第六章(1)
季節は巡り、風見鶏はいつの間にか夏の半ばを迎えていた。
暦は七月、『紫紺の月』と呼ばれる。この月名は、一年の前半には「輝白」を基調とした色を付けられているけど、七月を境に「紫黒」を基調をした名称にガラッと変わる。
月の名前の由来については、良くわからない。別に夜空に浮かぶ月に色が付くわけでもない。帝国神教よりも前の神様の教えから来ているという噂もあるけど、この国にはすでにそのことを正確に記憶している人がほとんどいない。みんな慣習として、なんとなくその名前を唱えているという感じだ。
もしかしたら他国にはまだその神教を信仰している土地があり、教典が受け継がれているかもしれないけど、アスティリアでは既に失われてしまった知識なのだと思う。
ともかく、紫紺の月と呼ばれる七月。陰鬱な印象の月の名前とは違い、窓の外は眩しいくらいにスッキリと晴れ渡っている。
七月と言えば、この国では夏真っ盛り。故郷のマクシネルでは近くの湖で水遊びをする子供でごった返していたけど、ここベルフォートの夏は快適で、水あびをしたいと思うほど暑くはない。
それでも汗をかくほどには暑かったから、先月の中頃から夏服の半袖シャツに着替えた僕だけど、ライズは未だに長袖シャツを着ている。ずっと着ていた毛糸のベストは流石に脱いでいたけど、半袖を着る気は全くないようだ。
「暑くないの?」
そう尋ねてみたけど、彼は「暑くない」の一点張りだった。
同級生の女の子数人も長袖で過ごしていたので悪目立ちはしなかったけど、彼女たちのように日焼けを気にしているわけでもない彼がどうして長袖に拘るのかは謎だった。
そんな七月に入った最初の平日。いつものように授業終わりに友人ふたりと図書館に向かっていた僕の目に、とある光景が飛び込んできた。
「あれ、学長だ……」
僕が呟くと、ふたりも足を止めてそちらを見る。学長は図書館の脇の小道を、他の先生と一緒に歩いている。
「別に珍しくもないでしょ? わたしもたまに見かけるわよ」
「うん。だけど、久しぶりに見たから……」
僕はそう答えながら、とある物体に目が釘付けになっていた。
白い犬。背丈が学長の胸ほどもある、細長い犬。以前学長の部屋に呼ばれたときに見かけた面長の犬が、学長の隣を歩いている。
その犬は優雅な足取りで歩きながら、僕のほうに視線を向けていた。その緑色の瞳に、僕は既視感を覚えていた。
「あの犬、こっちを見ているわね。どうしてかしら……」
「どうでもいいでしょ。あっちの樹に鳥でもいるんじゃない?」
「そういえば、七不思議で『学長のペットが喋る』とかいうのがあったわね」
マーガレットの発言に、僕はギクリとした。あの犬ではないけど、確かに学長のペットの犬が喋っていたことを僕だけが知っている。
……あれ?
僕は自分の考えにわずかな引っ掛かりを覚えて、首を捻った。
"あの犬ではないけど"……? 僕が引っ掛かったのはそこだ。
……本当にあれは、"あの犬ではない"のだろうか。
僕が出会った喋る犬は言っていた。小さくて可愛い彼女は、『幻術を使って姿を変えている』と言っていた。
……もしかして、今現在も幻術は使われていて、あのようなスラリとした犬の姿に変身しているだけなんじゃないか?
僕がそう思ったのは、あの犬の持つ緑色の瞳が小さな犬と似ていたことと、あの犬がやたら僕に熱視線を送っていることからだった。
一度気になってしまうと駄目だった。僕はその後もずっとあの犬のことが気になり、講堂のてっぺんにまだ彼女が居座っているのかが気になってしまった。
確かめに行きたいと毎日をウズウズして過ごし、耐え難くなってしまった僕は、決意する。
見に行けばいいじゃないか。前と同じように、講堂のてっぺんに上って、見に行けばいいじゃないか。
大丈夫、大丈夫。不敬行為さえしなければ、大丈夫。
コリウス先生だって、大丈夫だと言っていたじゃないか。僕が七不思議に興味を持つのは、皆が望んでいることなんだから、大丈夫だ。
いつものようにコリウス先生の地獄の鍛練を受けた紫陽日、寮全体がひっそりと静まり返るこの晩に、ついに僕は二回目の校則違反に踏みきった。
あれほど頑なに、退学になりたくない、七不思議には関わりたくないと思っていたのが嘘のようだ。僕は何の躊躇いもなく寮を抜け出して、講堂に向けてひた走った。
相変わらず校則を破って遊び歩いている上級生は一定数いる。彼らも退学になってないんだから、校則違反を恐れるのは馬鹿げている。
パッと行って、パッと帰れば何の問題もない。何の問題もなく、日常に戻れるさ。
あっさりと到着した講堂の裏口から内部に忍び込み、階段を上り、バルコニーに出た後に六角塔の階段を上る。そこが真っ暗なことを覚えていたから、僕は部屋からろうそく灯を持ってきていた。被せていたカバーを取って、足元を照らしながら螺旋階段を上る。
ひとりだと、靴音がやけに大きく響くような気がする。今更ながら心臓が弾んできて、誰かに聞かれてやしないか不安になる。おっかなびっくり歩を進めた先に、階上から差し込む月明かりが見えてきた。
最上段にへばり付き、ゆっくりと階上に頭を出してみる。そこには、以前と違う光景が広がっていた。
大きな石像。頭が三つある犬を象ったもの。ロイドさんが言っていた通りのものがある。
大きいなぁ……。僕はあんぐり口を開けて、石像を見上げた。それは伏せのポーズをしていたけど、大きすぎるので三つの頭は鼻から上は良く見えない。立ち上がったら天井に頭をぶつけてしまうんじゃないか? とまで思える巨体だった。
僕は耳を澄ませてみる。また彼女が眠っているんじゃないかと期待したからだ。すると僕の期待通りに、スースーと規則正しい寝息が聞こえてくる。
「ねぇ」
僕は思い切って声をかけてみた。
「ねぇ、きみ。また眠っているのかい?」
「ふにゃっ?!」
猫がしっぽを踏まれたときのような声が聞こえる。石像の首が三つともぬるぬると動き、揃って僕のほうを見る。
「ふにゃっ……にゃあ」
緑色に怪しく光る六つの目が、僕を捉えた。猫のような声が萎むのと同時に、パキッと何かが砕ける音がする。何の音だろうと考える間もなく、蒸気のようなムワッとする香りの風に襲われ、僕は反射的に目を庇った。
「ようこそ、ようこそ、フリック、ようこそ!」
足元で、可愛らしい声がぐるぐると回っている。驚いて目を開けると、そこには小さな白い犬が嬉しそうに駆け回っていた。
前方に目を向けると、石像が忽然と消えている。
幻術を解いて、わざわざ本当の姿で僕を迎えてくれたと言うことかな? 彼女の熱烈な歓迎ぶりに、僕は感激してしまう。今日思い切って来てみて良かった、とこの時僕は安直にも思ったのだった。
「僕を待っていてくれてたの?」
「はい、待っていました、待っていました」
「どうして?」
「だって、アナタは遊びにきてくれたんですよね? ワタシと、ワタシと!」
えっと……。僕は口ごもる。別に君と遊びにきたつもりはないのだけど、そう勘違いされたところで特に問題があるわけでもない。
「う、うん。そうだよ……」
僕がそう返答すると、彼女はさらに喜びの声を上げぐるぐると周りを回った。
「やった! やった! わんわんわん!」
やがてはしゃぎ疲れた彼女は冷静になり、上がった息を整えながら僕を棺の部屋へ誘う。
「前回は、怖がらせてスミマセンでしたです」
「あ、うん。そうだね……ちょっと怖かったかな」
「まさか不敬行為が行われるとは思っていなかったですから、ワタシも慌てましたのですよ」
そうだったよね。僕が喚き続けるから、君はあわてふためいた挙げ句に僕に何かの術を使って眠らせた……。僕は部屋をぐるりと見渡しながら、一月前の事件を思い起こす。
発端は奥にあるあの棺だ。あそこに神子がいて、マーガレットに化けたロイドさんが短剣で刺そうとして、パツンと弾けるような音がして……。
生々しく思い出された人体のゼリーに眉をひそめながら、それがあったはずの場所を見やる。
「……?」
すっかり片付いたかのように見えたその現場には、何か奇妙な模様が残っていた。大理石の床にこびりついた黒い煤のような丸い形の汚れが、放射状にいくつも並んでいる。
月明かりだけでは良く見えなかったので、僕はろうそく灯を付き出してそれを観察した。
「どうしたのですか?」
「いや、この模様、前は無かったなと思って……」
よくよく見ると、花のようにも見える模様だ。キクの一種が、こんな感じの花びらをしているよなと思う。
この模様、どこかで見たことがあるような気もする。何処だったっけと考えていると、トコトコ歩いてきた犬がとぼけた声で言った。
「模様? どこですか? この辺りは掃除したので、すっかりきれいな床なのですよ?」
「え? ここの煤みたいな汚れのことだけど」
僕が指差したところを、フンフンと嗅ぎはじめる彼女。
「煤の臭いもしませんし、何もないのですよ」
……。僕は模様と犬を交互に見て、首を捻った。そういえば犬は嗅覚に優れる代わりに、視覚はあまり優れていないと聞いたことがある。この模様は犬には見えないタイプのものかもしれない。僕は何故だか、そのように納得してしまった。
「ところで君、名前は何て言うの?」
「自己紹介がまだでしたね。ワタシの名前はディクティス! 由緒正しきブルーアイテリアのレディなのです」
ブルーアイ……テリア? 聞いたこともない犬種に首を傾げる。ブルーというのは青を意味するはずだけど、彼女の目は緑色だ。良くわからないなと思いつつ、深くは気にしないことにする。
「ディクティスっていうんだ。カッコいい名前だね」
「そうでしょう。ワタシのオカアサンが付けてくれたのですよ」
「君のお母さんも人の言葉を喋れるの?」
「もちろんですよ。ワタシの弟も、妹も喋れるのですよ」
わあ。スゴいなぁ。僕の頭に、白くて可愛い犬の家族の姿が浮かんでくる。足元で彼らがわちゃわちゃと騒ぎ、やがてもみくちゃにされてしまう幸せな妄想をしながら僕はこう尋ねてみた。
「もしかして、いつも学長の隣にいる白くて背の高い犬は、君のお母さんかな」
「え?」
「背が高くて、耳が垂れていて、学長のヒゲみたいな長い白い毛をしている犬だよ」
「それはワタシですよ」
あっさりとそう認める彼女に、僕は面食らってしまった。
「えっと……それは、さっきみたいに幻術とかいうもので変身していたということ?」
「はい。霧隠れのフロウリーグロウに、映写のグロウリーイーニッドを被せたやつですよ。ワタシはそれを幻術と呼んでいます」
「そんなこと言われても、僕はまだ錬石の魔法を習っていないから……」
「アッ、そうなんですか! ゴメンナサイです」
彼女は"やってしまった"というように片目を閉じて、小さくウウと唸り声を上げる。
「まだ言っては駄目なのですね。ニンゲンの知る楽しみを奪ってはいけない……ゴメンナサイ、以後気を付けますです」
「いや、そんなことないよ。むしろ僕は君に色々教えてもらいたいと思っていて……」
「そうなのですか?」
僕は何度も首を縦に振ってアピールをし、この害のなさそうな情報源から情報を抜き出そうと必死に話題を振り続けた。




