⑤
その日も、穏やかな午後だった。
窓から差し込む光はやわらかく、白いレースのカーテンを透かして、室内に淡い影を落としている。
時間はどこまでもゆるやかで、まるで外の世界と切り離されたような静けさがあった。
ロイが淹れてくれた紅茶の湯気が、ゆっくりと空気に溶けていく。
ほのかに甘い香りが、胸の奥まで満たしていくようで——
(穏やかな時間…)
ふと、そんなことを思った。
キースがいない寂しさは、確かにある。
けれどそれでも、ここには穏やかな温度があって。
少しずつ、心は整いはじめていた。
——あの夜、キースが言っていた言葉が、ふとよぎる。
“戻ったら、一緒に行きたいところがある”
どこへ連れて行こうとしていたのか。
結局、聞けないままだった。
そのとき——
「ルーナ!!」
扉が、叩きつけるような音を立てて開かれた。
静寂が、裂ける。
反射的に振り返る。
けれど、その“誰か”を認識するよりも早く——強い力で腕を掴まれた。
「……っ、キース様……!?」
息を呑む。
そこにいたのは、キースだった。
息が乱れている。
肩で呼吸をしているのが分かるほどに荒い。
整えられているはずの髪は乱れ、外套もそのまま、旅装のままだった。
いつもなら決して見せない姿。
余裕も、余白も、どこにもない。
「どうして……もう戻られたんですか?」
一ヶ月のはずだった。
まだ、ほんの数日しか経っていない。
問いかけても、キースは答えなかった。
ただ——私の手を、強く、強く握りしめる。
逃がさないように。
確かめるように。
その力が、言葉よりも雄弁だった。
「……一緒に来てほしい」
低く、押し殺した声。
喉の奥で無理やり押し出したような声音。
「今すぐに」
胸の奥が、ざわりと波立つ。
「どこに……?」
自分の声が、わずかに揺れているのが分かった。
キースは一瞬だけ目を伏せる。
何かを飲み込むように、短い沈黙が落ちる。
その沈黙が、やけに長く感じた。
やがて、覚悟を決めたように顔を上げる。
「……ソラのところだ」
その名前が、静かに落ちた瞬間。
——あの言葉が、繋がる。
“戻ったら、一緒に行きたいところがある”
(……まさか)
心臓が、大きく脈打つ。
「……え?」
理解が、追いつかない。
ソラは——もう、この世にいないはずの人。
「どういう……ことですか」
キースは、ゆっくりと息を吐く。
けれど、その呼吸すらどこか不安定で。
「……生きている」
世界が、軋む。
音を立てて、何かが崩れていく感覚。
「ソラの意思だ」
「お前に知られたくなかった」
言葉が、ひとつずつ胸に沈んでいく。
理解する前に、重さだけが残る。
「不治の病だった」
「自分がいなくなる未来に、お前を巻き込みたくなかったんだ」
指先が、かすかに震える。
さっきまで温かかったはずの手が、急に冷たく感じた。
「……じゃあ、どうして今……」
問いは、ほとんど息のようにこぼれた。
その瞬間——キースの手に、さらに強く力がこもる。
「時間がない」
短く、断ち切るような言葉。
それだけで、すべてが繋がってしまう。
「……危篤だ」
その一言で。
さっきまでの穏やかな時間が、音もなく崩れ落ちた。
紅茶の香りも。
窓からの光も。
穏やかな午後も。
すべてが、遠くなる。
私はその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
頭では理解しようとしているのに、心が追いつかない。
キースは、決してその手を離さなかった。




