第十三章(4)
「袋に入れられて、どこかに運ばれるんだ。仲間と一緒に……。着いたのはここだったかな、違う場所だったかな。よくわからないうちに、俺様の腕を斬ろうとする人間が現れた」
あまりにも淡白な語り口で、僕は呆気に取られ、言葉を失った。
イーノスは僕に次の円盤を置くよう指示してから、何事もなかったかのように話を続ける。
「劣化した人間は、俺様の話を聞かないんだ。俺様は教えてやったのに。『俺様は特別だから。お前たちには斬れない』と、ちゃんと教えてやったのに」
彼は緩く首を振る。
憐れむような表情で、何度も、ゆっくりと。
「あいつらは話を聞かない。聞いたと思ったら、違うふうに受け取る。ちっとも話が通じないんだ」
だから、疲れてしまったのだと。
肩を落としながら、彼はそう述べた。
そのときになってようやく、僕の体の硬直が解ける。
浮かんできた疑問を、恐る恐る口にした。
「『特別』? イーノスは『特別』なの?」
「ああ。特別だって、エルフルトが言ってた。俺様は仲間とは違うんだと」
「特別って……どういう意味で?」
「さあ。ただ、特別だから、としか言われてない」
「斬れないって、どういうこと?」
「経験上の話だ。俺様を壊すような真似は、しないほうがいい」
「壊す……怪我をさせる、ってこと?」
彼は頷く。
黒い円盤を盤に置き、白い円盤をパタパタと裏返しながら、続けた。
「可哀想に。あいつらは、たいして長く生きられないのに、どうして早く死のうとするんだろう」
再び、肩を落として首を振る。
「死ぬのは、とても辛いことなんだろう? 俺様には、よくわからないが」
パタパタパタ。
円盤を裏返す音だけが、静かな部屋に響く。
イーノスは淡白な表情のまま、自分の陣地をぼんやりと眺めていた。
そこに、恨みや憎しみの色は一切感じられない。
もしかすると――
イーノスは、もうほとんどのことを思い出しているのかもしれない。
それでも、この淡白さ。
彼は元から、人間に対して憎しみを抱かない存在なのではないか。
恐れているわけでも、悲しんでいるわけでもなく、ただ理解できず、憐れんでいるだけ。
異様なほど、穏やかだった。
――そいつは人間じゃない。生き物ですらないかもしれない。
そんなふうに評したのは、ライズだっただろうか。
その認識が、一番正しいのかもしれない。
仲間が殺されていたとしても、イーノスは人間を恨んだり憎んだりしない。
それは、永遠を生きることを約束された存在の“余裕”なのだろうか。
永遠を許されていない者たちが、何をしようと――
彼の心には、何も届かないのだろうか。
…………。
――なぜだろう。
僕は、ひどく気に入らなかった。
この達観した子供が、どうしようもなく苛立たしかった。
気づけば、歯を食いしばっている。
ギリギリ、と音を立てながら、モノクロの続きをする。
僕らしくない。
まるで、僕の中にもうひとり、誰かがいるみたいだった。
――そんなはずはない。
仲間が殺されて、憎くないわけがないだろう。
ギリギリ、ギリギリ、ギリギリ……。
――憎しみを感じないなんて、ありえない。ありえない。
ギリギリ、ギリギリ、ギリギリ……。
その“誰か”は、飽きることなく歯軋りを続けている。
イーノスは僕の様子に首を傾げたが、特に気にする様子もなかった。
黒く染まりつつある盤面に、さらに黒を重ねて、嬉しそうに円盤をひっくり返した。
――規則正しく寝て、ご飯を食べないと、頭がおかしくなっちゃうよ。
ライズの言う通りなのかもしれない。初めて完徹を断行したこの日、僕の体調は明らかにおかしかった。
何をするにも集中できない。授業中もずっとイライラしてしまい、座っていることすら辛い。
「大丈夫? フリック」
「ああ、うん……」
心配そうに尋ねてくる友人の声にさえ、不快感がこみ上げてくる始末だった。僕は大きく溜め息をついて言う。
「やっぱり駄目かもしれない。ライズの言う通り、サファー先生に相談してみようかな」
「それがいいよ。きみ、どう見ても普通じゃないし」
今日の課題が終わったら、そうしよう。
――そう決意していたのに。
よりにもよってこの日に、僕は予想だにしない事件に巻き込まれてしまった。
事件は、このすぐ後、図書館で始まった。
僕は背後に、人影を感じた。
またイーノスが部屋を抜け出してきたのかと思ったが、違う。
「フリック・ラーベス」
低い女の声。僕が振り返ろうとした瞬間、両脇を誰かにガシリと掴まれた。
「ど、どうしたんですか? アイビー先生」
マーガレットが悲鳴のような声を上げる。どうやら、先程の声の主はアイビー先生だったらしい。
両脇で僕の腕を掴み、無理矢理立たせてくるのは、彼女の助手の先生たちだ。
「あんたを連行するわ。罪状は、わかっているわね?」
いえ、わかりませんけど……。
反射的にそう思ったものの、頭がすっかり混乱していて、僕は何ひとつ反論できなかった。
僕は引きずられるようにして、とある場所へ連れていかれる。
そこは、以前放り込まれた『反省室』だった。
小さな机に着かされ、アイビー先生から尋問を受ける。
「あんた、アタシの研究室に忍び込むなんて、いい度胸ね。アレをどこにやったのよ!」
ダン、と拳を机に叩きつける彼女。
僕の頭は疑問符でいっぱいになり、何か言わなければと焦るほど、かえって言葉が浮かんでこない。
「あんたの部屋から一冊が見つかったのよ。既にあんたの犯行は立証されてんの! 目撃者もいるんだから!」
一体、何の話だ。
僕が黙り込んでいると、椅子が激しく揺れた。アイビー先生が、椅子の脚を蹴飛ばしたのだ。
「早く白状しなさい。アレをどこにやったの? アレは、あんたが持っていていいものじゃないの!!」
そう言われても、僕には何のことやら、さっぱりわからなかった。
喚き続ける彼女の言葉から、僕は少しずつ状況を理解していった。
彼女の大切な本が、研究室から盗まれたこと。
そして、その犯人が僕だと疑われていること。
理由は明白だった。
何故なら僕は去年、図書館の書庫に忍び込み、錬石を使って鍵を開け、閲覧注意図書を読み漁った前科がある。
寮の生徒からは、犯行の日の晩、僕が一晩中部屋に帰ってこなかったという証言が出た。
研究室の生徒からは、研究室の近くで僕の姿を見たという訴えがあった。
そして、先程僕の部屋を捜索したところ、盗まれた本のうち一冊が見つかった。
「あと二冊が見つからない。早く白状しなさい。白状するまで、この部屋から出られないわよ」
「………………」
僕は何度か弁明を試みたが、アイビー先生は完全に僕を犯人と決めつけていて、本の在処以外の話を聞こうとしなかった。
暴力こそ振るわないものの、物を投げ、机を蹴り、思いつく限りの脅し文句で僕を追い詰め、何とか口を割らせようとする。
だが、知らないものは知らない。
何故、僕の部屋から盗まれた本が見つかったのかも、まったく心当たりがなかった。
最近は部屋に戻らないことも多く、鍵もかけていない。外部から侵入して、本を置いていくことは、誰にでもできただろう。
――僕に罪を擦り付けようとした人がいる?
頭に浮かんだのは、ハックフォード先生だった。
もしかして、僕は彼に嵌められたのだろうか。
彼は不自然なほど執拗に、アイビー先生の部屋にある『秘密の本』の話を僕に刷り込んでいた。
今思えば、あれは僕に盗ませようとしていたとも考えられる。
だが、僕があまりにも鈍感で、なかなか動かなかった。
しびれを切らした彼が自分で盗み、僕に罪を擦り付けた――?
図書館の書庫に忍び込んだ前科のある僕は、犯人役としては都合がいい。
「早く答えなさい! いつまで黙ってんの?!」
ガン、と机が蹴られる。
ここ最近ずっと体調の悪かった僕は、この数時間にも満たない尋問にすら耐えられなかった。
目を開けたまま、夢を見ていたのかもしれない。
頭の中に、別の風景が広がり、違う音が聞こえてくる。
――お前は、我慢強いのが取り柄なんだろう。
赤い目の人物が、僕にそう囁いた。
天井を見上げる僕は、眠りにつくことを妨げられるように、頭を何度もはたかれる。
そして右腕を押さえつけられ、あの音が鳴り始めた。
ギコギコ、ギコギコ、ギコギコ、ギコギコ……。
額から脂汗が噴き出す。肘の上あたりがむず痒くなり、やがてピリピリとした痛みが走り出した。
「どうしたの……?」
流石に異変に気付いたのか、アイビー先生が動揺した声を上げる。
肘を抱えて体を丸める僕を見下ろしている。
「……やめてください」
「え? 何?」
「やめてください!」
僕は、堪えきれずに叫んだ。
止まらないギコギコという音と、痛み始めた手足への恐怖を抑えられず、体を丸めたまま声を張り上げる。
「やめてください、やめてください、痛い、痛い、痛い、痛い、知りません、知りません、僕は知りません、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い…………!!!!!!」
アイビー先生と助手たちの悲鳴が、遠くで重なった気がした。
バタバタと足音が響き、彼女たちが部屋から逃げ出していくのがわかる。
だが、僕はそれどころではなかった。
手足の痛みがあまりにも酷く、うずくまったまま、しばらく「痛い」と叫び続ける。
やがて、意識がゆっくりと遠のいていった。
僕はそのまま、机に突っ伏すようにして眠ってしまったのだと思う。
幸運なことに、その眠りは――一週間ぶりに味わった、一点の曇りもない完全な熟睡だった。
次に意識が浮上したとき、最初に目に入ったのは、見覚えのある独特な形をした、高い天井だった。




