第十章(1)
――悲しい夢を見た気がする。
どんな夢かは覚えていない。だけど、ものすごく悲しい夢だったことはよく覚えている。
涙は出ない。ただぽっかりと胸に穴が開いていて、空虚な気持ちに苛まれている。まるで鋭利なスプーンで、胸の辺りをえぐり取られたかのように、今の僕の胸の中には何もない。
ただ傷口から、だらだらと血が溢れて、溢れて、止まらない。
涙の代わりに、幻の傷口から血が流れているのだろう。もちろん痛みはない。これはただの幻覚なのだから。
遠くでガタンゴトンと揺れる音が聞こえる。汽車の中にいるのだと、半分だけ覚醒した意識が理解していた。
そのとき、耳元で妙な音がした。
カサ、カサ、カサ。
カサ、カサ、カサ。
何の音だろう。眠っていられないほど不快だ。ゆっくりと目を開ける。
音の発生源はすぐ近くにあった。
窓から入るすきま風が、僕の手元の“ぐしゃぐしゃの紙切れ”を弄んでいたのだ。
以前にも同じようなことがあったな。ぼんやりとそんなことを思いながら、僕は紙を持ち上げてそっと広げた。
そこには、前と同じように文字が殴り書きされていた。
――『復讐を 忘れるな』――
その粗暴な筆跡は、見覚えがあった。
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僕は鞄から茶色い封筒を取り出した。
“進級のご案内”と書かれた冊子を抜き出し、読み始める。
この封筒は隣町の私書箱に届いていた。
僕の村は道が悪く、郵便物が届かない。いつからだったか、僕は隣町に私書箱を借りるようになっていた。
進級案内には、二年目のスケジュールが詳しく書かれていた。
三月中に新寮への引っ越しを済ませること。四月一日の入学式は任意参加で、授業は二日から始まる。一週目を受けてから、二週目までに選択科目を決め、その二週目の授業に出ることが受講の申し込みとなる――そんな内容だった。
なるほど、いつ入寮してもいいのか。
「四月近くになると新入生でバスが混むため、在校生は早めの入寮を推奨する」とも書いてある。
僕の新しい部屋は“十四号室”。フロウリードームの三階だ。
風見鶏行きのバスを降り、僕はまっすぐ寮へ向かった。
フロウリードームは青い垂れ幕が目印で、玄関の中はグロウリードームとほとんど同じ造りだ。ロビーも談話室も見慣れた光景だった。
部屋の配置もほぼ同じで、二階から五階までが生徒の居住区になっている。
十五から二十が二階、九から十四が三階、三から八が四階、そして一番上の一号室と二号室が最上階だ。
一号室よりだいぶ狭いだろうなと思っていたのだけど、十四号室は思った以上に快適そうだった。
ベッドと衣装棚は以前と同じ大きさで、窓からは時計塔がちゃんと見える。
違いといえば、勉強机が少し小さく、お客さんを通すには狭いくらいで、ひとりで暮らすぶんには十分だった。
十四号室は階段隣りの角部屋で、お隣は十三号室だけだ。
挨拶しておこうと思い、扉をノックした。
しばらく反応がない。まだ入寮していないのかと思った頃、ゆっくりと扉が開いた。
「あ、あの。隣の部屋に――」
そう言いかけて、頬が緩んだ。
そこにいたのは、よく知る顔だった。
「ああ、なんだ。きみか……」
「久しぶり、ライズ」
数ヶ月ぶりに会う友人は、相変わらず気だるそうな表情だ。僕は嬉しくなって満面の笑みを浮かべた。
「隣が君でよかった。今年もよろしくね!」
いつもの苦笑いか、もしくは同じく笑顔で返ってくると思っていた。
しかしライズはどちらでもなく、戸惑ったような顔で僕を見つめた。
「どうしたの、きみ……。片目が」
「片目?」
何を言っているのかわからない。
ライズは僕の腕を掴み、そのまま部屋の中へ引き込んだ。
無言で衣装棚の扉を開き、内側の鏡の前に僕を立たせる。
「……!」
鏡に映る僕の左目が、真っ赤に染まっていた。
「おかしいな……どこかにぶつけたかな」
「視力は? 医務室に行ったほうが――」
「見えるよ。視界は普通。大丈夫」
驚きはしたものの、視界が乱れているわけでもない。
心配そうな友人に、僕は「大丈夫だよ」と何度も繰り返した。
片目のことよりも、僕はライズの部屋に入れてしまったことのほうに、むしろドキドキしていた。
入寮してまだ日が浅いせいか、部屋にはほとんど私物がない。
机の上に本やノートが整然と並んでいる程度で、他には何もない。
ずっとパーソナルスペースを隠していた彼のことだから、もっと秘密めいた物でも置いているのかと思っていたのに――なんとも拍子抜けだった。
寮は狭いから。図書館へ行こうと言って、ライズは僕を誘ってくれた。
「やっぱりちょっと暇だね。ひとりっていうのは」
意外にも、ライズも一人部屋の寂しさを感じていたらしい。
今さら何を、と思いつつ、同じ気持ちを共有できたのが嬉しかった。
「お休みはどうだった?」
「どうもないよ。いつも通り、面倒なことだらけさ」
貴族の新年は親戚づきあいで大変――マーガレットがそう言っていたのを思い出す。
ライズの家も例外ではないのだろう。
「きみは?」
「僕はすごくのんびりできたよ。退屈すぎて、早く学校に戻りたかったくらいだ」
「それは同意だね。ぼくも早く戻りたかったよ」
休みの話題はどちらも深く触れたくない気分だったので、二年次の授業の話に移った。
「ライズは履修、もう決めてる?」
「叔母さんが『風見鶏の錬成師』の資格が取れるようにしておけってうるさいから。最低限は履修するよ」
「『風見鶏の錬成師』って、国定三学ぜんぶ理解してないと駄目なんだっけ」
風見鶏の教授になれる資格。
その試験には錬石学・為政学・戦闘学がすべて出題される。
卒業するだけなら一分野で十分だが、資格を取るにはそうはいかない。
「じゃあ、一緒の科目を取ろうよ」
「ああ、そうだね……」
返事はしたけれど、ライズはどこか不満そうに口を曲げていた。
「ねぇ、ライズ」
その横顔を見ながら、前から気になっていたことを口にした。
「どうして叔母さんの言うことを聞いてるの? “家を出たらいいのに”って、他の人にはよく言ってるのに」
答えにくい質問かなと思ったけど、彼は淡々とした様子で「ああ、それはねぇ……」と語り始める。
「あの人の言うことを聞いておく方が得なんだ。今のところはね。ぼくは体が強くないからねぇ」
「体が強くない?」
「生まれつきの病気があるんだよ。そのうち治るんだけどさ」
意外すぎる答えだった。
そういえばサファー先生が「ライズくんの主治医」と言っていた。
まだ治療が続いているのだろうか。
「だからさ。どっちでもいいんだよ、ぼくにとっては。将来『風見鶏の錬成師』になろうが、地方の役人になろうが。病気さえ治ればねぇ」
その投げやりな言い方に、僕は思わず黙り込む。
病気なのは気の毒だ。
だけど“どっちでもいい”なんて言い方は、とても感じが悪いと思ってしまった。
「でもさ……『風見鶏の錬成師』になれるのはごくひと握りだよ。みんながなりたくて努力してるのに、もし君みたいに“どっちでもいい”って思ってる人がその席を取ったら……周囲はどう思うかな」
言った瞬間、しまったと思った。
トゲのある言い方をしてしまったかもしれない。そっとライズの顔色を伺う。
しかし彼はまったく気にした様子もなく、肩をすくめた。
「それはぼくには関係ないよ。“ぼくより適任がいない”ってことが問題なんでしょ? なりたいなら、その人がもっと頑張ればいいだけじゃない」
………。
そういえば、去年も似たようなことを言っていた。
入学式のあと、首席の部屋をあてがわれて怒っていた彼はこう言った。
――きみたちが馬鹿だからぼくが首席になっちゃって、代表にされちゃったんだ! もうちょっと頑張ってくれよ、きみたちはこの国で一番頭の良い子供たちなんでしょ?
あの頃から、彼の考え方はまったく変わっていないらしい。
ライズのことは好きだし、尊敬もしている。
一緒にいると安心するし、楽しい。
だけど、彼のその価値観だけはどうしても好きになれなかった。
僕は凡人だから、彼のような才能ある人の気持ちはわからない。
でも、才能がある人こそ国民のために働くべきだ――僕はそう思っていたし、きっと僕だけではない。
数日後の入学式。
新一年生の学年首席は壇上でこう演説した。
「私たちはアスティリア国民の代表としてこの学校に入学しました。国を導く者としての自覚を持ち……」
一年前に同じ演説をしたのはライズだったじゃないか。
どうして彼は、自分の類まれな頭脳を、国のために使おうと思わないんだろう――。
そうやってモヤモヤしたせいだろうか。
僕はまた、奇妙な夢を見た。
実家にいるときに見た夢の続きなのかもしれない。
――暑くてたまらない世界の、廃墟で暮らす僕とマーガレット。
この世界の僕たちには、帰ることができる家があった。
そこは石造りの、のっぺりとした建物で、内部は魔法のように涼しい場所だった。
その建物には“リーダー”がいた。
いつも堂々として、なんでも指示をくれる頼れる存在だ。
僕たちは不安な毎日を、リーダーの指示通りに生きていた。
リーダーに従っていれば、この過酷な環境でも、食べ物に困らなかったのだ。
そのリーダーは赤毛で、背の高い男の人で、どこかライズに似ている気がした。
夢の中なので、一度似ていると思うと、どんどん彼の顔になっていく。
彼の指示のもと過ごす毎日は心地よかった。
僕は日々の不安について、何も考えなくて良かったからだ。




