第二十三章(3)
午前三時半に、高温高圧炉の反応は無事に終了した。その後は冷却工程に入るんだけど、基本的には放置しておくだけでいいらしい。
「蓋が開けられるようになるまで、結構時間がかかるんだ。結果は後日確認しよう。あとは俺たちでやっておくから」
ラング先輩に「お疲れさん」と言われ、僕は真っ暗な中を寮へ戻った。
夜勤の翌日は、午後からの登校でいいことになっている。ライズとは朝の時間がずれてしまい、この日はひとりで遅めの朝食をとっていた。
「よ! フリック。探したぜ」
「やあ。久しぶり、ハーベスト」
がらんとした食堂に、しばらく会っていなかった友人が現れた。三年生ならもう研究室に向かう時間のはずだけど……と思いながら様子を見ていると、彼は僕の隣に腰を下ろした。
「どうしたの? 今日は休み?」
「いや、きみに用があって探してたんだ」
「僕に?」
珍しい。今までは僕のほうが彼を呼び出すことのほうが多かった。
「あ、食事しながらでいいよ。早く食べ終わってほしいし」
「そう?」
あとはスープを飲むだけだったので、そのまま続ける。
僕に用事があるとしたら、十中八九イーノスのことだろう。そう思いながら、空になった皿にスプーンを置いた。
「えっとな。俺の研究室は神政学研究室だろ? 担当はキュービット先生」
「知ってる」
「で、三年生に『卒業研究は何をやりたいか』って聞かれたんだ。それで俺とニースは、『イーノスについて調べたい』って答えた」
「そうなんだ」
正直に言えば、不安がよぎった。
ハーベストは以前、テオドア・ロートシルトの変死について「やぶ蛇になる」と言っていた。イーノスを調べることが、どんな蛇を呼び出すのか――彼は覚悟しているのだろうか。
そんな表情が顔に出ていたのか、ハーベストはわざとらしく笑った。
「調べるっていうかさ。この国とイーノスにとって、これからどうするのが一番いいかを、みんなで話したいだけだよ」
「みんなで?」
「ああ。イーノスの力になりたいと思ってる連中で。イーノス本人も含めてな」
彼の構想はこうだった。
休日である白曜日の午後、研究室をまたいだ『神子研究会』を開く。
それぞれが議題を持ち寄り、意見を出し合う。今まで別々に考えてきたことを共有すれば、何か見えてくるかもしれない。
「準備と進行は俺とニースがやる。言い出したのは俺たちだからな」
「それで……誰が参加するの?」
「今のところは、うちの研究室の連中と、コリウス先生の研究室の有志、レウィシア先生の研究室の有志だ。先生も呼ぶつもりだ」
僕の頭にマーガレット、バート、クリスといった面々が浮かぶ。
要するに、いつもの顔ぶれなんだな。
少し安心しながらも、ひとつ気になることを口にした。
「アイビー先生は?」
「アイビー先生? どうして?」
「みんなのところは先生も来るんでしょ? だったら、僕の研究室からも誰か呼ぶのかなと思って」
「そのつもりはなかったけど、きみが呼びたいなら声はかける」
「……うーん」
自分で話題を振っておきながら、彼女が来る姿は想像できなかった。むしろ耳に入ったら、僕が参加することすら止められるかもしれない。
返事を待たず、ハーベストは身を乗り出した。
「できたら、きみにリーダーをやってほしい。この会の」
「え? どうして僕が?」
「イーノスが信頼してるのはきみだし、きみが“イーノスの保護者”だってことは、もう風見鶏の外にも知れ渡っている。きみが責任者ってほうが、この会の格が上がるんだ」
「…………」
なるほど、と思ったけど、僕は困惑してしまった。
そんなことをしたら、また目立ってしまうじゃないか。
僕に配慮するように、ハーベストは軽く笑った。
「まだ人も揃ってないし、返事は急がなくていい。考えておいてくれ」
そんなことより、と言ってハーベストは、食事を終えた僕の腕をつかみ、食堂の外へ引っ張り出した。
「今日きみに頼みたいこと、もう一つあってさ。実は……イーノスに、この会の“開催の許可”をもらってほしいんだ!」
彼は目を輝かせ、自分の構想を語り出す。
「講堂の上にある、あの部屋覚えてるだろ? 結構広いじゃん。あそこに机を並べて、みんなで議論できる場所にしたいんだ。最近さ、俺たちも忙しくなって、イーノスと話す時間も減ってきただろ?」
確かに、悪くない考えだった。
定期的に集まる理由があれば、忙しくても時間を作りやすい。研究室も授業もバラバラで、みんなと会う機会は確実に減っていた。このまま疎遠になるのは、正直寂しい。
ハーベストに背中を押されるようにして、僕はイーノスの部屋へ向かう。
久しぶりに訪れるこの場所。
アーチ状の窓からたっぷりと日光が差し込み、室内にはほとんど死角がない。
――けれど、部屋はがらんとして人影がなかった。
「外出中かな」
そう呟くハーベストを置いて、僕は静かに中へ入る。
イーノスならきっと、屋根の上の風見鶏のところにいるだろう。そう思いながらも、僕は真っ先に例の棺を確認した。
まさか、眠ってしまっていないだろうか。
胸の奥がざわつくのを感じながら、石の棺に近づき、中を覗き込む。
中には、ふわふわの羽毛が詰め込まれているだけで、誰の姿もない。
――よかった。
僕はほっと息をついた。
「たぶん上にいると思う。見てくるね」
入口に立つハーベストにそう言って、屋根へ続く梯子を上る。
屋上には、いつものように風見鶏の向こうをぼんやりと見つめるイーノスがいた。
「イーノス。ちょっといいかな」
「おう。どうした、フリック」
「友達が君と話をしたいんだ。下の部屋に来てくれる?」
「そうか。すぐ行く」
相変わらず即答だった。
イーノスは軽やかな動きで屋根の縁に立つと、そのまま飛び降りる。
初めはぎょっとしたけれど、彼はいつもこうやって外壁を伝い、窓から室内に入るのだ。まるで獣のような身のこなし。
僕はよたよたと梯子を下りながら、どんくさい自分に苦笑した。
「いや、本当にびっくりした!」
下からハーベストの声が聞こえる。
「心臓に悪いから、梯子を使ってくれ」
「うん、わかった」
そう答えたイーノスだが、たぶん明日には忘れている。
三人で部屋の中央に集まり、輪になって腰を下ろす。
そこで僕は、改めて口を開いた。
「イーノス。ハーベストが、君に頼みたいことがあるんだって」
「そうなんだよ! 実は……」
ハーベストはイーノスに、この部屋で週に一度、仲間を集めて会議を開きたいのだと説明した。
「俺たちは、きみを救いたいと思っている。『良い人間』だけで集まって、きみのためになる話をするんだ。もちろん、ボードゲームで遊んだりもする。どうかな?」
「…………」
イーノスは、一生懸命に話すハーベストの目をじっと見つめていた。意外なことに、今回はいつものように軽く引き受けず、黙り込んでいる。
「駄目かな?」
不安げに尋ねるハーベスト。イーノスはふとこちらに視線を向けて、
「フリックはどう思う?」
と聞いてきた。
「いいんじゃないかな。君を怖がる人はいないし。大人も来るけど、君に優しくしてくれる人たちだよ」
「…………」
イーノスは、「そういうことを聞きたいんじゃない」とでも言いたげな顔をしていた。
これほどはっきり意志を示すのは珍しく、僕はどう答えるべきか考え込んでしまう。
彼は、環境の改善を望んでいないわけではない。
以前、「俺様が行ってもいい方向を教えてくれ」と言っていた。
きっと彼は、変わりたいと思いながらも、僕たちに迷惑をかけることを恐れているのだ。
彼に関われば、危険な目に遭う人もいる。救おうとすれば、なおさらだ。
そう思って、僕は彼に向かって笑った。
「イーノス。話し合いに来る人たちは、君のことをよく理解している。心配するようなことは起きないよ。良識ある大人もいるし、危ないことはしない」
うまく伝わったかはわからない。でもイーノスは、ほっとしたように笑った。
そしてハーベストの方へ向き直り、あっさり頷く。
「それなら、いいぞ」
「本当か? ありがとう!」
ハーベストはひとしきり喜ぶと、会議のためにこの部屋をどう改造するか、楽しそうに話し始めた。
僕は窓から時計塔を見る。もう正午を過ぎている。そろそろ研究室に戻らなければならない。二人に断って、立ち上がった。
「ありがとう、フリック。あとはイーノスと決める。詳細が決まったら連絡するよ」
「うん、よろしく」
明るくそう言って部屋を出たけれど――胸の奥には、どこか重たいものが残っていた。
僕は、この会に本当に参加できるのだろうか。
アイビー先生は、ライズとコリウス先生が学校の暗部に触れることを嫌っている。
ライズも、僕が余計なことに関わるのを嫌がる。
彼らに知られずに参加する?
でも、ライズとは毎日一緒だ。白曜日だけ単独行動なんてできない。マーガレットがうっかり話してしまうかもしれない。彼女は、僕とライズの秘密を知らないのだから。
「どうしよう……」
悩みながら研究室に着いた僕は、ラング先輩とヘンケル先生が席を外しているのを見て、思いきってアイビー先生の部屋をノックした。




