
シグルドは楽しそうに微笑むと、彼女の額にそっと、羽が触れるような熱いキスを落とした。
孤独だった天才。
言葉の壁に閉じ込められていた魂。
彼女は今、計算尽くされた物理法則の向こう側にある、「愛」という名の解けない数式に、初めて向き合おうとしていた。
帝国の夜は更けていくが、エリーゼの脳内と心臓の「熱交換」は、一晩中、激しく繰り返されることになった。




