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第一話  「・・・なんにしても、今から彼は家に帰らなければなりません」

【嫌疑刑】・・・16世紀のドイツで制定された刑法上の一制度で、有罪の証明はないが、無罪の証明もないという場合科される刑罰のこと。


 その日は代表である藤本恭治が出張で不在であったこともあって、オフィス内はいつも以上に激務によって忙殺されていた。正社員ではない岡崎智広にとってもそれは同様であり、現在はデータのチェックや書類のレビューなどといった仕事をしている。仕事ができるという点に至上の価値をおく智広にとって、仕事上の疲れは特に負担とはならなかった。もともと、気質的に疲れを厭わない人間でもある。

 藤本商事は中小企業向け融資を主業務とする小さな金融会社であった。従業員は唯一の学生である智広を含めても14人しかいない。雇用規模から見れば、中小企業の中でも小規模なほうであろう。しかし、経済規模でいえば藤本商事は決して小さいとはいえなかった。

資本金は約12億円もあり、なりよりもその株式を公開していない。元手となる資金を外部に頼らず、全ての株式を代表が独占しているという稀有な会社である。実際に融資を行っている会社の数こそ少ないが、この会社に融資を希望する中小企業は後を絶たたなかった。

そして、その審査のための作業量は従業員数に対して、あまりにも多いといえる。故に、常に神がかり的な仕事処理能力を有する恭治がいないと、今日みたいに夜9時を超えても終了の目処がつかないという状況が頻繁に生じてしまう。違いなく労働基準に引っかかってしまっているといえるだろう。もっとも、智広としては雇用契約を結んだ覚えもない以上、それは当然であったともいえる。



 一度体を伸ばして筋肉をほぐすと、智広はちらりと時計を見た。9時30分という数字を確認して、再びパソコンに目を戻した時、ノックもなくオフィスの扉がいきなり開いた。

「ともくん、いますよね?」

 その声と共に部屋に入ってきたのは恭司の一人娘である藤本彩夏である。智広の席を人目確認すると、現在不在の恭治の代理を務める金島を睨みつけた。

「金島さん、お忙しいのはわかりますが、いつまで学生のとも君を拘束しているんですか?時間を見てください、時間を」

 そう非難の声を向けられた金島は、へらへらと調子よく彼女に答えた。

「いやぁ〜、お嬢さん。あたしゃぁ、一言、言っといたんですけどねぇ。なんでも、本人が仕事終わらないんで残るんでって」

 金島の人相はもともと良くない。特に残忍そうな目元が強く印象に残る。智広も詳しくは知らないが、そのしゃべり方といい、おそらく以前はそっち系の人間であったのだろう。この会社には恭治がそのようなところから集めてきた人間が結構いる。

その金島の機嫌を伺うかのような様子は、ただたんに凄まれる以上の迫力を感じさせる。しかし、そんな金島に対して、彩夏はまったく気にした風を見せなかった。

「では、量がおかしいのでしょう。とも君が終わらないということはもともと学生には無理な仕事量であっただけです。なんにしても、今から彼は家に帰らなければなりません。ともくん、いいよね?」

 最後は智広に向けたものであった。本当なら、なるべくノルマは終わらせたいと思っていたが、彼には経験上ここで彼女に逆らっても無駄だということは理解していた。故にそんな無用な時間の浪費はしないようにする。それは、この場にいるみんなもわかっているようで、それぞれに苦笑したり、智広と彩夏の関係を囃すかのように口笛を吹いていたりしている。

「ええ、わかりました。10分ほどで支度しますので待ってもらえますか?では、そういうことですので、みなさんお先に失礼させていただきます」

 その智広の声に応じて、テーブルのあちこちから返事の声が挙がった。



 テーブルを手早く片付けて、荷物をまとめた後、従業員達に一声をかけてから智広と彩夏は共に夜の街を歩き出した。季節はもう桜の咲く季節であるとはいえ、この時間になれば空気はかなり冷たくなる。

「彩夏さん、どうもすみません。・・・しかし、それにしても事務所来るなんて珍しいですね。今日はどうしたんですか?」

「早く帰らせてくださいって、愛ちゃんから電話があったのよ。とも君、明日から始業式なんだって?」

 彩夏が駄目だぞと表情で語っている。もともと、容姿がよく顔立ちが秀麗な彼女はその表情も豊かであった。もっとも、それも誰に対するかによって使い分けている節があって、智広なんかは、実は腹黒い人だと認識している。

「愛が?それは嬉しいですね」

 岡崎愛―妹からの電話があったという知らせに対し、智広は嬉しそうに答えた。

「・・・喜んでいるところ悪いけど、とも君が家に帰ってバタバタされると眠れなくて困るっていってたわよ?」

「いえいえ、それは照れ隠しですよ。」

 にやけながらそう言う智広に対して、彩夏はため息混じりに文句を言った。智広本人が一番、自分の言葉を信じていないことは彼女も知るところである。

「まぁ、どうでもいいけど。それよりも、別にいいじゃない、こういう連絡は、直接とも君の携帯にしてくれたら。おかげでこんな夜中を女の子一人歩く羽目になったんだよ?」

 それを聞くと、智広は少し困ったような顔をした。

「・・・それは、確かに申し訳ないです。今度にでも、あいつには彩夏さんに迷惑をかけるようなことをやめるように言っておきましょう」

「あっ、いえいえ、あの軽く冗談だったんで、そんなマジにヘコまれてもしょうがないんですけど・・・」

 落ち込む智広に対して、彩夏は逆に困っていたように付け加える。その顔には苦笑の表情を浮かべていた。

「でも、やはり事務所のものはプライベートで使うわけにはいかないですよ。携帯が恭治さんから支給されている以上、やはり公私はわけないと。だから、あいつらに僕の携帯や事務所へ直接電話というのは許していないんです」

「・・・もぅ、とも君は堅すぎるよ。まぁ、実際、今回もそんな迷惑でなかったからそれはいいんだよね。こんな役得もあるし」

 そこで、突然彩夏は腕を智宏に絡ませてきた。それについては、いつものことと智宏は特に気にしない。彩夏の方も冗談のつもりだったらしく、すぐに体を離した。そして、祖もまま動かず、少し深刻そうな表情で智宏を見つめている。智広も立ち止まり、彩夏の秀麗な顔に顔を向けた。

「あれ、どうかしました?」

「・・・ねぇ、私、愛ちゃんと努君はやっぱり苦手なのかもしれない。やっぱり嫌われているみたいで、どうも会話が硬くなっちゃうんだ。まぁ、仕方ないといえばそうかもしれないんだけどね。」

 そう言って智広を見る彩夏は寂しそうな顔をしていた。実際いろいろと押さえている感情があるのだろう。その表情の中には寂しさと共に若干の罪悪感が含まれているように見受けられる。智広は心の中で少し慌てながらもそれを隠し、努めて明るく言い放った。

「あ、それは困りましたね。二人とも彩夏にとっては、将来の義兄弟ですのに。いっぺんに敵に回してしまいますと、嫁小姑戦争が起きたときに大変ですよ?」

「もぅ、とも君は。・・・お姉さんそういう冗談はあまり好きじゃないからね」

 少しだけ赤くなった顔を隠すように彩夏は前を向いて、すたすたと歩き始めた。智広はそれを楽しそうに見ていると、前で彩夏が振り返り、今度は少し怒ったように言う。

「なにしているの?せめて帰りぐらいは送ってよ」



 藤本商事のオフィスから彩夏の家に至るまでの道の途中に智広達の住むアパートはある。しかし、彩夏自身が希望したということ、もう10時を過ぎていること、そして何より女の子を一人で帰してはいけないという一般規範より智広は一旦藤本家まで向かうこととなるだろう。

「とも君さぁ、やっぱり君も愛ちゃんや努君とはあまり上手くいってないでしょ」

 歩きながら彩夏が少し心配そうな声で聞いてきた。既に智広のアパートの近所まで来ている。智広はどうだろうと考える。努とは相変わらず会うごとに喧嘩するというような状況である。といっても、努が一方的に智広に対して突っかかり、それを智広があしらうといった形であるが。一方、男女の差なのか、一年という歳の差なのかわからないが、愛とはそのようなことはない。しかし、だからといって一般家庭の兄弟における信頼関係が気づけているかどうかと考えると違うような気がする。

 正直、彩夏が心配するまでもなく、智広は常に現在の岡崎家の異常性について考えてはいた。しかし、結局人というものは個人で生きるしかないだろうと結論付け、家庭について本気で心配する段階には至ってはいない。いつか、分かり合える日が来るかもしれないし、来なかったとしてもそれはそれでしょうがないと思っているのである。


 しかし、ことの原因については彩夏にもまったく関係がないとは言えない。彼女を無駄に心配させる必要もないとは智広も思う。ましてや、彼女に関係はあるが、責任はないのだから。

「他の人から見たらそうかもしれないですね。・・・でも、そうですね。これが岡崎家の普通なんですよ。少年少女はだめな年長者と衝突し、そして反面教師にして成長していくんもんですから、それを実践しているにすぎませんよ」

 結局、彼は2年年上の先輩に対して、彩夏がこれ以上心配することがないようにと願いながら、こう笑いかけたのであった。もちろん、相手も詭弁だということすぐわかるだろうと重々承知も、強引に話を打ち切ったのである。



「あれ?・・・あれ、引越しじゃない?」

 十字路を曲がり、アパートが見えるところまで歩いたとき、彩夏が声を上げた。確かに智広が住む小さなアパートの前の道に引越しサービス業のトラックが止まっている。

「えぇと、誰かが出て行くという話は聞いてませんね。としますと、どこかの空き部屋に人が入るのではないですか」

「そうなの?それなら、これでリミットは残り1部屋ね。ということで、とも君達もそろそろ観念したほうがいいんじゃない?」

 彩夏がこのように機嫌よく笑うのには理由があった。とある事情が起因して、岡崎智也、愛、努の三人兄弟は両親を相次いで失っている。そして、その事情が原因なのか、それとも単に3人の子供を抱えるのを忌避したのかはわからないが、彼らを積極的受け入れようとする親族はいなかった。

 もちろん、智広の親族が悪人達の巣窟というわけではなく、兄弟が申し出たら誰かしら必ず受け入れてくれただろう。しかし、彼らは厄介者になるとわかっていながら、親戚に迷惑をかける気にはなれなかった。それなりの額の遺産があったことも、このことに関係があったといえる。しかし、それでも将来のことも考えて、当時の住居を売り払い、もっと安価な住居を見つけるべきだということで兄弟は意見が一致した。そして、その際に、彼らの後見人となった藤本恭治が、まぁ主に藤本彩夏であるともいえるが、自分の家に住まないかと提案したのである。

藤本恭治の自宅は資産家に相応しい豪邸であり、しかも、早くして妻に死に別れていたため、兄弟の居住スペースは十分にあった。さらに、同じ市内であったため、学校を転校する必要もない。彼らにとってこの上ない好い条件の提案であったはずである。

 だが、兄弟はその傍目からみて好意の提案をはね除けた。彼らの両親の死に大きく関わっている藤本恭治の家で暮らすことに対しては、愛と努が猛反対したのである。

そもそも、智広の独断で藤本恭治を彼ら兄弟の後見人にしたという点についてだけでも、努にとっては許せるものではなかった。

 智広はときどきこう思うことがある。もし現代日本の制度に嫌疑刑なるものが存在したとしたら、高崎家と藤本家に横たわる溝も幾分か解消されたのではないだろうか。しかし、現実的に疑わしきは罰せずという理念のもと、法の審判は下されず、当事者の一部にしこりを残す結果となった。

 そんな中で、彼らが決めた住まいが現在のアパートである。このアパートのオーナーであり、管理人である老夫婦は亡くなった両親の知人であった。彼らは兄弟の身上に同情し、ただ同然のような値段で兄弟に部屋貸してくれている。

それに対して、このアパートの住民がいっぱいになったときにここを離れようと兄弟で決めたのであった。現在は空き室が多々あるからいいものの、入居者がいっぱいになったとき、兄弟が住み着いていることは間違いなく迷惑をかけることになるだろう。

「さすがに安達のおじいちゃん達みたいな善良な人は早々見つからないと思うよ。だから、そのときは是非私の家に来てね。歓迎するわ。今のまんまあの家にお父さんと二人では、もう寂しくて寂しくて」

 さきほど、愛と努に嫌われていることを気にしていたにもかかわらず、彩夏はそのようなことを口にした。智広はその彩夏の親切に少なからず感謝を覚えたが、一方では自分がこの綺麗な少女の好意に払えるような対価があるのかと冷めた頭で思う。世の中ではなかなか等価交換が働かないもんだなと、思いながら彼女の家を目指して歩いていくのであった。藤本家へ一方的に頼っている現状では、どだい無理なもんだともいえる。



 そして、当時の彼らには知るよしもないことであるが、この日に転居してきた一人の少年が岡崎家と藤本家を大きく変えることになる。その者の名は森嶋弘輝といった。






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