第十六章(3)
僕はその夜、新しい夢を見た。
それは、瓦礫が広がる世界でもなく、蒸し暑い室内でもない。
ましてや、ノコギリで腕を切られるような悪夢でもなかった。
そこには、これまでとはまったく異なる光景が広がっていた。
最初に耳に届いたのは、キャンキャンと騒がしい犬の鳴き声だった。
顔を舐め回される不快感に意識を引き上げられ、僕はようやく目を開く。
その瞬間、自分が奇妙な世界にいるのだと理解し始めた。
見渡す限りの荒野。
草一本生えない、干からびた土壌。
その大地から、蜂の巣のような球体のオブジェが、ポコポコと生えている。
どこか既視感のある光景だった。
僕は呆然と、それらを見つめる。
「おはようございます! おはようございます!
ようこそ、兄弟! ようこそ!」
白い子犬は、キャンキャンという犬の鳴き声の合間に、嬉しそうな声をあげた。
それは、可愛らしい――明らかに人間の声だった。
呆気に取られている間に、犬はくるりと身を翻し、どこかへ走り去ってしまう。
僕は慌てて後を追い、恐る恐る歩き出した。
その途中で、周囲に並ぶ奇妙なオブジェが、学長の部屋に置かれているものと酷似していることに気づく。
そして、あの犬は――
紛れもなく、ディクティスだった。
ディクティスが、現実世界とまったく同じ姿で、夢の中に現れている。
それは、今までに一度もなかったことだ。
「リバル、リバル~!」
ディクティスは、誰かの名前を呼びながら、荒野の奥へと駆けていく。
リバル?
聞いたことのない名前だ。
だが、ディクティスがこれほど懐く相手なら、
ジータ学長ではないか――そんな予感が胸をよぎった。
夢の中だというのに、僕の胸は高鳴っていた。
もしかしたら、ジータ学長の正体が明かされるのではないか。
だが、目の前に現れた人物は、彼とは似ても似つかない存在だった。
リバルと呼ばれ、白い犬を抱きかかえて姿を現したのは――
黒髪の、妙齢の女性。
背が高く、鋭い眼差しをしていて、一瞬性別が分からなかったが、明らかに女性だった。
「――――」
彼女は何かを話している。
僕と同じ言語のはずなのに、まったく聞き取れない。
「あの、あなたは誰ですか?」
「――――」
「……聞こえません」
戸惑う僕を気にも留めず、彼女は何事かを語り続ける。
「あの、僕は……ジータ学長に。トマス・ジータさんに会いたいんです」
「――――」
通じない。
胸の奥に、じわじわと苛立ちが溜まっていく。
次第に、口調が荒れていくのが自分でもわかった。
「会いたいんです。あいつに……――に、会いたいんです。
あいつはどこですか。どこにいるんですか」
「――――」
「あいつだよ……――――だよ。
どこにいるんだよ。お前か? お前がそうなのか?」
「――――」
「おい、ふざけるなよ!
あいつはどこだ!? てめえなんかお呼びじゃねえんだよ!
引きずり出せ! 俺の目の前に、早く――引きずり出せよ!!」
…………!?
僕は、驚いて飛び起きた。
心臓が激しく脈打ち、全身から滝のように汗が噴き出している。
上体を起こし、乱れた呼吸を必死に整える。
何か、とても恐ろしいことが起きた気がする。
けれど、何が起きたのかは、はっきりと思い出せなかった。
ただ――
僕は、怒鳴っていた。
今まで一度も使ったことのない、乱暴な言葉で。
見知らぬ女性に、怒りをぶつけていた。
息が落ち着くにつれ、頭が冷えていく。
……違う。
あれは、僕じゃない。
僕は、あんな言葉を使わない。
誰かが、僕の中にいる。
誰かが、僕の感情を操っていた。
なぜだか、そう確信した。
僕は衝動的にベッドから立ち上がり、衣装棚にある鏡へ向かう。
自分の顔を見て、落ち着こうとしたのだ。
だけど――
鏡の前に立った瞬間、僕は激しく後悔した。
夜中で部屋は薄暗く、自分の姿ははっきり見えなかった。
その代わりに、僕は見てしまった。
鏡の中で――
僕の背後に、誰かが立っている。
背中に張り付くように、黒い影がぴたりと寄り添い、笑っていた。
その目は、血のように深い赤色をしていて――
僕は、そのまま意識を失った。
どうしたんだろう。あんな夢を見て。
また、疲れが溜まっているのかな……。
床の上で目を覚ました僕は、まるで眠れなかったかのような感覚のまま、いつも通りライズとマーガレットと朝食を食べ、授業を受けた。
「イーノス! 元気がないそうだけど、大丈夫? ケーキでも食べに行く?」
「? 別に元気はあるぞ」
「とにかく、一緒に遊びましょう! 嫌なことなんか忘れて、パーっと楽しくしましょ!」
放課後、マーガレットの提案もあって、みんなでイーノスのところへ向かった。
カフェでお菓子を食べ、図書館で勉強をして、ボードゲームをして遊ぶ。
マーガレットはこの日、ひどくハイテンションだった。
ニースが僕のもとに相談に来たあの日、おそらく別の誰かから、マーガレットもイーノスの状況を聞いたのだろう。そして彼女なりに、色々と考えたに違いない。
「今はイーノスをひとりにしないほうがいい。思い詰めさせないことが大事だ」
――たぶん、そんなふうに考えたのだと思う。
彼女の気持ちはわかる。わかるけれど、僕はその方法では駄目だと思い始めていた。
そもそもイーノスは、僕たちと何をしても、明日には忘れてしまう。
ボードゲームをしたことも、誰とどんな話をしたかも、覚えてはいない。
構われても、構われなくても、彼自身はあまり気にしていないのだと思う。
イーノスの感じる時間の流れは、僕たちとは違う。
風見鶏の向いている方向を、何時間、何十時間とぼんやり見続けていても、彼は退屈しているわけではない。
僕たちが本当にやらなければならないのは、彼の置かれた環境を根本から見直すことだ。
七不思議が彼に何を求めてきたのか――それを理解しなくてはならない。
その日の夜。
食事を終え、イーノスとマーガレットと別れた僕たちは、フロウリードームの入口の前で足を止めた。
「どうしたの? フリック……」
最初に立ち止まったのは僕で、ライズは数歩先で振り返り、怪訝そうな声を上げる。
「早く帰ろうよ」
僕の様子に違和感を覚えながらも、ライズはそう急かした。
僕は深く呼吸を繰り返し、顔を上げる。
「ライズ。これから、ちょっとだけ話せないかな……」
彼はきょとんとした顔で言った。
「何の話? ぼくたちは、いつも話してるでしょ」
「二人きりで話したいんだ。あまり他の人に聞かれたくない」
「…………」
一瞬、彼の視線が彷徨う。
けれど、「どうしても君と話したいんだ」と、僕がもう一歩踏み込むと、ライズは諦めたように視線を落とした。
「わかったよ。何の話かは知らないけど、あんまり遅くならないようにしてね」
「ありがとう」
ライズは自分の部屋に僕を招き入れた。
同じ寮生にとって、部屋の中は一番安心して話せる場所だ。自然な選択だった。
一年生の頃の部屋よりは狭く、身動きは取りづらいが、居心地は悪くない。
新年度が始まる少し前に来た時と、ほとんど変わらない殺風景な部屋。
「ライズってさ、あんまり物を持たないんだね」
ベッドの端に腰掛け、机に向かう彼にそう言うと、ライズは顔をしかめて抗議する。
「どうでもいいでしょ。それを言うために来たの?」
「いや、違うよ……」
裕福なはずの彼の部屋が、僕の部屋と同じくらい質素であることには違和感があった。
けれど今日は、それを指摘しに来たわけじゃない。
「実は……イーノスのことで、すごく悩んでいて。相談に乗ってもらえないかなって思ってたんだ」
僕はライズを親友だと思っている。
親友とは、気軽に何でも話せて、お互いを尊重し合える関係だと思っていた。
――けれど、僕たちの関係は、きっとそれとは違う。
予想通り、ライズは露骨に嫌そうな表情を浮かべ、僕の申し出をはっきりと拒絶した。
「何でだよ。ぼくはね、あの神子ってやつには関わりたくないんだ」
「わかってるよ。わかっている。君がそういうスタンスなのは、最初から」
「今日はまた、課題を真面目にやらずに遊び呆けてたよね。マーガレットに意見すると面倒だから、仕方なく付き合ってるけど、正直あまり感心しない」
「それもわかってる。僕も、今の状況が良いとは思っていない」
「…………」
僕がほとんど反論しなかったせいか、ライズはかえって不信感を強めたような顔をした。
「じゃあ何? 結局、何を相談しに来たの」
「わかっているんだよ、ライズ。君が僕たちのことを“どっちでもいい”と思っていることも、この事態に一切関わりたくないと思っていることも」
僕は、癇癪を起こした子供をなだめるように、彼の考えをわざと大げさに言葉にしてみせた。
ライズはフンと鼻を鳴らして押し黙る。足を組み、「とりあえず聞いてやる」とでも言いたげな態度を取った。
その様子に、僕はほんの少しだけ安堵して、静かに自分の気持ちを語り始める。
「僕はね、君がブレガーだろうと気にしない。他にどんな秘密を持っていても、気にしない。君は僕の友達のライズだし、言いたくないことは何も教えてくれなくていいと思ってる」
「…………」
「でも、君は僕よりずっと多くのことを知っているし、どうすればこの状況が良くなるかも、わかっているんだろう?」
「………………」
「僕にできることは少ないのかもしれない。でも、イーノスは僕に懐いている。だから、僕にしかできないことがあるんじゃないかなって……。僕は、彼のために何をしてあげたらいいんだろう……」
そう言いながら、僕の気持ちはひどく淡白になっていった。
――僕は、何を聞きに来たんだっけ。
別の、もっと大事なことを聞きに来たような気もするのに、それが何だったのか思い出せない。
わけのわからない感情のまま、僕はライズの返事を待った。
しばらく沈黙したあと、彼は深く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「あのさ……きみが、そんなことまで考える必要はないんだよ」
以前と同じように、椅子をくるりと回しながら、ライズは言う。
「この話はね、きみが思っているよりも、“どうしようもなくて、くだらないこと”なんだ。……きみたちが、わざわざこの問題に立ち向かう必要はない」
――“どうしようもなくて、くだらないこと”。
ライズは、その言葉をやけに強調していた。
「きみが巻き込まれたことについては同情してる。でも、きみは巻き込まれただけ。それ以上でも以下でもない。もっと無責任でいたっていいんだよ」
「……無責任でいてもいい?」
「ああ。きみには、何の責任もないんだから」
「………………」
僕にはわかった。
ライズは、僕のことを思ってそう言ってくれているのだと。
思っていた以上に、彼は僕に寄り添おうとしてくれている。
それは正直、嬉しかったし、ありがたいとも思った。
――それでも。
僕は、心のどこかで、彼に幻滅していた。
胸の奥から、別の感情がじわじわと注ぎ込まれてくる。
左腕がキリキリと痛み、僕は思わず爪を立てて、その痛みで自分を誤魔化した。
「あのさ、ライズ……最後にひとつだけ、聞いていい?」
「何?」
普段と変わらない彼の声が、ひどく憎らしかった。
僕は、絞り出すような声で言った。
「イーノスは、ずっとひとりぼっちで……これから先も、ずっとひとりぼっちなんだ。それをわかった上で、君はそんなことを言ってる……?」
腕が小刻みに震えていた。
けれどライズは、その異変に気づかず、あっけらかんと答える。
「うん。だって、アレは人間じゃない。きみが思うような感情を持ってるとは思わないほうがいいよ。人間じゃないんだから、助ける必要なんてない」
「……じゃあ。もし、イーノスが人間だったら……いや、人間と同じ感情を持っていたなら……助けたほうがいいって、言ってくれる?」
さすがのライズも、僕の様子がおかしいことには気づいただろう。
声が、はっきりと震えていたのだから。
それでも彼は、淡々と言い放つ。
「どっちでもいいでしょ。ぼくは、どちらにしても関わりたくない。何のメリットもないからね」
ガツン、と頭を殴られたような気がした。
視界が一瞬で暗くなり、すべてがどうでもよくなる。
――僕は、ライズに何を期待していたんだろう。
少なくとも、彼の答えに、僕が心底失望したことだけは確かだった。
その後、どうやって自分の部屋に戻ったのかは覚えていない。
気がつくと僕は、再び鏡の前に佇んでいた。




