③
キースが前世――ゼンの記憶を語ったとき、その声はすでに静かに揺れていた。
言葉を選んでいるのではない。
抑えているのでもない。
ただ、溢れてしまいそうな何かを、必死に形にしているだけだった。
私はそれを見ていた。
理解しようとしたが、まだどこかで受け止めきれずにいた。
しかし胸の奥に、言葉にならない引っかかりだけが残る。
それは痛みではなく、もっと曖昧で――
“思い出しかけている何か”のような感覚だった。
気づけば、指先が動いていた。
無意識のまま、キースに触れようとしていた。
その瞬間だった。
視界が、揺れた。
——違う、これは“今”じゃない。
光の質が変わる。
床の感触が消え、代わりに柔らかな土の匂いがした。
空気が軽く、そしてどこか懐かしい。
気づけば、そこは王宮の庭だった。
幼い自分が、そこにいる。
そして、そのすぐ隣。
いつも少し後ろに立っているのに、決して離れない影があった。
「ゼン」
自然と、その名が浮かぶ。
呼んだ記憶すらないのに、口が覚えていた。
宰相の家の子。
同じ年頃で、いつも王宮に出入りしていた少年。
親友と呼ぶには少し静かで、従者と呼ぶにはあまりにも近い距離にいる存在。
背筋はまっすぐで、年齢に似合わず落ち着いた目をしている。
けれど私を見るときだけ、その奥がほんの少しだけ柔らかくなる。
「また転びそうでしたね、ティア様」
淡々とした声。
それなのに、そこには確かな温度があった。
「ゼンがいるから大丈夫よ」
幼い自分の声が、無邪気に響く。
その言葉に、彼はほんの少しだけ目を細める。
――その一瞬が、なぜか胸に残った。
それから何度も、何度も。
誰にも見られていない場所で、そっと隣に立っていたこと。
泣くことを許されない夜、言葉もなく傍にいたこと。
“守っていた”というより、
“そこに在り続けていた”存在。
それだけが、ずっと支えだった。
なのに――景色がまた揺れる。
空気が重く沈む。
庭の光が消えていく。
代わりに、血の匂いが滲んだ。
崩れた王宮の廊下。
冷たい石の上に、私は倒れていた。
もう声も出ない。
ただ、かすかに息をしているだけ。
その傍にいた。
誰よりも近くに、いつも隣にいた人が。
崩れた世界の中で、必死にその身体を抱きしめている。
「……ゼン」
声が震えていた。
ゼンは血に濡れた手で、必死に呼吸を確かめている。
壊れそうなほど静かな声で、何度も名前を呼んでいる。
「ルーナ様……」
その声が、やけに優しかった。
こんな状況なのに。
こんな終わりなのに。
まるで、まだ間に合うと信じているみたいに。
でも――もう、間に合っていなかった。
視界が滲む。
そのとき初めて気づく。
“守ってくれていた人”は、ずっと自分の知らない場所で崩れていっていた。
自分の選択も、言葉も、気づかなかった何かも。
全部が少しずつ、彼を壊していたのかもしれない。
「……私の、せい……?」
声にならない。
罪の輪郭だけが、静かに浮かび上がる。
そして―崩れかける世界の最後の瞬間。
その腕の中の“自分”が、ほんのわずかに息を吐いた。
途切れそうな意識の中で。
それでも、微かに。
安心したように。
恐怖でもなく。
絶望でもなく。
ただ静かに、目を閉じる。
その表情を見た瞬間。
私の中で、何かが崩れた。
ああ。
そうだ。
あのとき私は――怖くなかったんじゃない。
安心してしまっていたんだ。
誰かが、ちゃんとそこにいてくれることに。
最後まで、離れないことに。
その事実に、救われてしまっていた。
呼吸が止まる。
胸の奥が強く掴まれる。
“救い”だったはずの記憶が、ゆっくりと“罪”へと姿を変えていく。
その瞬間ー現実へ引き戻される。
私は膝から崩れそうになるのを、必死に堪えた。
視線の先に、キースがいる。
同じ記憶を、同じ重さで抱えてしまった人。
そして今ようやく、すべてが一本に繋がってしまったことを知る。
「……ゼン……」
もう一度、その名前を呼ぶ。
今度は、理解してしまった声で。




