第九章(2)
“七不思議は学校生活のスパイス”。――そんなふうに言っていたのは、サファー先生だったか。
今振り返れば、確かにその通りだったのだと思う。
僕が七不思議への働きかけをやめて数ヶ月。月日は無味無臭に流れ、気が付けば季節は冬に変わっていた。
ベルフォートの冬は寒い。十二月に入ったその日、雪がちらつき始めた。ずいぶん前から冬服に袖を通していたけれど、気温はどんどん下がり、ついに全員がコートを着用するようになる。
制服の上に羽織る革のコートは学校支給のものだ。僕の一張羅であるペラペラのジャケットとは、暖かさが雲泥の差だった。
これは実家に帰るまで着ることはないだろう。自前のジャケットを畳み直して棚に戻したその時、僕は重大な事実に、今さらながら気付いた。
――マーガレットに、まだ手袋を返していなかった!
「そういえば貸したままだったわね」
彼女はまったく気にしていない様子で、僕の手から手袋を受け取った。
「覚えていてくれて嬉しいわ。ありがとう」
本来なら僕のほうが感謝すべきなのに、マーガレットはそんなことを言ってはにかんだ。出会った頃と何も変わらない、相変わらず天使のような美少女だ。
あれからもう八ヶ月。
当時の僕には到底信じられないだろう。こんなに素敵な女の子が、僕の親友になってくれるなんて。
幸福を噛み締めていた僕は、同時にもうひとつの事実を思い出す。
十二月――黒朱の月は、今年度最後の月だ。
風見鶏のあるベルフォートの山は極寒のため、一月から三月までは学校が閉鎖される。十二月最後の白曜日から冬休みに入り、春まで学校はお休みだ。
つまり一年生として過ごせる時間は、あと三週間しかない。
もうすぐ一年生が終わってしまうのだ。
「あと少しで、一年が終わっちゃうね」
「そうね。十二月は行事で忙しいし、一瞬で過ぎちゃうわよ」
マーガレットの言う通り、今月の予定はぎっしりだ。
二週目から期末考査があり、三週目の紫曜日の午後に行われる『終年祭』の準備のため、休日返上で飾りつけをしなければならないと連絡があった。
「ただでさえ試験勉強があるのに、どうすればいいのよ! 荷造りもしなきゃ。私たち来年は違う寮に入るのよ?」
「そっか……来年は違う部屋なんだ」
「そうよ。二年生からはひとり一部屋なんですって。――まあ私は、レニーがいなくなってからずっとひとりだったけどね!」
そのことを、僕はあまり考えないようにしていた。
寂しさで押しつぶされそうになるから、考えたくなかった。
ライズと、来年は違う部屋になってしまうなんて。
入学式のあとからずっと、僕はライズと一緒に行動してきた。毎晩彼の歯軋りを聞き、寝過ごしそうになる彼を起こしてきた。
ライズは僕がいなくてもちゃんと起きられるのだろうか。遅刻せず授業に出られるのだろうか。
「あの部屋、広すぎて嫌だったんだよねぇ。早く普通の部屋に移りたいよ……」
ぼやく彼を、僕はちょっとだけ睨んだ。
寂しいのが僕だけだなんて、悔しい。
「僕だって、歯軋りが聞こえない部屋に早く移りたいんだ」――と言いたかったけれど、喉がつかえて言えなかった。
僕にできることは、ぎりぎりまでそのことを考えないように過ごすことだけだった。
「フリックは冬休みに実家に戻るの?」
試験勉強に追われていたある日、マーガレットが自然な調子で尋ねてきた。周囲でも冬休みの話題で盛り上がっていたのだ。
「うん、そのつもりだよ。マーガレットは?」
「もちろん帰るわ。ベルフォートは寒すぎるもの。セルグの実家で春まで過ごすつもりよ」
「ライズはどうするの?」
「……そりゃ、帰るよ。実家に帰るしかないから」
「ライズの実家はどこ?」
「ニュータル州の片田舎だよ」
彼はあまり実家について話したがらない。その理由は、アイビー先生の一件を知っている僕には痛いほどわかる。
なんとなく視線をそらし、僕はマーガレットと話を続けた。
「春まで何をする予定なの?」
「新年を迎えたら、親戚一同が集まる行事がてんこ盛りよ。バタバタしていたら、いつの間にか春になっていると思うわ」
「そうなんだ。貴族って大変だね……」
「フリックは? 春まで何をして過ごすつもり?」
問われて初めて、僕は長いお休みのことを考えた。
平民の僕には、新年に大きな行事などない。むしろ冬というのは、ゆったり過ごす季節だという印象がある。
母の実家の果樹園の手伝いも一段落し、冬の保存食を少しずつ切り崩して暮らす。母や姉たちは裁縫や編み物の仕事を受けるけれど、僕にその仕事は回ってこない。
「学長に頼まれたことがあるから、それをやろうかなって思ってるよ」
最終的に僕の口をついたのは、そのような言葉だった。
「学長に頼まれたこと?」
そういえば、そのことは誰にも話していなかった。
僕は良い機会だと思い、自分が入学した経緯と、父の研究について軽く説明した。最後に、学長から依頼された錬石の話をする。
「『ティフォニーイグニドの完全変色結晶』? よくわからないけど、すごく特別なものっぽいわね!」
「とても綺麗な石だったよ。ランプ石の白い光だと緑に、ろうそく灯の黄色い光だと赤く見えるんだ」
「素敵! わたしも見てみたいわ」
瞳をキラキラさせながら、彼女は呟く。「学長に頼んで見せてもらいましょうよ」などと、ライズをつつきながら言っている。
僕はなんだか得意な気持ちになった。
僕の父は、どんな大金持ちが望んでも手に入らないほど貴重なものを作ることができる。
もし僕も同じものを作れるようになったら、きっと多くの人が欲しがるだろう。
そして思った。
——そんな特別な石を、マーガレットにプレゼントしたらどうだろう。
学長よりも彼女のほうがずっと似合うし、割らずに大切に持っていてほしい。
「マーガレットの分も作るよ。時間がかかるから、渡すのはずっと先になってしまうと思うけど……」
「本当に? すごく嬉しいわ! ありがとう。期待して待っているわね!」
頬を紅潮させて喜ぶマーガレットを見て、僕は俄然やる気が湧いてきた。
絶対に結晶を作り上げてみせる。冬休み中に必ず、父さんの研究ノートを解き明かしてやるんだ!
明確な目標ができたことで、なんとなく胸に残っていた寂しさも薄れ、僕は学業に集中できるようになった。
マーガレットと約束したのは、これだけじゃない。
終年祭の準備に駆り出された、二回目の白曜日のこと。
この日は寮ごとに担当場所の飾りつけを行う日で、グロウリードームは講堂を任されていた。
期末考査の直前にこんなことをさせるなんて、と苛立つ学生も多かったけれど、僕は飾りつけられていく校舎がどんどん綺麗になっていくのが楽しくて仕方がなかった。
元々ある鉱石ランプに加え、終年祭用に紐で繋がったたくさんのランプ石が新しく吊るされていく。
ランプ石は『グロウリーグロウ』がクォーツに閉じ込められた鉱石のことで、外側のクォーツに色がついたものは白くないカラフルな光を放つ。
赤、水色、黄色、紫、緑……色とりどりの光に包まれた講堂は、普段の何倍も綺麗だった。
そんな作業の最中のこと。
「この上に、例の棺があるんだったかしら」
マーガレットが僕にこっそり耳打ちしてきた。
「そうだよ。講堂のてっぺん、風見鶏が立っている六角塔の部屋に、神子がいるよ」
答えると、彼女はじれったそうに足をバタバタ鳴らした。
「ああ、見てみたかったわ! 悔しいわ! 行ってみればよかった!」
「まあ、今はもう寒いし、また暖かくなってからでいいんじゃない?」
僕がそう言うと、彼女はグッと僕の手を掴んで胸の前に引き寄せた。
「来年、一緒に行きましょうね! 約束よ!」
「うん、約束……」
なんとなく七不思議からは距離を置いてしまっていたけれど、ほとぼりが冷めたら調査を再開してもいいかもしれない。
ディクティスも待っているだろうし、『弟』の件についても確認しないとなぁ——なんて、ぼんやり考えた。
そして迎えた期末考査の週。
きっと風見鶏の“本来のメインイベント”は、この期末考査なのだろう。
だけど僕は、中間考査のときと同じく、気付けば終わっていた。ほとんど記憶に残っていない。
何の手応えもないままだったのに、僕はまたほとんどの科目で二番。相変わらずライズとハーベストに挟まれる形だった。
一位と三位のふたりは、前回と同じように目も合わせようとしない。
一体いつまで喧嘩しているんだろう。来年は違う寮になるかもしれないのに。
このふたり、仲直りしないまま別れる気なのだろうか?
僕がもっとしっかりしていれば、少しは力になれたのかもしれない。申し訳なさを覚えつつも、どうすることもできなくて歯痒かった。
一方で、「卒業するまでに一番になる」と豪語していたマーガレット。
期末考査では、実技教科の戦闘学基礎Ⅰは一位だったものの、他の科目は最高で十番止まりだった。
悔しがって地団駄を踏んでいたけれど、入学当初は四十番だったことを考えれば、大健闘だと思う。
僕が最も不安だった国営学基礎Ⅰは、採点者がメイ先生だったのでまったく問題なく、二番を取れた。
とはいえ、キュービット先生も最近は僕を睨まなくなっていた。
僕が七不思議に関わらず、大人しくしていたからだろうか。
このまま良好な関係を築ければ、僕の心労もひとつ減る。来年は、もっと伸び伸びと学校生活を送りたい。
そんな気持ちで、僕はついに今年度の最終日を迎えることになった。
最終日の十二月二十一日、紫曜日の午後。
寮のロビーに集められた僕たちは、サファー先生から連絡を受けた。
「今年の一年生は、ひとり退学者が出た以外は全員、基礎科目をすべて合格しました。みんな、頑張ったね! お疲れさま」
その後、ノギスさんから事務連絡が続く。
「これから終年祭が開かれます。午後三時から講堂、四時から図書館、六時から食堂でセレモニーがありますので、ご参集ください」
まず講堂では、卒業証書の授与が行われた。
卒業生は十四人。入学生は毎年四十人だから、卒業までに半数以下になってしまうということだ。
卒業生は四年生。
四年生といえば、ロイドさんの同級生にあたる。
——僕たちに七不思議を教えてくれたあの二人の姿は見当たらなかった。
レニーと同じように退学になったのだろうか?
誰も話題にすらしなかったので、結局謎のまま終わってしまった。
その後、図書館で行われたのは在校生向けの行事だった。
図書館には『知恵の樹』と呼ばれる大きな樹のオブジェがあるのだけど、今日はそこに色とりどりのリボンが吊るされている。
『知恵の実の授与』という儀式らしい。
一年を無事に終えた在校生たちへ、一人ひとりリボンが贈られた。
リボンにはピンがついていて、制服の胸に留めることができる。
「このリボンは、風見鶏の過程を一年修了した証です」
持っていると様々な場面で優遇してもらえるらしい。
平民の僕にも効果があるのかはわからないけれど、大切にしたほうが良さそうだ。
ふたつの儀式が終わり、最後のイベントが始まる。
食堂に全校生徒が集まり、パーティーが行われた。
入学のときと同じく、豪華な料理が並び、ブドウのジュースが振る舞われる。
学長の乾杯の宣言があり、花火がパンパンと打ち上がった。
キラキラと光が降り注ぎ、息を飲むほど綺麗な景色がしばらく続く。
花火が終わると立食形式になり、自由に席を立ってよくなる。
僕たちはいつもの三人で寄り合い、他愛もない話をした。
「ねぇ、フリック。さっきサーシャたちが話していたんだけど、七不思議の七つ目の“新作”があるんだって」
「新作? どんな不思議なの?」
「終年祭の知恵の樹には“願いを叶える力”が宿るらしくて、その下で告白したカップルは末永くうまくいくらしいわ……」
「なにそれ。すごくうさんくさい……」
「絶対、誰かがたった今考えたのよ。“願いを叶える”って言っておいて、叶う願いを『愛の告白』に限定するのはおかしいでしょ」
向こうのほうでサーシャが騒ぐ声が聞こえる。
「ニースが抜け駆けした!」と言っているので、たぶんニースとハーベストが二人で図書館へ出かけたのだろう。
「女の子って、ああいうの好きよね。——あれ? バートもいないわ。誰と抜け出したのかしら……」
辺りをキョロキョロと見回し始めるマーガレットを見て、僕とライズは思わず肩を竦めた。
なんだかんだでマーガレットも、こういう話が好きなんだな。
……「知恵の樹に集まるカップルを覗きに行く!」なんて言い出さなければいいけれど。
その後は先生たちに挨拶をして回ったり、新しく運ばれてきたデザートを味わったりして、終了時間の九時まで楽しい時間を過ごした。
本当に、あっという間の三時間だった。




