第十八章(3)
「どうしたんだ? ずいぶん思い詰めた顔をしてるな」
確かに、ひどい顔だと思う。
朝起きたとき、自分でもそう思った。
どうやらハーベストは本気で心配してくれているようだ。
僕は指を絡めて両手のひらを組む。この気の良い友人は、僕の悩みを馬鹿にせず、真面目に聞いてくれるだろうか。
祈るような気持ちで振り返り、上目遣いに背の高い彼を見上げた。
「あのね、ハーベスト……ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「何だ? 俺にわかることなら、何でも答えるぜ」
相変わらず、いいやつだなぁ。
僕はもじもじと指を弄びながら、眉を寄せて口を開く。
「君にしか聞ける人がいなかったから……その、突然呼び出してしまって申し訳ないんだけど」
「何でも答えるって言っただろ? 心配しないで話してみろよ」
「ええと……すごくつまらない質問で、本当に申し訳ないんだけど……」
うじうじしている僕に、ハーベストは苦笑いを浮かべるだけで、それ以上急かしたりはしなかった。
その優しさに感謝しながら、僕は一度呼吸を整え、意を決して口を開いた。
「あのさ……『夜想』って、何だか知ってる?」
「夜想? 終年祭のか?」
こくん、と頷く。
すると彼は急に頬を緩め、自信満々に説明してくれた。
「夜想っていうのは、終年祭の夜に意中の人を会場から連れ出して、夜景を楽しむデートのことだ」
「デ、デート……?」
「一年の思い出を語り合って、祭りの余韻に浸るんだよ」
――夜を想う、か。
そういえば去年の終年祭でも、夜になると食堂から姿を消す生徒が多かった。
あれは、みんな夜想に出掛けていたのか。
僕が納得したような顔をしていると、ハーベストはにこにこしながら何度か頷いた。
「なるほどな。フリックも今年はマーガレットを夜想に誘うんだな?」
「えっ!? ち、違うよ!」
「じゃあ、なんでそんなことを聞いたんだ?」
「えっと、それは……」
僕はもじもじしながら、昨日の出来事を説明した。
寮の四年生――ルークさんがマーガレットを気に入っていること。
彼女を夜想に誘うつもりだと言っていたこと。
「何だよ、その四年生。マーガレットと話したこともないんだろ?」
「たぶん……そう思う」
「そんなやつにマーガレットを取られてもいいのか? フリックはどうする気なんだ?」
「そう言われても……どうしたらいいかわからなくて。ただ、なんとなく、そうなったら嫌だなって思ってるだけで……」
「それなら話は早い」
ハーベストは即座に言い切った。
「フリックが先に夜想に誘えよ!」
「――!」
あまりにあっさり言われて、僕は言葉を失った。
「……でもさ。僕なんかが誘ったら、迷惑だよね」
しばらくの沈黙の後、絞り出すように言うと、彼は首を傾げた。
「どうしてだ? 君らは仲がいいだろ。マーガレットも喜ぶと思うぞ」
「僕はそうは思わない。身分が違いすぎるし……ルークさんなら、卒業後にも関わりがあるかもしれない。今のうちに知り合っておくのは、彼女にとって有益かもしれないけど、僕は……」
何となくだけど、わかっていた。
僕が風見鶏に入れたのは、運が良かっただけだ。
幸運が重なって、たまたま入れただけ。
卒業したら、きっと元の平民に戻る。
実家のりんご農園を継ぎ、風見鶏での思い出を胸に、故郷で生きていく。
期待してくれる人はいるし、コリウス先生のような例もある。
でも、自分がそんなきらびやかな道を歩けるとは、どうしても思えなかった。
「僕は一生平民だし……マーガレットと友達でいられるのも、風見鶏にいる間だけだ。なのに、彼女の人生の邪魔をするのは、良くないかなって……」
「はあ?」
ハーベストは、強い口調で遮った。
「何を言ってるんだ?
どうして平民だったら友達でいられないんだ?
君は風見鶏を卒業したら、俺の友人もやめるつもりなのか?」
「えっと……そういうつもりはないけど、いずれは……」
「あのな。君、成績はいいくせに、意外と頭が悪いな!」
額に手を当て、彼は大きくため息をついた。
「友達になるってのはな、君と俺が『友達になりたい』って思うだけで成立するんだ。平民とか貴族とか、将来に役立つかどうかなんて関係ないだろ?」
僕は気圧されるように、静かに頷いた。
「マーガレットだって同じだ。夜想で君と過ごしたいと思って、君もそう思っていたら、それでいい」
「…………」
「君はルークさんとマーガレットが仲良くなるのが嫌なんだろ? 一緒に終年祭を過ごしたいんだろ? だったら、伝えるべきことは一つだ」
ハーベストは真っ直ぐに僕を見る。
「ぐずぐず悩んで、ふてくされていても、何も得られないぞ」
確かに、その通りだった。
本当に身を引くつもりなら、ここまで悩んでいない。
僕の気持ちは、とっくに決まっている。
「……僕は、ルークさんにマーガレットを取られたくない。終年祭は、彼女と最後まで一緒に過ごしたい」
「だろ? なら言ってみろよ。言わなくても、マーガレットはそんな先輩の誘いなんか受けないと思うがね。心配なら、先約を入れておけ!」
――マーガレットが身分を気にするようなやつじゃないのは、君が一番知ってるだろ。
そう言われて、胸がちくりと痛んだ。
「身分が障害になったら、その時に爵位でも受ければいいだろ! 風見鶏を卒業してたら、方法なんていくらでもある。
何をそんなに悩んでるのか、俺にはさっぱりわからないね!」
そう言い捨てると、彼は最後に白い歯を見せて笑った。
「健闘を祈るぜ!」
そして、そのまま広場を後にした。
――ハーベストの言うことは正しい。
僕は彼に相談して良かったと、心から思った。
僕はルークさんの、僕に対する対応に傷つき、意味もなく自信をなくしていた。
けれど、そもそも――ルークさんがどう思おうと、僕にはまったく関係がない。
彼は僕たちのことを、ほとんど知らない。
僕がマーガレットと釣り合わないかどうかなんて、正当に評価できるはずがない。
少なくともハーベストは、平民の僕を応援してくれている。
出会ったばかりの頃、彼自身が僕を見くびっていたにも関わらず、だ。
僕は、自分が思うほど小さな人間じゃない。
僕は勝手に、自分の身の丈を低く見積もっていた。
自分で自分の可能性を狭めていたのだ。
そのとき、学長の言葉が脳裏に浮かんだ。
『フリックくん。別に答えを求めているわけじゃない。ただ私は、君にひとつの選択肢を用意することができる、と言いたかっただけだ』
僕には可能性がある。
選ぼうとすれば、手が届くかもしれない可能性が。
『もっと長い目で考えて、スケールの大きいことをしてほしい。風見鶏を卒業することは、君にとって終わりではなく、始まりなのだと考えてほしい』
「……僕の人生、か」
その日の晩、ひとりきりの部屋で、僕はぽつりと呟いた。
彼女に言おう。
「ルークさんと夜想に行かないで」と。
雑念を振り払ってそう決意した僕は、その晩から数日間、驚くほどぐっすり眠ることができた。
――ただし、なかなかそれを実行に移す機会には恵まれなかった。
機会が訪れたのは、次の白曜日。
二回目の終年祭の準備に駆り出された日の、夕方だった。
その日もフロウリードームのみんなと、図書館の飾り付けをしていた。
知恵の樹のレプリカである巨大なオブジェに、ヒモで結んだ色とりどりの鉱石ランプを巻き付けていく。それが今日の一番大きな仕事だ。
「僕たちで上の方に巻き付けます。二年生は下で、ヒモが絡まらないように見ていてください」
今日はルークさんが寮長らしく、スフェーンを駆使して天井近くを飛び回りながら指示を出していた。
僕はその中心的な作業から外れ、地味な場所の飾り付けを任されていた。
図書館はとにかく広い。
壁際に並ぶ本棚だけでなく、自習用の机が並ぶスペース、ハンナさんのいる受付、二階三階へと続く階段の手すりまで、すべて飾り付けなくてはならない。
僕は、ヒモで結びつけた長い鉱石ランプを、二階へ続く階段の手すりに巻き付けていた。
自習机で居眠りしているライズを横目に、僕は黙々と作業を続ける。
――そのときだった。
幸運の女神が、僕のもとに舞い降りた。
「フリック! 飾り付けは順調?」
「え? どうしたの、マーガレット」
椅子の上に立ち、飾りを手すりの突起に引っ掛けていた僕の脇から、金色の頭がひょこっと現れた。
「イグノドームの仕事が終わったから、来ちゃった!」
「そうなんだ。えっと……」
僕は反射的にルークさんの姿を探す。
彼はまだスフェーンに乗り、知恵の樹の飾り付けに集中していて、こちらには気づいていない。
僕は椅子から降り、本棚の影へとさりげなく移動した。
向こうからマーガレットの姿が見えない位置取りだ。
「さすがイグノドームだね。みんな体力があって、仕事が早い」
「そうなの! 良かったら手伝うわよ。早く終わらせて、夕餉に行きましょ!」
マーガレットも自習机の椅子を持ってきて、本棚に飾りを掛け始める。
僕は作業を続けながら、次第に高鳴っていく心臓の音を、やけに大きく感じていた。
――言うなら、今しかない。
普段はいつもライズが一緒にいるから、夜想の話はしづらい。
今は彼も居眠りしているし、他の寮の生徒たちも離れた場所にいる。
今しか、ないんじゃないか。
そう思いながらも、どう切り出すべきかわからず、時間だけが無為に過ぎていく。
僕は、淡く光る鉱石ランプの連なりを眺めながら――ふと、名案を思いついた。
「ねえ、マーガレット。ちょっと見ていて」
「なにかしら?」
彼女の視線をこちらに向けてから、短いルオンを発声する。
「――“ティーロ”!」
同時に、鉱石ランプのヒモを振り上げ、思い切り振り下ろした。
カツン、カツン、と床や壁、鉱石同士がぶつかり合い、色とりどりの光が宙へと弾ける。
「わあ……すごい!」
雪のような小さな光の粒が、僕たちの周囲をふわふわと舞い上がる。
それは夏祭りの『送り火』を思わせる幻想的な光景で、マーガレットはうっとりと見上げていた。
「わたしにもできるかしら」
「できるよ。最近、ルオンもずいぶん上手くなったじゃないか」
「じゃあ、やってみるわ。“ティーロ”!」
彼女が振り上げた鉱石たちも、軽やかな音を立て、同じように光の粒を生み出した。
「できたわ!」
「きれいだよ。すごく上手だ」
「ありがとう。ティーロに、こんな使い方があるなんて知らなかったわ」
僕たちはくすくすと笑い合い、しばらく光を生み出して遊んだ。
誰かに見つかるんじゃないかと内心ひやひやしていたけれど、幸運にも誰にも咎められることはなかった。
――今なら、話を始められそうだ。
僕は自然なタイミングを待ちながら、静かに口を開いた。
「ねえ、マーガレット。今年の終年祭も楽しみだね」
「ええ。今年は神子が参加するから、去年よりも豪華になるらしいわよ。飾り付けだって、明らかに去年より多いもの」
「うん。ご馳走もきっと豪勢なんだろうね。楽しみだね……」
絶対に楽しいわよ、と笑う彼女は、一点の曇りもない笑顔を浮かべていた。
この様子だと、まだルークさんからは何も言われていない――僕はそう判断し、話を続けた。
「あのさ、マーガレット。夜想って知ってるかい?」
「夜想? なにかしら」
「終年祭の夜に、カップルがこっそり抜け出して、学内を散策することを言うらしいよ」
「ああ! 去年、ハーベストやバートが女の子とどこかへ出かけていた、あれね?」
今年もあの人たち、ふらふら出歩く気なのかしら。
せっかくイーノスがいるお祭りなのに!――と、彼女はひとりで憤っている。
……これは間違いない。
まだ誰からも誘われていない。
僕は、ほんの少し安堵して息をついた。
「それで? どうしてそんな話を始めたの?」
「その夜想だけどさ。もしマーガレットが、知らない人から一緒に行こうって誘われたら、どうする?」
「ええ? わたしを誘う人なんていないわ。バートじゃないんだから」
マーガレットはケラケラと笑い、話題に飽きたように飾り付けを再開する。
僕は焦り、思わず早口になった。
「あのね、噂で聞いたんだ。四年生の中に、マーガレットを気に入ってる人がいるって……。もしかしたら、その人が君を誘いに来るかもしれない」
「ええ? 四年生?」
素っ頓狂な声を上げた彼女は、僕の真剣な視線を見て、冗談ではないと悟ったらしい。
途端に、苦々しい表情を浮かべる。
「四年生か……。わたし、あまりそういう付き合い、得意じゃないの。急に来られたら、上手く断れないかもしれないわ。困ったわね……」
「断りたくても、断れないの?」
「ええ。相手の家の格が高かったら、言い方を間違えると面倒なことになるもの」
ため息をつくマーガレット。
その反応は、僕の予想とは大きく違っていた。
好意を喜ぶか、きっぱり拒絶するか――そのどちらかだと思っていたのに、ここまで困惑されるとは。
「……あの、マーガレット」
「なに?」
「その……提案なんだけど」
「なにかしら」
僕は一度、息を整えた。
「もし、『はっきり断れる理由』があったら、断りやすくならないかな」
「そうね。失礼にならない断り方が、すぐに思いつけばいいんだけど」
「……『先約がある』って言うのはどうかな?」
「うーん。嘘をつくのは苦手だけど、あらかじめ考えておけば……」
――今だ。
「いや、その……もし良かったらなんだけど。
僕と一緒に夜想に行く、ってことにしてもらえないかな」
言ってしまった。
できるだけ自然に、何気ない提案のように言えたつもりだけど、どう聞こえただろうか。
心臓が痛いほど速く打つ。
マーガレットは、僕を見つめたまま固まっている。
不味かった?
前のめりすぎた?
気まずい空気になったらどうしよう――。
不安が胸の中で膨れ上がり、爆発しそうになる。
早く、何か言ってくれ……。
切実な気持ちで視線を合わせ続けていると、突然、彼女がぽん、と手を打った。
「それ、いいわね! それで行きましょう!」
ぱっと笑顔を浮かべるマーガレットに、僕は腰が抜けるような安堵を覚えた。
「助かるわ。フリックくらいしか、わたしに付き合ってくれる男の子はいないし。ありがとう、フリック」
「い、いや……とんでもないよ。僕こそ、嬉しいよ……」
……少し、想定とは違ったけれど。
ともあれ、うまくいったようだ。
たとえルークさんや他の四年生が声をかけてきても、マーガレットは終年祭の夜を、僕と過ごしてくれる。
じわじわと込み上げる喜びに、僕の口元は緩みっぱなしだった。
仕事を終え、いつものように皆で夕餉をとり、にやつく僕を気味悪がるライズの声を無視しながら――
僕は、この幸運な一日を終えた。
次の日から期末考査が始まるというのに、気持ちは緩みっぱなしで、どうしようもない。
結局、ほとんど試験勉強もしないまま、期末考査の朝を迎えることになった。




