②
私が、ティアと隣国の王子――アランとの関係を知った日のことを、今でもはっきり覚えている。
あの日の空気は、妙に静かだった。
王宮の一室。
昼の光はやわらかく差し込み、すべてを平穏に見せてしまうほどだった。
その静けさの中心に、彼女はいた。
視線も、言葉も、すべてがまっすぐだった。
そのまっすぐさが、むしろ残酷なほどに揺るぎなかった。
「……どうして、アラン様を愛したのですか?」
問いは、静かに落ちた。
音を立てないまま、部屋の空気に溶けていく。
責めていない。
揺さぶってもいない。
ただ、そこにあるものの“理由”を、知ろうとするだけの声だった。
彼女は一瞬だけ、息を止めた。
理由を探す。
正しさを探す。
答えになりそうなものを、いくつも並べてみる。
けれどどれも、声になる前に崩れていった。
残ったのは、ただひとつだけだった。
「どうして、かしらね……。理由なんて、分からないわ。ただ――恋に落ちてしまったの。」
その言葉は、あまりにも軽かった。
軽いのに、どうしようもなく真実だった。
言った本人でさえ、後から否定できない種類のものだった。
彼女は、わずかに目を細めた。
その仕草は拒絶ではない。
ただ、光を正面から受け止めきれずに、そっと瞬きをしたような――小さな揺らぎだった。
その奥にあったものを、当時の私は知らない。
「今のティア様にとって……一番の幸せは、アラン様との未来ですか?」
「えぇ。そうよ。」
ティアに迷いはなかった。
その声は、ひとつも引き返す余白を持っていなかった。
まっすぐで、あまりにも純粋で。
だからこそ、もうそれ以上の会話を許さなかった。
その瞬間。
何かが静かに“終わった”ー、音もなく。
誰にも気づかれないまま。
それは静かな、確定だった。
彼女の幸せは、そこにある。
それ以外の形は、最初から存在していなかったのだと――そう定義されてしまった。
「……それでは、ティア様が幸せになれるよう、私が最善を尽くしましょう。」
その言葉は誓いだった。
忠誠でも、愛でもない。
ただ、そう“作られてしまった役割”を、疑うことなく受け入れた結果だった。
あのときの私は、それを正しいと思っていた。
疑うことの意味すら、持っていなかった。
それが、始まりだった。
むしろ、終わりの形をした始まりだった。
キースの呼吸が、ほんのわずかに乱れる。
その乱れは、感情ではなく“記憶の重さ”そのものだった。
しかしアランへの違和感は、ずっとあった。
ほんの小さな綻び。
目の端に残る影のようなもの。
言葉の間に混ざる、説明できない沈黙。
それらはすべて、見ようとすれば見えたものだった。
けれど私は、見なかった。
見ないまま進んだ。
進むことが、正しいと信じていた。
ティアの選択を疑わなかった。
そして、自分の判断も疑わなかった。
その積み重ねの果てに――すべては崩れた。
気づいたときには、もう戻れなかった。
あの夜。
空気だけが、異様に静かだった。
まるで世界が息を潜めているような静けさだった。
血の匂いが、その静けさの中にだけ、確かに存在していた。
ティアは、そこにいた。
倒れていた。
それなのに、まだ“ここにいる”と分かってしまう目をしていた。
視線が、かすかに動く。
その微かな動きひとつで、希望ではなく現実が突きつけられる。
私はティアの手を取った。
冷たさが進んでいるのに、まだ消えきっていない温度があった。
それが余計に、現実を壊す。
呼吸は細く、言葉はもう届かない場所にある。
それでも、目を逸らすことだけはできなかった。
ただ、ティアを見つめていた。
止めるべき瞬間を、ただ通り過ぎてしまったすべてを。
それが、覆しようのない事実だった。
「……私が…貴方を殺した」
その言葉は、音にならなかった。
喉の奥で壊れて、形になる前に落ちていく。
守れなかった、ではない。
そんな優しい言葉では収まらない。
ー見殺しにした。
ただそれだけが、残っている。
意志は関係なかった。
悪意も関係なかった。
それでも結果は、等しくそこにあった。
ティアは、静かに遠ざかっていった。
その直後ー私の世界は終わった。
崩れていく視界の中で、思考だけが異様に冴えていた。
もし、また貴方が産まれ変われるのならばー今度こそ。
貴方は愛する人と幸せになってほしい。
それは祈りだった。
しかし救いではなく、どうしようもなく歪んだ願いだった。
そして、その願いは叶えられた。
だが同時に、代償もまた正確に支払われていた。
ルーナからゼンの記憶は消えた。
そして二人は、それぞれの痛みだけを抱えたまま、同じ時代に生まれ落ちた。
キースの唇が、わずかに動く。
「……ルーナ」
その声は呼びかけではない。
ただの確認だった。
ここまで続いてしまったものを、逃げ場なく確かめるための。




