第十四章(1)
僕が目を覚ましたのは、講堂の上にある六角塔の部屋だった。
記憶がぐちゃぐちゃで、どうして自分がこんな場所にいるのか、すぐには理解できなかった。
イーノスとボードゲームをしていて、疲れて眠ってしまったんだろうか。
上体を起こそうとすると、額から何か白いものが落ち、視界の端を横切った。
「フリック! 気が付いたのか」
イーノスの声と、パタパタと駆け寄ってくる足音がする。
僕は声よりも、額から落ちたものに気を取られていた。白い布切れだ。触れてみると、わずかに湿っていて、生温かかった。
「それを乗せてやると、楽になるかもって教えてもらったから……」
「これを、僕の額に?」
イーノスは頷き、不安そうな顔で続ける。
「体が随分熱かった。苦しい状態だって、教えてもらった」
「……誰に?」
「小さい白いフカフカに」
小さい白いフカフカ……?
ぼんやりしていた頭が、少しずつはっきりしてくる。
その頭で、今の状況を整理した。
僕はアイビー先生に捕まり、反省室へ連行された。そこで尋問を受け、発作を起こして気絶したのだ。
イーノスの話によると、ある晩に「小さい白いフカフカ」がやって来たらしい。
それは流暢な人語を操り、こう言ったそうだ。
『フリックがピンチなのです! イーノスはフリックを助けるのですよ!』
ディクティスだ。彼女がイーノスに、僕を助けるよう伝えたのだ。
「助けるって……どうやって僕を助けたの?」
「白いフカフカが場所を教えてくれた。壁を壊して入った」
「建物を壊したの?!」
そんなことをして大丈夫だったのだろうか。
イーノスは三階から着地してクレーターを作ったりしていたから、特別な力を持っているのかもしれない。
しかし、あの建物を壊したとなれば、学内が大騒ぎになるはずだ。
「フリックは寝ていた。背負って連れてきた。体が熱くて、起きなくて……困ってたら、フカフカがこの布を持ってきた」
バルコニーには雨水を溜める桶がある。それと布を使って、一生懸命に体を冷やそうとしてくれたらしい。
正しい処置かどうかはわからない。でも、子犬と子供が、僕のためにできることを必死に考えた結果なのだろう。
「俺様は、お前たちのことがよくわからないから……ごめんな」
「ううん。随分楽になったよ。看病してくれて、ありがとう」
肩を落としてしょげる彼に、僕は笑顔を向けた。
実際、体調はすっかり良くなっていた。手足の痛みは消え、あれほど苛立っていた気持ちも静まっている。
どれくらい眠っていたのだろう。外を見ても日付はわからない。朝の九時半らしい、ということくらいしか掴めず、僕は途方に暮れた。
お腹はペコペコだったが、空腹で動けないほどではない。一日くらいしか経っていないのかもしれない。
「今、どういう状況なんだろう」
思わず、ひとりごちる。
イーノスに聞いても、わかるはずがない。
待っていれば、マーガレットやハーベストが来てくれるかもしれない。そう思ったが、来る気配はなかった。
僕がアイビー先生の大切なものを盗んだという話は、きっともう広まっているだろう。
彼女たちは、その共犯者として目をつけられているのかもしれない。
そうだとしたら、しばらくここへは来られない。
僕自身も、見つかればまた捕まってしまう。
不用意に外へ出ることはできなかった。
どうしたらいいだろう……。
「どうしたんだ?」
ソワソワと落ち着きのない僕を見て、イーノスが不安そうな声を上げる。
「多分ね……今、すごくややこしいことになっているんだ」
教えても仕方がないと思いながらも、僕はイーノスに状況を説明した。
とある先生の大切なものを盗んだと疑われていること。
先生はひどく怒っていて、盗んだものが見つからなければ、僕を許してくれそうにないこと。
そして、身の潔白を証明するには、僕自身があまりにも怪しい動きをしすぎていること。
どうすればいいのか、まったくわからなかった。
「お腹も空いてきたし……いつまでも、ここに隠れているわけにもいかないんだけど」
せめてディクティスが来てくれたら。
彼女なら怪しまれずに情報を集めてきてくれるだろうし、食べ物も持ってきてくれるかもしれない。
そんなことを考えていると、イーノスがぽつりと声を漏らした。
「なあ、フリック。俺様、ひとつ思い出したことがあるんだ」
「え?」
何を言い出すのかと思った。
イーノスは顎に手を当て、珍しく真剣な顔で言葉を続ける。
「小さいフカフカを見て、思い出したんだ。“大きい白いフカフカ”が、俺様に何か言っていた」
「大きい白いフカフカ?」
「『困ったことがあれば、自分を訪ねてくるように』って言ってた」
ディクティスの変装した姿だろうか。
そう思ったけれど、イーノスは窓の外を指差して続けた。
「『あの時計塔にいるから、いつでも訪ねて来なさい』とも言ってた。だから俺様、今からあそこに行こうと思う」
指差す先を見て、僕ははっと息を呑んだ。
あの時計塔の最上階にあるのは、学長の部屋だ。
“大きい白いフカフカ”——もしかして、学長のことなのか。
「あそこには……学校で一番偉い人がいるよ」
「俺様が行って、頼んでくる」
イーノスは迷いなく言った。
「フリックが、いつもの生活を取り戻せるように、頼んでくる」
確かに、それは……有効な手段かもしれなかった。
神子が直々に僕の身の潔白を学長に訴えてくれたなら、さすがのアイビー先生も反論はできないだろう。
ブレガー家がどれほど有利な立場にあったとしても、この国で一番偉いのは神子なのだ。
神子の訴えを、無下にすることはできないはずだ。
「ごめんよ、イーノス。僕は……君を頼るしかないみたいだ」
「大丈夫だ。任せておけ」
イーノスは自信に満ちた笑顔で胸を叩くと、僕が渡した制服のケープを羽織り、窓に足を掛けた。
——このときの僕は、これが最善の選択だと信じていた。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
あまりにも安直に、イーノスを見送ってしまった。
もう少し慎重に考えていれば、こんなに軽々しく彼を送り出すことはしなかったはずだ。
それでも、このときの僕には余裕がなかった。
お腹が空いていたし、早く元の生活に戻りたかった。
これが原因で、二度と元通りの生活に戻れなくなるかもしれないなんて——
このときの僕には、想像することすらできなかったのだ。
窓から軽やかに飛び出していったイーノスは、校舎の屋根や木の枝を伝い、あっという間に時計塔へとたどり着いた。
中腹の窓から内部に侵入した彼を、僕は落ち着かない気持ちで見守る。
そこでどんな話が交わされたのかは、僕にはわからない。
僕はこの部屋で、ただ待つしかなかった。
何の音沙汰もないまま、不安だけが募っていく。
空腹を訴える腹を抱え、窓から地上を見下ろしては、楽しそうに行き交う学生たちの姿を目にして溜め息をついた。
僕はいつもイーノスに、「僕が行くまで、ひとりで待っていて」と言っていた。
でも今なら、彼が言いつけを守らず外に出てしまう気持ちが、少しだけわかる。
——このまま、忘れ去られてしまうんじゃないだろうか。
——ここで、ひとりきりで飢え死にしてしまうんじゃないか。
時間が経つほど、不安は膨らむばかりで、何か行動を起こしたくてたまらなかった。
日が傾き、空が夕焼けに染まり始めた頃。
ようやく、待ち望んでいた誰かの足音が聞こえてきた。
部屋に現れたのは、学年担任のサファー先生だった。
「いたいた、フリックくん! 心配したよ~」
窓際に座り込んでいる僕を見つけると、彼女はいつもと変わらない、へらへらとした笑顔で近づいてくる。
「大丈夫? どこか痛いところはある? 熱は下がったかな?」
「はい……大丈夫です」
サファー先生は僕の手を取り、両手で包み込むようにして、青い大きな瞳でじっと見つめてきた。
その目は相変わらず、少女のようにきらきらしている。あまりにも場違いで、僕は思わず戸惑ってしまう。
「フリックくん。今からね、とっても重要なお話があるんだよ」
「重要な……お話ですか?」
「この下の講堂に、みんなが集まっているの」
「はあ……」
「君にも、参加してもらわないといけないんだ」
「でも、僕……」
盗難事件の容疑は、もう晴れたのだろうか。
僕が姿を見せた途端、アイビー先生がまた騒ぎ立てて、捕まえられてしまうんじゃないか。
説明を求めるように視線を向けると、サファー先生はただ柔らかな笑みを返し、安心させるように言った。
「大丈夫だよ。君は、座って先生のお話を聞いていればいいだけだから」
「……何のお話があるんですか?」
「それは、聞いてのお楽しみ」
そう言って、彼女は僕の手を引き、階段へと導く。
サファー先生が大丈夫だと言うなら、きっとそうなのだろう。
僕は抵抗することもできないまま、講堂へと連れて行かれた。
普段なら、食堂で夕食をとっている時間だ。
カーテンが引かれた窓の外は暗く、講堂を照らすのは、天井から下がる星空のような鉱石ランプと、通路に点々と置かれたろうそくの灯りだけだった。
僕は青い布で区切られた一角に案内され、席に着くよう促される。
そこにはフロウリードームの同級生たちが集まっていて、ライズの隣の席だけがぽっかりと空いていた。
「何が始まるの?」
僕は腰を下ろしながら、彼に小声で問いかける。
ライズは一瞬だけ驚いた表情を浮かべたが、すぐにいつもの不機嫌そうな顔に戻って呟いた。
「知らないよ。きみが、また余計なことをしたんじゃないの」
ライズが知らないということは、生徒たちは皆、何も知らされないまま集められたということなのだろう。
毎週紫曜日には全体朝会がある。
けれど、こんな時間に臨時で開かれるなんて、初めてのことだ。
胸の奥がざわつく中、舞台袖からひとりの人物が現れた。
ローブを纏った小柄な老人。
床に届くほど長い髭と眉毛に覆われ、顔立ちはほとんど見えない。
——確かに、“大きい白いフカフカ”と呼ぶに相応しい人物だ。
そう思った、その時。
「皆さん。こんな時間にお集まりいただき、ありがとうございます」
学長は拡声器を通して、講堂中の学生たちに語りかけ始めた。




