第二話 正田家の人々
夜、いつものように帰宅する。
白い石塀に囲まれた敷地。自動で開く門。点々と並ぶ足元の照明。無機質な光が、僕を歓迎するでも拒むでもなく照らしている。
——この家は、牢獄みたいだ。
正田家は代議士の家系だ。
父・宗一郎は五期目。地元では“次の大臣”と噂されている。兄・勇は八歳上で、父の議員秘書として、すでに政界の階段を登り始めていた。
僕、正田篤。政治学部の一年。
この家の息子——のはずなのに、この食卓では、空気みたいなものだ。
「大学はどうだ」
父の声は低く、重い。質問というより、点検に近い。
「……問題なく」
「そうか。くれぐれも“余計なこと”はするなよ」
余計なこと、が何を指すのか。父は説明しない。必要がないからだ。僕が逆らわないことを、最初から知っている。
「まあまあ父さん。篤は賢い子ですから、心配ありませんよ」
勇が、貼り付けたような笑顔で言う。
「そうだ篤、小遣いは足りているか。俺も学生時代はいくら金があっても足りなかった。それでもいま思えばたくさんの経験ができて、安い投資だったと思えるよ」
「ええ、十分にいただいておりますので。お気遣いありがとう、兄さん」
「うん。いろんなことを学ぶことで“変な夢”を見ることはなくなるからな」
最後の一言だけ、やけに柔らかかった。
僕は昔から兄の笑顔が苦手だ。優しさの形をしているのに、なぜか息が詰まる。
昔、僕は一度だけ本音を口にしたことがある。
「僕も将来、政治家になって、日本を……みんなが笑顔になるような国にしたいんだ」
勇は、そのとき笑った。
大声じゃない。むしろ、笑いを噛み殺すみたいに。
「篤、優しいな。……でも政治は“笑顔”を作る仕事じゃないよ」
その瞬間、僕は初めて知った。
理想は、共有されるものじゃない。格好の的になる。
それ以来、僕は夢を語らなくなった。
夢は、馬鹿にされる。
理想は、踏みにじられる。
だから僕は、安穏と生きると決めた。この家の空気として、波風を立てずに。
食卓を抜けて自室に戻り、ベッドに倒れ込むと、スマホが震えた。
相田みく:『明日の昼、学生棟の裏に来てくんない? 話したいことがあって』
(メッセージで言えばいいだろう……)
画面を見つめたまま、僕は息を止めた。
——まさか、告白?
いや、ない。
これまでの人生で、そんな兆候が一度でもあったか。僕の“モテ期”は、高校の教室に置き忘れてきたままだ。
だったら、何だ。
ねずみ講か、パー券か。相田みくの政界進出パーティーみたいな頭の悪いイベントでも企画して、僕にスピーチでもさせる気か。政治一家に生まれたばっかりに、出席した知らないヤンキーの先輩とかのおもちゃにされたりするんやろか。笑えない冗談だ。
ため息をついて、スマホを伏せた。
……行かなければいい。そう思った。
なのに指先が勝手に動き、返信欄が開いていた。
『わかった。行く』
送信。
送った瞬間、心臓が一段だけ強く鳴った。
——余計なことはするなよ。
父の声が、頭の中で反響する。
余計なことにならないことを祈ろう。




