⑥
馬車は、ほとんど止まることなく走り続けた。
車輪の音は一定なのに、胸の奥だけが不規則に揺れている。
窓の外では景色が流れていく。
それなのに——時間だけが、どこか歪んでいるようだった。
進んでいるはずなのに、何も進んでいないような、奇妙な感覚。
私は何度も口を開きかけて、そのたびに閉じた。
何を聞けばいいのか分からない。
何を聞いてしまえば、取り返しがつかなくなるのかも分からない。
ただ——隣に座るキースの手だけが、ずっと離れなかった。
強く握っているわけではない。
けれど、離せば何かが壊れてしまうと知っているような、静かな力だった。
その温もりに触れるたびに、確かな現実を感じるはずなのに。
同時に、胸の奥ではまったく別の冷たさが、じわじわと広がっていく。
言葉にしてしまえば、すべてが崩れてしまいそうで。
私はただ、黙ってその手を握り返すことしかできなかった。
やがて馬車は、ひっそりとした屋敷の前で止まる。
人気はなく、音もない。
まるで世界から切り離された場所のようだった。
風さえも、この場所だけを避けて通っているような、重たい静けさ。
「……ここだ」
キースの声は低く、押し殺されていた。
案内されるまま、長い廊下を進む。
足音がやけに響く。
一歩ごとに、心臓の音が大きくなる。
息が浅くなる。
喉の奥が、焼けるように乾いていく。
逃げたい。
ここに来てしまったことを、なかったことにしたい。
扉の向こうにある現実を、知らないままでいたい。
それでも——足は止まらなかった。
止めることができなかった。
扉の前で、キースが足を止める。
そして、静かに言った。
「……ここで待ってる」
顔を上げる。
「一人で……?」
「あぁ」
短い返事。
その目には、迷いと、痛みと——
それでも決して譲らない強さがあった。
逃げ道を残さない、優しさ。
「これは……ルーナとソラの時間だ」
扉に手をかける。
冷たい。
指先から、じわじわと感覚が奪われていく。
重い。
ただの扉のはずなのに、どうしてこんなにも開けたくないのか。
それでも——ゆっくりと押し開けた。
薄暗い室内。
閉ざされた空気。
薬の匂い。
かすかに混じる、終わりの気配。
そして——ベッドの上に横たわる、一人の人影。
「……ソラ」
その名を呼んだ瞬間、胸の奥が強く締め付けられる。
呼吸が、うまくできない。
肺に空気が入ってこない。
ゆっくりと、瞼が開く。
焦点の合わない視線が、揺れながら私を探していた。
そして——私を見つけたように、ソラは柔らかく微笑んだ。
「……ルーナ」
その声は、あまりにも弱くて。
今にも途切れてしまいそうで。
それでも確かに、彼のものだった。
気づけば、足が動いていた。
床を踏んでいる感覚すら曖昧なまま、ベッドの傍に辿り着く。
「どうして……」
喉が詰まる。
声が、うまく形にならない。
「どうして、生きているのに……死んだことにしたんですか……」
ソラは、小さく息を吐く。
それだけで胸が上下し、苦しそうに喉が震える。
それでも、目だけは穏やかだった。
「……すまない、ルーナ」
静かな声。
それが、逃げ場のない現実として重く落ちる。
「君には……幸せなってほしかったから」
その一言で、何かが崩れる。
胸の奥で、ずっと堰き止めていたものが、音もなく溢れ出す。
「こんな私が隣にいたら……ルーナはまた辛い思いをすると思ったんだよ」
言葉が、ゆっくりと沈んでいく。
拒むことも、否定することもできないまま。
視界が滲む。
輪郭が崩れる。
目の前にいるはずの人が、少しずつ遠ざかっていく。
「そんなの……勝手です」
声が震える。
押し殺しても、どうしても溢れてしまう。
「残される方が、どれだけ辛いか……分かってるくせに……」
ソラは、かすかに笑った。
その笑みは、優しくて——どうしようもなく寂しかった。
「分かってるよ」
「だから……最期まで会わないつもりだった」
沈黙が落ちる。
時間が、止まる。
「でも……」
呼吸が乱れる。
小さく、苦しそうに息を吸う音。
「キースが、連れてきた」
ルーナの目が揺れる。
「……あいつは、ずるいな」
かすれた声。
それでも、どこか柔らかい。
「全部、分かってたよ」
「キースが、ルーナに惹かれてることも」
心臓が、大きく打つ。
逃げ場がない。
「だから、任せた」
「ルーナのことを……ちゃんと、守ってくれるって思えたから」
手が震える。
否定したいのに、言葉が出ない。
ソラは、ゆっくりと手を伸ばす。
私は、その手を取った。
冷たい。
あまりにも、冷たかった。
生きているはずなのに、もう“こちら側”の温度ではない。
「……やっと、会えた」
その一言で、涙が溢れて止められなかった。
「本当は……もっと、ちゃんと別れたかった」
遅すぎる願い。
それでも、どうしようもなく切実で。
「……今からでも」
声が崩れる。
息が続かない。
「まだ、間に合います……一緒に——」
言葉は、最後まで届かなかった。
ソラの指先が、わずかに力を込める。
それが、最後の“応え”のように。
「……もう、いいんだ」
優しい声。
あまりにも優しすぎて——だからこそ残酷だった。
「君が、生きてくれれば」
「……それで、いい」
「幸せになってくれ」
その言葉が、最後だった。
ふっと——手の中の力が、抜ける。
あまりにも、軽く。
あまりにも、静かに。
「……ソラ?」
呼んでも、返事はない。
さっきまで確かにそこにいた“誰か”が、音もなく、いなくなっていく。
「……嘘」
現実が追いつかない。
理解が拒む。
こんなにも、あっけなく。
こんなにも、静かに。
私はその手を強く握りしめた。
離してしまえば、本当にすべてが終わってしまう気がして。
けれど——どれだけ力を込めても、もう何も返ってこない。
部屋の中には、ただ、取り残された静寂だけが残っていた。




