第十六章(4)
真っ暗な部屋で、鏡に映る僕の姿はひどくおぼろげだった。
輪郭が曖昧で、そこに本当に自分がいるのかさえわからない。
だけど——
僕の背後にある、赤い目だけは違った。
それは爛々と輝き、まるで鏡の中の僕よりも、ずっと確かな存在のように見えた。
これは、夢じゃなかったのか。
夢であってくれたら良かったのに。
僕の背中には、やっぱり不気味な影が貼りついている。
そいつは、ニタニタと笑いながら、上から僕を見下ろしていた。
――だから言っただろう。無駄だって。
突然、声が響いた。
耳からじゃない。頭の内側に直接叩き込まれる声だ。
同時に、じわりと不快な頭痛が走る。
――あの男は、ああいうやつだ。
お前を救いはしないし、俺のことも救いはしない。
――期待するだけ、無駄なんだよ。
影はそう言って、楽しそうに笑った。
その声音だけで、僕の神経は逆撫でされる。
胸の奥に溜まっていた不快感が、静かに、でも確実に広がっていく。
(なんだよ、きみは……。どうして僕の頭に話しかけるんだ)
心の中でそう言い返してみた。
けれど、影は答えない。ただ、相変わらずニタニタと笑うだけだった。
それ以上、関わりたくなかった。
本当は、「お前は誰だ」と聞くべきなんだろう。
でも、その言葉は喉の奥で引っかかって、どうしても口に出なかった。
影はゆらゆらと揺れ、時折、その輪郭を不安定にちらつかせる。
——見覚えがある。
僕は、そのことに気づいてしまった。
でも、それを「知っている」と認めたくなかった。
知り合いだと理解してしまった瞬間、きっと取り返しがつかなくなる。
認めてしまえば、そいつは——
その顔になってしまう気がした。
僕が大好きだった、
父さんの顔に。
……なってしまうんじゃないかと、思った。
僕は真っ暗な部屋を出て、今度は寮の外を歩いていた。
とても眠る気にはなれなかった。
もし目を閉じたら、背後に張りついたあの影が、また妙な夢を見せてくる気がしたからだ。
気づけば、僕は実習場の方へ足を向けていた。
理由ははっきりしている。
——今なら、会えるかもしれない。
まだそれほど遅い時間ではない。
実習場にはいくつか人影が残っていて、隣接する一階建ての棟にも、ぽつぽつと灯りが点っていた。
「こんな時間に、どうしたんだ?」
先輩に声をかけられ、僕は先生の所在を尋ねた。
示された研究室の前に立ち、軽く扉をノックする。
「どうした、フリック。何か用事か?」
現れたのはコリウス先生だった。
「あの……その、すみません」
思った以上に声が上ずってしまう。
「コリウス先生。少しご相談したいことがあって来ました。今からでも、大丈夫でしょうか」
「ああ、構わないが……」
先生はちらりと時計塔の方を見る。
もうすぐ九時になろうとしていた。ずいぶん遅い時間だ。
「少し待っていろ。後片付けをしてくる」
そう言って、先生は僕を研究室に通し、自分は実習場の方へ向かった。
おそらく、人払いをしてくれているのだろう。
助手や上級生を帰したあと、先生は部屋に戻ってきた。
「それで、相談したいこととは何だ」
「イーノスのことです、先生」
——僕が先生のもとを訪ねる理由なんて、それくらいしかない。
そう思いながら、言葉を続ける。
「イーノスの具合が、あまり良くありません。元気がないというか……最近は、回らない風見鶏のそばで、遠くを眺めていることが多いんです」
「講堂の屋根に上っているのか?」
「はい」
コリウス先生は少し俯き、考え込むように沈黙したあと、ゆっくりと顔を上げた。
「そうか……。今回も、その状態になったか」
「十年前も、そうだったんですか?」
先生は小さく頷き、講堂があるはずの、真っ暗な窓の外を見つめた。
「あいつが眠りにつく前にも、しばらくそんな時期があった。
何を見ているのかはわからなかったが、昼も夜も関係なく、ずっと空を見ていた」
——何を見ているのか、聞き出せなかった。
確か、そんな話をしていたことがあった。
少し迷った末、僕は先日イーノスから聞いた言葉を伝える。
「イーノスに聞きました。
『風見鶏の向いている先に、自分の大切な人がいる』——そう言われたと」
「大切な人? イーノスが、誰に言われたんだ」
「学長です。ジータ学長に、そう言われたと」
「学長が……? どうして、そんなことを」
「わかりません……」
答えながら、僕は先生の反応を観察していた。
本気で戸惑っているように見える。
コリウス先生は、学長の養子だ。
だから、もしかしたら学長の正体を知っているのではないか——そんな疑念があった。
けれど以前、先生は「どちらでもいいじゃないですか」と言った学長の態度を、強く非難していた。
少なくとも、無条件に肯定している様子はない。
——もしかして、本当に何も知らないのかもしれない。
探りを入れるように、僕は軽く問いかけてみる。
「コリウス先生は、ジータ学長の年齢をご存じですか」
「そういえば……よく知らないな。考えたこともなかった」
「先生が学生だった頃から、あの姿でしたか?」
「あまり印象は変わらないな。もともと髭で顔も見えにくいし」
「…………」
コリウス先生が学生だったのは、十年ほど前のはずだ。
十年程度なら気づかなくても不思議ではないけれど——。
一応、親子なんだよね?
そんなに無関心でいられるものなのだろうか。
ふと、ライズの言葉が頭をよぎる。
——『きみも、そのうち気にならなくなってくるから』
ノギスさんが、フロウリードームの寮母をしていることを不思議に思ったとき、彼はそう言った。
言われてみれば、確かに。
今まで、その違和感を忘れていた。
もしかして、七不思議の七つ目に関わる事柄には、
「気にならなくなる」ような魔法でもかけられているのだろうか。
けれど、こうして強く疑問を持つと、違和感は甦ってくる。
メイ先生のように、長い間考え続けることもできる。
——あまり学長を探ろうとすると、風見鶏を追い出される。
そんな話も聞いている。
だから僕は、それ以上踏み込むのをやめることにした。
「今日はイーノスのことを相談したくて来ました。
彼が何を悩んでいるのか、突き止めたいんです」
僕はそう言って、ノートを差し出した。
「彼の悩みを知るためのヒントが、七不思議にあると思って調べたんですが……今わかっていることだけでは、どうしても辿り着けなくて」
それは、一から六番までの秘密が書かれたノートだ。
七番目の秘密については、あらかじめページを破り取ってある。
「これは……よく調べたな」
コリウス先生はじっくりと文章に目を通していたが、特に六番目――『回らない風見鶏』の項目に目を留め、低く唸った。
「マクシネルか……。確かに、それはそうなのだが……」
しばらく考え込んだあと、先生はパタリとノートを閉じ、僕に返した。
「お前がまだ見つけていない情報がひとつある。
それを見れば、新しい考えが浮かぶかもしれんぞ」
「僕が、知らない情報ですか」
「ああ……」
先生は窓の向こうに見える時計塔へ、もう一度視線を向けてから口を開いた。
「あまり見ていて気持ちのいいものではない。
だから、今まで見せなかったんだが……」
それでも見るか?
そう問われ、僕は迷わず頷いた。
「真相に辿り着けるなら」
「そうか」
コリウス先生は、扉のそばに掛けてあった革のウエストポーチと鉱石ランタンを手に取ると、こちらを振り返った。
「それでは、見に行こう。
あれを見たうえで、どうすべきか、もう一度議論しよう」
時刻は九時半を回っていた。
肌寒い夜気の中、肩に軽く上着を引っ掛けただけの先生の背中を追い、僕は誰もいない実習場の中央を横切る。
ギシギシと不気味な音を立てる橋を渡り、森の向こうの平地へと降り立った。
風見鶏から少し離れたこの場所は、旧区画――第二実習場と呼ばれている。
高いフェンスに囲まれた広大な平地と、第二実習棟という古ぼけた、厳つい建物がある。
僕がここを訪れるのは二回目だ。
一度目は今年の春、『赤い瞳の幽霊』の目撃談を聞き、マーガレットと一緒に探し回ったときだった。
平日の深夜だというのに、今日は所々に明かりが点いている。
第二実習場を横切ったとき、複雑な形をした装置の周囲に、数人の人影が集まって何やら話し込んでいるのが見えた。
よく見ると、緑の腕章を付けた先生がいる。
おそらく助手だろう。緑色ということは戦闘学の座学系――ハックフォード先生か、ヘルムート先生、どちらかの研究室の関係者だ。
「ハックフォードの研究室の者だな」
コリウス先生は一瞥しただけで、そう呟いた。
「こんな夜遅くに、まだ仕事をしているんですか?」
「やつらは研究マニアだからな。
月に数度、外部施設に出ているとき以外は、ほとんどここに籠もりきりだ」
そういえば、以前マーガレットと来たときも、休日だというのに姿を見かけた。
納得がいく。
「彼らは、何の研究をしているんですか」
「言っただろう。
大量に人を殺す兵器の開発だ」
「大量に……人を殺すって、具体的には?」
先生は一瞬言い淀み、言葉を選ぶようにして答えた。
「錬石の効果を、無差別かつ広範囲に引き起こすものが多い。
二年生のお前は、まだ習っていないだろうが……錬石には、過激な効果を示すものもある」
人を溶かす。
吹き飛ばす。
押し潰す。
並べられた言葉は、どれも気分のいいものではなかった。
「そもそも、人間相手に使うべきでない錬石を、人間相手に使おうと考えるのがアイツだ」
「どうして、そんなことを……」
戦いの手段として考えるのは、ある程度仕方がない。
話し合いが通じない相手もいるし、身を守るために傷つけることもある。
けれど――無差別に、大規模に行う必要があるのだろうか。
そんなことをすれば、関係のない人まで巻き込まれてしまう。
僕が黙って先生を見つめていると、彼は苦しそうに言った。
「アイツの言い分はこうだ。
『他国も同様の研究をしている。だから必要なのだ』と。
この研究は、血を流さずに世界に平和をもたらすのだそうだ」
「…………」
「実際、それで国の許可も下りている。
奴は国の正式な認可のもとで研究を続けている」
先生は淡々と続ける。
「『神の奇跡』に頼れない国々のほうが、必死にこの手の研究を進めている。
アスティリアは神子の存在のせいで研究が遅れ、国防の危機にある――それが、アイツの主張だ」
僕は何も言えなかった。
平民の僕には、政治のことはよくわからない。
国の偉い人たちがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。
そう思うしかない。
けれど、胸の奥がざわつく。
言葉にできないモヤモヤが、確かに残っていた。
そんな話をしているうちに、第二実習棟へ辿り着いた。
学内で最も古いこの建物は、他のどの施設とも比べものにならないほど、不気味な空気を纏っている。
先生は躊躇なく中へ入っていった。
堂々と侵入しても、誰ひとり制止する者はいない。
廊下を進むと、突き当たりに階段がある。
以前、僕たちが侵入を断念した場所だ。
彼は迷いなく、地下へと続く階段に足を踏み出した。
この先に、何があるのだろう。
そのとき、鼻の奥をかすめる、あの匂いがした。
甘いような、むっとするような――どこか懐かしい、言い表しがたい匂い。
ハックフォード先生の研究室で見た、『腐らない腕』が放っていた匂いに、よく似ている。
まさか――あれが保管されている場所へ、案内されているのだろうか。
そう思った瞬間、僕の左腕が真っ先に反応した。
ズキズキと、嫌な痛みが走る。
まずい。
また、あの発作が起きるんじゃないか。
不安が胸を占めていく。
それでも僕は、足を止めなかった。
先生を引き留めることもなく、ただ黙って、その背中を追い続けた。




