第二章(1)
遅い……。
今日は輝金の月、四月の二日目。僕は部屋の扉の前の、応接机の長椅子に膝を揃えて座っていた。輝金の月という名前に示された通り、山間から覗いた朝日はキラキラと残雪を金色に輝かせている。ベルフォートの四月は故郷の四月よりも気持ちの良い季節だなと、僕は窓の外を眺めながらぼんやりと思った。
遅い……、大丈夫かな。
そんな気持ちの良い朝に、僕はそわそわしていた。窓の外には時計塔が見える。あれは多分学長の部屋があった塔だ。部屋の中には時計がなかったので、あの時計がこの場所から唯一時間を知ることができるものだ。
時計の短針は八を指している。九時からオリエンテーションが始まるらしいので、それまでに朝食を済ませておかないといけない。食事を一食抜くくらい僕は平気だけど、きっと上流階級のライズにはご不満なことだろう。
しかし当のそのライズが、ロフトから下りてこない。一時間も前に僕はすべての用意を終え、学友が起きるのを待っているというのに。
痺れを切らした僕は、ロフトの梯子に手を伸ばした。音を立てないようにそろそろと上り、階上のスペースに頭を出す。仕切りのカーテンが半分開いていて、この位置からでも中の様子が丸見えだった。
分厚い布団に埋もれた赤毛。先ほどから聞こえていた奇妙な物音の発生源はここだったのか。ギリギリとうるさい歯軋りの音に眉をひそめながら、僕は口を開いた。
「ライズ……朝だよ。授業に遅れちゃうよ」
ギリギリ、ギリギリ、ギリギリ……。
「もう八時過ぎちゃったよ。急いで食堂に行かないと、朝ごはん食べられないよ」
ギリギリ、ギリギリ、ギギ……。
歯軋りの音が止まる。僕の声が届いたらしい、彼はガバッとベッドから上体を起こした。
「もう朝? 八時すぎ?」
「そうだよライズ。九時からオリエンテーションだよ」
「オリエンテーション?」
「講義棟一階に集まるように、ノギスさんに言われたでしょ?」
「ああ、そうだ、そうだった……」
彼は慌ててベッドから這い出る。『起こしに来るなんて生意気』などと理不尽に怒られるんじゃないかと危惧していた僕は、その様子にほっと息を吐く。
「ちょっときみ!」
「え?」
もしかして、やっぱり文句を言われるの? 身構えた僕に、パジャマ姿の彼はものすごく怖い顔でこう言った。
「いつまでそこにいるの? 着替えるんだからどっか行ってよ!」
「あ、ごめん……」
慌てて梯子を降りた僕は、シャッとカーテンを閉める音を背にして再び心の距離を感じる。
そこまでキツく言わなくても良いのに……。同性なんだから、そんなにも神経質になる必要はないだろうに。
長椅子に戻ってまたジリジリと焦りに身を焦がしていると、着替えを終えたライズがロフトから下りてきた。
「急いで行くよ! この世界は一日二食しか食べられないんだから、食べ損ねたら大変だ!」
やっぱりか。上流階級の彼は、一食でも食事を抜くのは嫌なようだ。それなら早く起きてほしい。僕たちはもう十四歳、子供じゃないんだから……。
早足で目的地に向かう彼の背中を、僕は苦笑いしながら追いかける。
食堂に着いたのは八時半をちょっとすぎたくらいで、白い布が敷かれたグロウリードーム専用の長机には、ほんの数人の女子の姿しか見えなかった。
僕たちは少し離れた席に着く。こちらに気が付いたらしい彼女たちは、チラチラと視線を向けながらなにか内緒話を始めている。
悪口でも言われているんだろう。どうせ『品がない』とか、『小汚ない』とか、そういう話をしているんだろうと思っていたけど、漏れ聞こえてくる単語は思いもよらないものだった。
僕は隣でパンをちぎっては口の中に放る友人に話しかけた。
「ねぇ、なんだかあの子達、僕のこと……『口が大きい』とか言っているみたいだけど」
「そうだねぇ。そう言ってるねぇ」
「僕、そんなに大きな声で喋ったりしてるかな? どちらかというと小さいほうだと思うんだけど」
「ビッグマウスだって言われてるんだよ、きみ」
ライズは呆れたようにそう言って、最後のひとかけを口に放り込む。
「ビッグマウス?」
「ビッグマウス」
それって、大きな口ってことだろう? どういう意味なんだろうと首を捻っていると、ライズは手を合わせて『ごちそうさま』と呟いてからこう言った。
「昨晩あんなこと言うからだよ。『風見鶏の錬成師』になりたいだなんて」
「え? それが原因なの?」
どうしてだろう。率直な夢を口にしただけなのに、どうしてひそひそと陰口を言われるのだろう。
「ここではそれが普通の反応なんだよ。滅多なことは言わない方がいい」
滅多なことと言われても。僕には何が不味かったのかがよくわからない。彼に倣って『ごちそうさま』をし、食器を返却口に置いてから、早足で講義棟に向かう。
講義棟一階、一〇一の部屋にはすでに同級生が勢揃いしていた。ここでも成績順に席が決まっているらしい。僕たちは空いている一番前の長机に並んで座ることになった。
「みなさん、おはようございます!」
九時を告げる鐘の音と共に元気良く講義室に入ってきたのは、長い髪をした女の先生だった。彼女は腕の中に積み上げられた冊子の山を教壇にドサリと下ろしてから、僕たちをぐるりと見回す。
「大陸歴千三百八十五年、四月一日入学のみなさん。ハチゴ生と呼ばせていただきますが、入学おめでとうございます!」
彼女は被っていた鍔の大きな三角帽を下ろし、深々と礼をする。良く通る高い声と、円らな青い瞳が印象的な童顔の先生。先生じゃなくて助手さんなのかもしれないと思っていた矢先に、彼女はこのように自己紹介をした。
「ハチゴ生の学年担当をさせていただくことになりました、サファー・ロエストファントと申します。担当科目は錬成学、研究分野は単晶学です。よろしくお願いします!」
少しだけ、周囲がざわついた。僕と同じように考えていた人が多かったのだろう。どうやらこの若い女の先生が、助手でなく"研究室の教授"らしいと把握して、動揺が広がっていた。
サファー先生は持ってきた冊子を全員に配る。表紙には『シラバス』と刻印されており、中には講義スケジュールや科目の紹介などが書かれていた。
「四月二日、本日から六日間、各科目担当の先生によるオリエンテーションがありまして、八日、白陽の日が休日です。朱陽の日から紫陽の日まで六日間が平日で、講義があります。白陽の日は基本的には休日ですが、入学式、卒業式などの行事が入ることがあります」
先生の解説に沿ってシラバスを眺めると、学校の概要が段々とわかってくる。
一年生は基礎科目と呼ばれる講義を履修する。履修するのは六科目、『錬石学基礎Ⅰ』、『錬石学基礎Ⅱ』、『国営学基礎Ⅰ』、『国営学基礎Ⅱ』、『戦闘学基礎Ⅰ』、『戦闘学基礎Ⅱ』。
「みなさん『風見鶏』という通称が浸透してしまって忘れているかもしれませんが、この学校の正式名称は『アスティリア国定三学研究所付属高等士官学校』です。国によって定められた、国を治めるために必要な学問が『国定三学』、その三学が『錬石学』、『国営学』、『戦闘学』なのです」
国を支えるお仕事を志すみなさんに、是非学んでいただきたい学問を揃えたのが、わたしたちの学校なんですーーキラキラ輝く瞳で僕たちに語りかける彼女は、きっと教育熱心な先生なのだろうと思う。同級生たちも先生に感化された様子で、シラバスに向ける顔つきが真剣なものに変わっていた。
「今年度の時間割は、三ページ目に載っている通りです。朱陽の日の午前に錬石学基礎Ⅰ、橙陽の日の午前に国営学基礎Ⅰ……」
平日六日の午前に、それぞれ六科目が割り当てられている。午後は出された課題を解いたり、次の日の予習をしたりする時間だという説明があった。
「錬石学は大きく二つの科目にわかれます。すなわち、『錬成学』と『採石学』です。錬石学基礎Ⅰは主に錬成学視点からの錬石学の基礎を学び、錬石学基礎Ⅱは採石学視点からの基礎を学びます」
国営学も戦闘学もそれぞれ二つの科目に分かれ、その六つが二年時に習う科目らしい。
「一年生は基礎科目を学び、どの領域に適正があるかをそれぞれ判断してもらい、二年生になる前に『主専攻科目』を決めます。一年生は主専攻を決めるための学年だと思ってください」
主専攻科目が決まったら、その科目に応じた寮に移ることになる。なるほど、だからグロウリードームを中心として、円状にぐるりと他寮が建っていたのかと納得した。
その後、各科目の概要などの長い説明があったあと、鐘の音が鳴り響く。それは十時三十分の鐘で、授業の区切りの合図だと知らされた。
「それでは、十五分ほど休憩になります。しばらくシラバスに目を通してもらって、質問があれば後で手を上げてくださいね」
サファー先生が講義室から去ったのを見届けてから、パラパラと席を立つ人が出てくる。僕は周りに構わず、シラバスとにらめっこを続けていた。
僕が学びたいのはもちろん錬石学だ。錬石学系の科目を主専攻にするのは間違いない。錬石学系の二つの科目のうち、採石学というのは鉱山から錬石の混ざった鉱石を掘り出すという分野なので、どちらかというと錬成学のほうがいい。錬成学の研究室はふたつあって、サファー先生の『単晶学』と、アイビー・ブレガーという名前の先生の『連晶学』があるみたいだけど、どちらがいいかはまだよくわからない。それを選択するのは三年生になる前だから、ゆっくり考えればいいのかな。
「おい、君!」
「……?」
背後から肩をつつかれたので、振り返る。羽根ペンで肩をつついてきたのは、成績が三番のハーベストだった。彼は一つ後ろの列の、僕とライズの間にあたる位置に座っていたのだけど、わざわざ僕のほうに身を乗り出してこんなことを言ってきた。
「学年担当がロエストファント教授なんて、君、ついてないな!」
「え? どういうこと……?」
ニヤニヤ顔の彼は、僕に嫌みを言おうとしているのだろう。少しだけ眉間にシワを寄せる僕に構わず、彼はあっけらかんとして口を開いた。
「だってほら、君はすごい大口を叩くだろう? 先生に目をつけられたら悲惨なことになるぞ。彼女に聞かれないよう気を付けた方がいい」
……? 僕は首を傾げる。どうしてサファー先生に聞かれてはいけないのだろう。ハーベストが示唆しているのは、『風見鶏の錬成師になりたい』という発言のことだと思うけど、どうしてその言葉にサファー先生が気分を害するのか理解できない。
戸惑う僕を見て、彼はアハハと快活に笑う。乗り出した体を椅子に戻しながら、"ありがたい助言"を僕に投げつけてきた。
「『風見鶏の錬成師』というのは、風見鶏に研究室を置くことを許可された研究者のことだ。つまり、現在の風見鶏の錬成師はロエストファント教授とブレガー教授だ。風見鶏に研究室が置けるのは、三学で合計十二。錬成学では二つしかポストがないわけだ」
「えっと、それはつまり……」
「君が言っているのは、現在研究室を持つ二人のうち一人を蹴落として、自分がそこに座ろうと言っているのと同義なんだよ。『なめた口を利くな』と思われても仕方がないだろう?」