序章 王様の夢
短く、リズミカルに、息を吐くことのほうに意識をし、より遠くに視線を向け、脚を動かす。
タッ、タッ、タッ……
アスファルトにもリズムを刻むように、ただただ脚を動かす。
私は走ることで頭をリセットする。
世間のしがらみを忘れ、自分の世界に没入する。
それは、王様が教えてくれた世界。
自己の肯定と許しの世界。
いつかこの世界に王様が遊びに来てくれることを願い続けているが、それは叶うことがないことを知っている。
私は母子家庭で育った。
父の記憶はない。母によると『交通事故』だったらしい。
頭の片隅に誰かに抱かれた記憶はあるが、それが母だったのか、父だったのか、それとも今は亡き祖母だったのかはわからない。
母は優しかったが、仕事優先だった。
女手ひとつで不自由なく育ててもらったのだ、文句はない。
ただ、親子としては少し淡泊だった。
しかし、その薄い関係の均衡は、一人のオトコによって崩された。
私が小学生の頃、当時母の交際相手だったオトコが何を勘違いしたのか、私に父の真似事をし始め、過剰な干渉を受けた。
「アレはダメだ」「コレをやりなさい」「ソノ子と遊んではダメ」
私が「他人の事に口出す前に、タバコやめたら」と言ったら殴られた。
その日から、私と母はさらにギクシャクするようになった。
その日の夜、私の夢に王様が現れた。
「キミは強い魂をしているねぇ。でもそれだと疲れるだろう」
王様は、金髪で紫の瞳を携えた少女の姿で現れた。
でも、醸し出す威厳、堂々とした立ち居振る舞い、どれもが王の気質を感じさせた。
「いい子だ。キミに特別な飴をあげよう」
王様が六弁の花をモチーフにした魔法のステッキ――王尺であることは後で知った――を握ると、私の手の中に紫に輝く飴玉が現れた。
とてもおいしそうで、私はすぐに口の中に入れた。
「おいしい、これ何の味?」
「ボクの特別なラズベリーの味だよ。キミは今、とても大変な危機に対面している」
私は頷くと、王様は言葉をつづけた。
「我慢なんてするもんじゃない。好きなお菓子を食べ、好きなことをやらなきゃ人生楽しくないだろう?」
私はもう一度頷く。
「逃げることも人生には必要なのさ。これは選択だ。選択には、必ず代償がある。でも、それを引き受けるのはキミだ」
王様は強く宣言するように言った。
しかし一呼吸置くと、再び優しく語り掛ける。
「頭のいいキミにはわかるはずだ。我慢して、禁止の柵にとらわれ、義務を押し付けられる。ハッ、そんな縛られた人生は本当にキミの人生なのかい?」
私は横に首を振る。
「そうだ、今からキミは自由だ」
口の中の甘みが夢の中なのに眠気を誘い、倒れる。
気が遠くなる前に王様の声が聞こえてくる。
「また会おう」
この夢はなぜか忘れたことがない。
王様の言葉や、動き、もらったキャンディの味まで思い出せる。
ただ、王様の顔だけはぼんやりしている。少女のような可愛い顔だったという雰囲気だけが残っている。
ジョギングを終え、クールタイムに10分ほど歩いて目的の喫茶店へ向かう。
この程度の運動では汗はほとんどかいておらず、タオルで軽くふいて制汗スプレーを吹き付ければ何の問題もない。
カラン
小気味よい鈴の音と共に、マスターが挽いたコーヒー豆の香りが鼻をくすぐる。
席に着き、マスターに告げる。
「いつものセットをお願いします」
マスターは、私の顔を見るとわずかに目を細めた。
この落ち着く場所が、王様の言葉をヒントに選択した私の逃げ場所。
この場所があるから、私はこれまで平穏に生きてこれたんだ。




