第一章‐10
「あまり期待しないでくれよ、運動神経が良いとはあまり思えないからね、脚がもつれて転んだ事からするに」
おかげでスラッグと知り合えたという見方もあるけれど、転ばず逃げ切れていれば襲われるという恐怖体験をする事なく出会えていたのでは、と想像する。無意味な想像だ。
「心配するな、筋肉を鍛え上げれば神経も鍛えられるさ。俺に任せろ」
その強靭な肉体で予想は出来ていたが、彼は筋力トレーニングマニアらしい。力をつける事にとてつもない悦びを感じていそうな雰囲気を感じる。彼の下でトレーニングはハードだろう事が予想されていささか青ざめる思いだが、将来的な不安は全く感じない。とても頼りがいのある男だ。家族というワードに関連付けてれば、良い兄貴となるだろう。
「早速、明日は鍛錬を兼ねて武器の扱い方、森での過ごし方でも説明しよう。森がコウを歓迎しているぞ」
「襲われた翌日にもう森に行かせるつもり、何て酷い」
アテラは薄く微笑む。口では憐れんでいるようでも、内心では兄同様に楽しんでいるようだ。
「何言ってる、コウはこんなにも平気そうな顔しているじゃないか、例え再び死にそうになってもするりと避けて返り討ちにするさ。きっとできるようになる。俺の目に狂いはないぞ」
スラッグによる審美眼は俺をとても高く過大評価しているようだ。俺のどこにそんな要素があるのか分からないが、流石に評価しすぎではないだろうか。スラッグに対して情けない姿しか見せていないと思うのだが。この早い高評価が、彼の言う重要なのは時間ではなく距離という言葉に繋がるのだろうか。晒した醜態ではなく、俺の一挙手一投足が見せる細かな動きや思考能力によって潜在能力を推し量った……。
「スラッグが鍛えてくれれば確かに屈強なハンターになるのかもしれない。お手柔らかに頼むよ、俺は貧弱だから」
「ああ。しかし、俺に比べれば貧弱かもしれないが体は鍛えているように見えるぞ。自分を悪い方向に考えすぎじゃないか」
まじまじと見つめてスラッグは首を傾げる。それを受けて自分の腕をさすり筋肉の具合を確認する。言われてみれば柔らかいよりは硬いと表現した方がしっくりくるし、確かに筋肉量はは多いようだ。しかし記憶がないというのはやはり困ったもので鍛錬に励んでいたという実感は全くない。運動をすれば分かったりするのかもしれない。
「俺はとてもコウに期待をしている。どういうわけだか、コウの内側から力を感じるんだ。具体的には説明できないが強い意志のような、何か。それを持つコウが一体どうなっていくのか非常に楽しみなんだ。それが助けた理由でもある」
俺の内面から力が見える、と。神を信奉するスラッグが口にすると神秘的な意味合いに感じるが、それはどういうことなのだろう。俺には知覚できない、例えば過去の俺に関係するものだとしたら……一体どんな過去だったというのだ。
「スラッグがそんなにも気に入るなんて、面白いわ。私もとても楽しみよ」
同調してアテラも期待してくる。顔をほころばせる彼女はとても上品で綺麗だ。
とても筋肉マニアの妹とは思えない。そこでふと疑問に思ったことがある。この家には兄と妹の二人だけ。
「ところで、あまり訊いていい事なのか分からないけれど、二人のご両親は」
今の今まで全く話題に影もなかったから、恐らく亡くなっているのではと予想するが訊ねないわけにもいくまい。俺が家族に加わるというのなら。
「父も母も死んでいるよ。父はハンターで強かったんだが、森で行方不明。何があったんだか。母は不治の病でな。今では治療薬ができつつあるが。まぁよくある事さ」
予想通り、どちらも亡くなっていた。
「死んだのは十年近く前だから、もう悲しくなんてないのよ。こうやって二人でずっと暮らして楽しいし、これからはコウが家族に加わる。もっと楽しいかもしれない」
空気が重くならないようにか、アテラが明るく言う。とてもポジティブに。ほんの少し会話しただけなのに、彼ら兄妹がとても強い人間なのだとわかる。
「楽しいかもしれない、か。楽しい事は素晴らしいと思うし、そうしたいと思う。せっかく助かったこの命、記憶がないならここで記憶を作っていけばいいもんな。楽しい記憶で満たせば過去なんてどうでもよくなっているかもしれない。俺はこの先の人生が楽しみだよ。二人とも、俺を家族に迎えてくれてありがとう。途方に暮れる前に救ってくれて感謝している」
この世界の事はいくつかスラッグに説明してもらったが、それで十分なはずはない。一般常識でさえ自分の常識とは違うだろう。太陽神が君臨するという、俺が知る地球とは違う環境。記憶のない俺が持つ知識は殆ど役に立たないだろう。故に俺は新鮮な気持ちでヘリオスの住人になれる。一から経験を積み、成長していく。不安はある。何十メートルもある怪物を狩り続ける生活はとても過酷なものになるだろう。
デスクワークが多く存在する現代社会とは似ても似つかないが、現代社会とて楽なわけではない。
過酷な世界である事に変わりはない。重要なのはその社会でいかに適応していくかだ。この先、俺はこのまま記憶を失ったまま留まるのか、記憶を取り戻し元の環境に戻るのか、それは分からない。記憶を取り戻して留まるのかもしれないし、記憶を失ったまま元の世界に戻るのかもしれない。どうなるのかなんて分からない。変化が訪れるとしてそれはいつの事なのかも分かるはずがない。しかし俺がこの世界に居る事には何か理由があるはずだ。未来がどうなるのだとしても覚悟を決める必要がある。
俺はこのモンストラクターが存在する社会で適応するのだ。
「コウ、自分の運命をどう思う」
食事を終えた俺達は食器を片づけて、二階の寝室へと向かっていた。この社会では夜を長く過ごさないようだ。寝室へと案内しながら、スラッグは真剣な面持ちで訊ねてきた。
「理不尽だとは思うよ、意味が分からない、記憶のない状態で知らない場所で過ごせ、なんてとんでもない事だ」
答えると、スラッグは深く考えるように顎に手を添えた。俺の境遇を不憫に感じているのだろうか。俺を家族として迎えた理由として気に入ったから、内面から力を感じると言っていたが、可哀想だと思った事も少なからずあるのだと思う。だけどそんな事を考えられちゃ、良い気分はしない。更に言葉を続けた。
「だからと言って悲観的な感情だけじゃないのは、はっきり言わせてほしい。無理矢理あの森に連れ出されたのかもしれないけれど、これからヘリオスで過ごす生活が楽しみでもある。楽しく豊かに充実した毎日を生きていく。人生はかくあるべきだよ」
短くも、俺の率直な気持ちを伝える。スラッグは一瞬面食らったが、すぐに笑って、
「はっはっは、君の心はとても素晴らしい。俺の目は節穴じゃなさそうだ」
安心したスラッグは、満足そうに大きく笑っていた。




