1-4 陽の射す檻(1)
街の死骸を踏んで歩いているようだと思った。拠点施設に描かれていた奇妙な紋様は、とうの昔に廃墟となったであろう街全体を侵食している。これに寄生されたせいで人が消えたのだと言われれば信じてしまいそうだ。
辺りをうろつくうちに、自身にも模様が伝染って街の一部になってしまわないだろうか。例えばそこの看板の残骸のように、身を物言わぬ物体に変えられて。
背筋にうすら寒いものを感じたモーリェは、汚れた服の代わりにと与えられたシャツをめくりあげ、素肌に変化がないことを確かめて安堵した。痩せた腹が抱えていたのは、元より存在していた傷と痣だけだ。
「どうした、虫にでも刺されたか?」
先を歩いていた男が振り返り、声をかける。モーリェは慌てて首を横に振った。
「大丈夫、なんでもない」
「何かあったらすぐ言えよ。あともう少しこっちに寄ったほうがいい、足元崩れるかも」
崩れる? と呟いて足元を見やる。先日貰ったばかりの、少年が知らない素材でできている靴が、硬い地面に生じたひびを踏んでいた。身がすくむ思いをしながら、言われた通りに通路の端へと寄る。ひびは道と並行して走る水路へと伸びていた。
コンクリートで固められた大きな水路は、穏やかな音を奏でる水流を、青々と茂った草の足元に隠している。立ち並ぶ家屋以上に荒れた姿は、人の手を離れ風化を待つだけなのだと寂しげに語っているようだった。
二人は道をひた進む。立ち並ぶ文明の亡骸たちは沈黙を保っていた。時おり野生の獣と出くわすものの、自分より大きな相手を襲おうとはしない小型のものばかりだった。
「地上は平和なんだね」
モーリェがぽつりとこぼした感想に、先を行く男は「そうだな」と相槌を打つ。
初めての”探索”で同行することとなった男はシュテルンと名乗った。長身と担いだ斧槍、そして何よりも第三・第四の腕が目を引く青年だ。二対の腕に加え、背からは薄く透けた翅を生やしているため、姿はどことなく昆虫を思わせる。本人もそれを自覚しているようで、先日はそれを自ら話のネタとしていた。
「やばいもんが地下に集約されてんだろうなあ。潜ってすぐのとこで既に凶悪だったらしいし」
「溶けるのは、怖い……」
「だよなぁー」
先日、フォグとの”医療行為”を終えてぼんやりとしていたモーリェのもとを訪れたのは、半身をぐずぐずに爛れさせたイゾラだった。
肉を溶かされ、頭蓋骨の一部が露出している姿はあまりにも痛々しく身がすくむ。辛うじて無事な部分を支えられ、死生匣のもとへと連れられる様子を、モーリェはただ見ていることしかできなかった。
体を修復した彼が言うには、いかにも巨殲獣がいそうな地下施設への入口が、拠点のすぐ近くで見つかったらしい。調査を試みたところ、強酸を噴射する生物によって一本道が封鎖されており、行動を共にしていたジンリンが直撃を喰らって死んだとのこと。
新人が現れたのはめでたいが、初の任務は難航しそうだ……夕食を共にした四人はそう口にしていた。挨拶らしい挨拶をする前に再び死んでしまった者がいることが不憫でならない。
「でも、他に入口を見つけられりゃあまた強酸チャレンジしなくて済むだろ。回り道に見えるかもしれないけどこっちも頑張ろうぜ」
「わかった!」
シュテルンの愛嬌のある笑顔に応えるべく、威勢よく返事をして、腰に提げた鞘を握った。分け与えられた大きなベルトに、余っていたという剣をくくりつけたものだ。薄い黒塗りの刃がかなりの切れ味を持っていることは確かめたが、生物相手に上手くこれを振るえる自信はない。本物の武器を持つのは初めてなうえ、何らかの訓練を受ける暇もなかった。
戦い方は死にながら覚えろということなのだろうか。何らかの力を持っているはず、と言われた右眼は未だその能力を教えてはくれなかった。今はがむしゃらにでも剣を振るうしかない。
そんな未熟者のために、先輩たちはこの簡単そうな役割を選んでくれたのだろう。いきなり戦わされることはなくとも、色々と覚えて帰らなければ。
意気込むモーリェの前で、シュテルンはさくさくと作業を進めてゆく。持参した固形塗料で建物に数字を描き、紙に同じものを書きこんでいった。
「この数にはどんな意味が?」
「番号ふってるだけだよ。わかればなんでもいいんだ、図形でも言葉でも」
曰く、目印をつけておくことにより、後々辻褄を合わせやすくなるのだという。高所からの眺めを参考に作ったという仮の地図は、少しずつ肉付けされて精度を増していった。
その後も塀の残骸や壁に次々と線を引いていったが、それに抗議する生者はどこにもいなかった。
モーリェは同行者の後を追いながら思いを巡らせる。
探索中に先日のような発作が起こった場合、昂りを鎮めるために彼が便宜を図ってくれるのだろうか。
この調子ではいずれ仲間全員と関係を持つことになってしまうのではないか。
それをおぞましいとは感じていない自分がいることに驚き、煩悩を払うべく首を振った。先日の営みが甘く心身に纏わりつき、なかなか離れてくれずにいる。
直進続きのためか、余計なことを考えてしまう余裕があったが、程なくしてその道のりは絶えた。シュテルンが突然「うぶっ」と呻いて歩みを止めたのだった。
「ちょっとこっち来てくれ」
言われるままに駆け寄る。相手と同じものを見ようと隣に並び――何かが鼻先に触れた。その何かを取り除こうと伸ばした手が、見えない何かにぶつかる。
「ん?」
「触ってみりゃわかると思う」
怪訝な顔をしたモーリェの隣で、シュテルンは四つの手を使い、目に見えない壁を叩くような動きをして見せた。それに倣って両手で宙を探ると、確かに何かに触れる感触がある。
温度は空気に同じく、肌触りはつるりと硬い。全身を使ってその大きさを確かめようとしてみたが、平面はどこまでも広がっているようだった。
「何なんだ、これ」
「壁さ。闘人だけを通さない妙な作りのな」
ちょっと見てろよ、と告げて足元の石を拾うシュテルン。異形ではないほうの手で勢い良くそれを投げると、石は見えない壁にぶつからずに遠くまで飛んでいった。