第二十一章(4)
それから月末まで、穏やかな時間が流れた。
錬石学の授業は期待どおり楽しくて、時間が経つのを忘れるほど。
一方アルヴィル先生の講義は、導入となる数回はほとんどキュービット先生の教科書と同じ内容で、新鮮味に欠けてつまらなかった。
件の六色章のことを、誰かに聞いてもらいたい気持ちは山々だった。
けれどアイビー先生から「誰にも言うな」と釘を刺されていたので、黙っているしかなかった。
少しだけ気がかりだったのは、昔コリウス先生に言われた言葉だ。
――ハックフォードには気を付けろ。決して、私抜きでヤツに会おうと思うな。
アイビー先生の話を聞く限り、コリウス先生も六色章は持っていないはずだ。
つまり僕は、ひとりでハックフォード先生の陣地に乗り込むことになる。
本当に大丈夫なのだろうか。
けれどアイビー先生は、僕がコリウス先生を頼ることに、明らかな嫌悪感を抱いていた。
去年、僕が彼女の研究室を志望した際にも、「ライズとコリウス先生をこの件に巻き込むな」と念を押されている。
アイビー先生を味方につけるためには、僕は彼らの助力を望んではいけないのだろう。
研究報告会の一週間前。
いつものように夕餉を共にしていたマーガレットが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、今年の研究報告会は、いつもより大規模に開催されるんですってね」
「そうなの?」
マーガレットは頷き、嬉しそうに続ける。
「先日、おじいちゃまからお手紙があったの。研究報告会に招待されたから、時間があれば、わたしの顔を見に来てくださるんですって」
「マーガレットのお祖父さんって、国の偉い人だったっけ」
「ええ。元、国防軍の軍統帥よ」
今は退役して、お目付け役のような立場にいるらしいわ、と付け加えてから、彼女はライズへと視線を向けた。
「あなたのところも来るんじゃないの? ブレガー家の当主って、アイザック・ブレガーさまだったかしら」
「知らないよ。来るんじゃないの? どうでもいいでしょ」
ブレガー家の当主は、確かアイビー先生の父親だったはずだ。
ライズにとっては祖父にあたるのだと思うが、どうやら彼にとっては苦手な親族らしい。
というか、彼に“得意な親族”がいるのだろうか。
もし一番懐いているのが叔母のアイビー先生なのだとしたら、それ以外への対応は容易に想像できた。
「おじいちゃま、きっとイーノスに会ってみたいはずだわ。フリック、どうにかならないかしら」
「ええ……それは難しいんじゃない?」
最近のイーノスは、大人とも話せるようになってきてはいる。
けれどそれは、イーノスを怖がらない先生や、使用人のおじさんやおばさん相手だからだ。
国の偉い人――しかも元軍人となれば、イーノスを過剰に持ち上げるに決まっている。
「そうよねぇ……おじいちゃま、顔が怖いから。きっと逃げちゃうわ……」
「たぶん、顔の怖さは関係ないと思うけど」
その後数日間、何人かの同級生が似たような話を持ちかけてきた。
親族が研究報告会に招待されているのだという。
そして決まって、イーノスに会わせてあげられないか、と。
不思議なことに、そう相談してきた全員が、「頼まれたわけじゃないけど」と、同じ枕詞を使っていた。
「どうして、頼まれたわけでもないのに会わせたいの?」
痺れを切らした僕は、最後のひとりにそう尋ねた。
「だって……神子様に会ってみたいに決まっているでしょ?」
そう思うのが、普通なのかもしれない。
けれど僕は、彼らの親族は、本当はイーノスに会いたくないのだろうと思っていた。
だってイーノスは、ああいう性格だ。
何を言い出すかもわからないし、何をされるかもわからない。
しかも、偉い人であればあるほど、イーノスの過去を知っているだろう。
だからこそ、「合わせる顔がない」と感じているに違いない。
「神子を崇める」と口では言いながら、当の本人には、「黙って眠っていてもらいたい」。
それが本音なのだ。
そうやって、この国は百年の平和を保ってきた。
イーノスから「会いたい」と言われない限り、
誰も自分から会いたいなどとは、言い出さないだろう。
「ねぇ、イーノス」
ある日の晩、僕はひとりでイーノスに会いに行った。
「どうしたんだ? フリック」
彼は講堂のてっぺん、風見鶏の根元に腰を下ろし、相変わらず風見鶏の向く先を眺めていた。
「あのさ、次の白曜日のことなんだけど」
「次の白曜日?」
「夜があと二回明けた後のことだよ」
いくらイーノスでも、明後日のことくらいは覚えているだろう。
僕は注意喚起も兼ねて、研究報告会のことを彼に伝えた。
「大人の人がたくさん来るんだ。遠いところからもね。君が怖がらないか、ちょっと心配してるんだ」
「心配?」
彼はきょとんとした顔で僕を見上げ、聞き返してくる。
「それは、“俺様を怖がるような人間”なのか?」
「ああ、うん……そうかもしれない」
イーノスは足をぶらぶらと揺らしながら、しばらく遠くの空を見つめて考え込んだ。
「俺様は、そういう人間には会いたくない」
「そっか。そうだよね……」
そのやり取りだけで、充分だった。
会わせない方がいい。
誰かがイーノスに会いたいと言ってきても、断ろう――そう、僕は心に決めた。
僕ひとりがそう思っていても意味がない。
翌日、僕はイーノスと親しい人たちのもとを回って頼み込んだ。
「研究報告会に来る人たちが、『イーノスに会いたい』って言っても、会わせないでほしいんだ」
「それはもちろんだ。私も会わせるつもりはない」
コリウス先生は即座に同意してくれたが、それ以外の人たちは怪訝そうな顔をした。
「どうしてだ? イーノスのことを知ってもらった方がいいだろう?」
ハーベストはそう言って口を尖らせたが、僕は静かに首を横に振った。
「イーノスが、会いたくないって言ってるんだ」
それを聞けば、反論のしようもない。
友人たちはすぐに「わかった。協力する」と快諾してくれた。
――そうして迎えた当日。
僕は、自分の考えが甘かったことを思い知ることになる。
四月二十二日の朝。
僕はアイビー先生に連れられて、講堂の前に立っていた。
胸に付けた六色章は、みすぼらしい僕にはあまりにも立派で、少し居心地が悪い。
「全部の報告を聞く必要はないわ。興味のあるものだけ、抜粋して聴きなさい」
そう言われて、僕は講堂の入口に掲げられた垂れ幕に目を向けた。
そこには、本日のプログラムが記されている。
研究室は十二。
ひとつあたり三十分だとしても、合計で六時間になる。
すべてを聴講するのは、確かに大変そうだ――そう考えていた、そのときだった。
「すみません。あなたが、フリック・ラーベスさんでしょうか」
突然声をかけられて振り返ると、そこには数人の男女と、年配の男性が立っていた。
「えっと、はい、そうですけど……」
僕が答えた瞬間、全員が一斉に、好奇心に満ちた視線を向けてくる。
「あなたが、あの有名な……」
「孫から話は聞いていますよ」
口々にそう言われ、僕の思考は一気に混乱した。
黒光りする立派な礼服。
胸元には六色章。
一目で“格が違う”とわかる人たちが、どうして僕のような平民に声をかけてくるのか。
半ば強引に握手を交わし、次々に名乗られた名前の中には、聞き覚えのあるものもあった。
「ゼノ・アレクサンドラです」
「コーデリア・ロートシルトですわ」
「ミゲール・フランクリンと申します」
あまりにも人数が多く、きちんと聞き取れたのはこの三人だけだったが、
ほかにも、同級生の親族と思しき名前がいくつか混じっていた。
「あの、えっと、もしかして、マーガレットのお祖父さんですか?」
「その通りです。マーガレットとバートが大変お世話になっておると聞いております」
ガハハと豪快に笑うそのおじいさんは、とても体が大きく筋肉質で、「おじいさん」というよりは熊に近いフォルムをしていた。
「わたくしはハーベストの伯母です。ランテスト州で州長補佐官をしております」
「あ、そうなんですね。ハーベストにはとても仲良くしてもらっています……」
「そう言っていただけて嬉しいですわ。これからもどうぞよろしくお願いします」
ハーベストの伯母さんはハーベストによく似た、とても美形な女性だった。容姿に似合う澄んだ声で、隣にいたヒョロヒョロのおじさんを紹介してくれる。
「こちらはベルフォート副郡長です。娘さんが二人もこの学校に在籍しているんですよ」
「フランクリンさんでしたっけ。ニースとレウィシア先生のお父さんですよね」
「はい。娘たちが大変お世話になっております」
彼はガチガチに緊張していて、およそ平民の子供に接する態度には思えない。僕が苦笑いを向けると、彼はさらに身を固くして、ひどく可哀想な状態になった。
その後も次々に自己紹介を受けたが、その全てが州長だったり郡長だったり軍人だったりで、胸焼けがするくらい立派な人たちばかりだった。
「それで、僕に何かご用でしょうか」
僕は辟易としてきて、少しつっけんどんにそう尋ねた。
「いえ、その……特に用事というわけではありませんわ」
「ただ、その……フリックさんにご挨拶をしたかっただけです」
「僕に挨拶を? どうしてですか」
訳がわからなかった。彼らのような偉い人たちが、どうして僕の顔色を伺っているのか。
視線が泳いでいる一同を押し退けるようにして、マーガレットのおじいちゃま――ゼノさんが、ズイと僕に顔を近付けてきた。
「いや、申し訳ない。単刀直入に言うと、フリック殿に神子様のことを伺いたかったのです。あなたが一番詳しいと、学長先生から伺っていますので」
ああ、そうか。はっきりそう言われて、僕はようやく自分が置かれている状況に気が付いた。
国の偉い人たちは、イーノスに直接会いたいとは思わないだろう。けれど、イーノスが何を考えているのかは知りたい。できれば本人からではなく、無害な第三者の口から。
彼らがイーノスではなく、僕に会いたがる理由は理に適っている。
「僕は、そんなに詳しくないですよ。どうして学長先生から話を聞かないんですか?」
「学長先生が仰ったのですよ。フリック殿から伺いなさいと」
僕は眉をひそめる。学長は国の偉い人への説明を、僕に押し付けているのか。
困惑した。僕は彼らに何を説明すればいいのか。彼らは何を聞き出したいのか。平民の僕には、彼らが本当に求めているものがよくわからない。
思わず後退ると、背中が誰かにぶつかった。ぐいと上腕を掴まれ、肩越しに鋭い声が飛ぶ。
「失礼ですが、本日は研究報告会です。この生徒はこれから報告会に出席しますので、これ以上の足止めはご遠慮ください」
「しかし、アイビー先生……」
「『しかし』ではありません、アレクサンドラ閣下。ご自身の役割を果たしてください。本日は研究報告会です。我々の研究を評価していただく会です」
「…………」
「失礼します」
アイビー先生に腕を引かれ、僕はぺこりと頭を下げて講堂へと入る。
「ほら。あんたの席、あそこみたいだから、早く行きなさい!」
「えっと、アイビー先生。ありがとうございます」
「あんたの今日の仕事は偵察よ。集中しなさい」
「は、はい!」
研究報告会は完全招待制のため、席順があらかじめ決められていた。僕の席は二列目の端だった。
僕の後から入ってきたゼノさんやコーデリアさんは、僕の反対側、一列目の端に座る。
彼らが遠い場所に行ってくれて、僕はほっとした。
少しずつ席が埋まっていくにつれ、ひとりだけ幼い僕は否応なく目立つ存在になる。聞こえてくるひそひそ声で、彼らがみな僕のことを知っているとわかった。
在校生から聞いたのか、学長が言いふらしているのかはわからない。けれど僕は、イーノスの保護者として、かなり有名になってしまっているようだった。




