第四章(3)
それは少年だった。年の頃はちょうど僕たち新入生くらいの、黒い髪をした男の子だった。
入っているのが棺だったから、遺体なのかと思っていたけど、その体はあまりにも新鮮で、とても亡くなっているようには思えない。
「これは……誰?」
僕の呟きに、マーガレットがぼそりと答える。
「神子だ。アスティリア建国の英雄だ」
「これが……神子」
しげしげと顔を眺める。固く目は閉じられており、まるで眠っているように見える。
建国の英雄と言われてもピンとこない。その顔はとても平凡で、どう見ても普通の男の子だ。同級生ですよと言われたほうがすぐに受け入れられるだろうとまで思う。
「遺体にしてはキレイだね……」
「死んでない。こいつは生きてる」
「えっ? そうなの?」
僕もしゃがんで棺の中を眺めてみると、わずかに呼吸していることが認識できた。
「でも、建国の英雄なんだよね? アスティリア建国って百年も前のことだよ」
生きているはずがないじゃないか。僕はそう言おうとしたけど、マーガレットがとても怖い顔をしているのに気が付いて口をつぐんだ。
「肖像画と一緒だ……。何一つ変わってない。百年前と全く一緒だ」
ブツブツと不気味に呟くマーガレット。その口調はいつものものと全然違う。さすがの僕も、おかしいと感じ始めた。
おかしい。今日のマーガレットはおかしい。
思えば初めからおかしかった気がする。だけど僕は今までその違和感と向き合おうとしなかった。
「マーガレット……?」
僕がそう声をかけると、彼女は目を見開いて僕を見た。そして、鬼気迫る表情でこう言った。
「こいつは化け物だ! 国をめちゃくちゃにした化け物だ! 今すぐ退治しなくちゃならない!」
……その後起こったことは、断片的にしか覚えていない。
突然背中を押されて前のめりになる。右手首を掴まれ痛みが走った。右手に何かを握らされたような感触がある。凄い力で右手を引かれ、真上に振り上げられる。
「異教の悪魔に神罰を!!」
耳元でそんな叫び声が聞こえた。なすがままにされていた僕は、そこでようやく抵抗を試みた。
踏ん張って、右手に力を入れる。
パツン。その時、破裂音が耳についた。次の瞬間僕は勢いよく後ろに倒れて、手の中から投げ出された何かがカラカラと音を立てて床に転げた。
固い床に思い切り腰をぶつけて、目の前に火花が散った。しばらくその痛みで何も考えられなかったけど、幸運にもすぐに立ち直ることができた。
一体何が起きた? 頭を振り、冷静になろうと努める。何が起きた? マーガレットは大丈夫だろうか。
僕は恐る恐る振り返る。マーガレットは何かに操られでもしていたのだろうか? 明らかに普通ではなかった。危機はまだ去っていないかもしれない。油断しないようにしないと……。
そこで僕は、名状しがたい光景を目にする。
とても現実のものとは思えず、全身から針が付き出したかのような悪寒にさらされた。
「ま、マーガレット……?」
カラカラの喉から、なんとか声が出た。僕はすっかり抜けてしまった腰を引きずるようにして、その物体に少しだけ近付いた。
僕が振り返った先。僕の後ろの床に転がっていたのは、人間大ほどもある巨大なゼリーだった。
赤や茶色、黒いマーブル模様をした、親指ほどの大きさの立方体のゼリーが、いくつか連なった状態で床にぶちまけられている。
何だろう、これは。一瞬そう考えたけど、僕はすぐに気が付いてしまった。
それが人体を模していることに。
一部に金色のゼリーが固まっていて、眼球を思わせる空色のゼリーが点々と落ちている。それは変わり果ててしまっていたけど、紛れもなくマーガレットの頭だった。
「わあああああああああ!!」
僕は叫んだ。喉がはち切れんほど全力で叫んだ。
「マーガレット! マーガレット!!」
僕は何を思ったか、ゼリーに駆け寄ってそれを掴もうとした。
掴めない。そこにあるみずみずしい物体は、僕の手をスルリとすり抜けてしまう。僕は固い床をペチペチと、何度も叩いた。何度も、何度も。
「わああああああ!!」
「落ち着いてください!」
騒ぎを聞き付けた誰かが、僕のそばでそう言った。
「大丈夫ですから、落ち着いてください!」
一体何が大丈夫だというのか。これはマーガレットだ。マーガレットの成れの果てだ。
ヒトが一瞬にして、ゼリーに変わってしまったんだぞ? すぐに元に戻るとでも言いたいのだろうか?
僕はピクリともしないゼリーを見て、やっぱり悲鳴をあげた。意味がわからない。一体何が起こったんだ? 大丈夫というなら、この状況について早く説明をしてくれ!
僕は声の主を見た。それはさっきまで僕が話をしていた犬で、クルクルと回りながらワンワン吠えていた。
「静かにしてください。お願いですから、静かにしてください!」
「何なんだよ! まさか君がやったのか? マーガレットを元に戻してくれよ!」
「戻せません! ワタシがやったんじゃありません! とにかく静かにしてください!」
「戻せないってどういうことだよ! 誰がこんなことをしたんだよ!」
「神子に危害を加えようとしなければ、なにも起こりません。なにも! 起こりません!」
神子? 僕は断片的な記憶を呼び起こそうとした。僕はマーガレットに何をされた? 部屋を見渡すと、壁際に転がっている物体に気が付いた。
遠目にも、それが短剣であることがわかる。まさかマーガレットは僕に短剣を握らせて、僕の手を使って神子を殺そうとしたのか?
そして、ゼリーになった。マーガレットだけゼリーになった。
「ど、どうして彼女だけ……ゼリーになったの」
「それは、その人物が神子を害そうとしたからです」
「どうして僕は……ゼリーにならなかったの?」
「神子を害そうとしなかったからです」
でも短剣を握っていたのは僕だ。なぜ僕は助かって、マーガレットはゼリーになったのか。
「神子を害そうとしたかしていないかは、神にはわかってしまうのです。そういうものなのですよ……」
神? 何を言い出すんだこの犬は。僕は再び悪寒に襲われて、金切り声を上げた。
「神って何だよ! 神子って何者だよ!」
「だから、落ち着いてください。静かにして……」
「落ち着いていられるわけがないだろ!」
人間が一瞬にしてゼリーになったんだぞ! そんなの今まで聞いたことがない。ゼリーになった人間はどうなるんだ? 死んでしまうのか? もう死んでいるのか? わからない、わからない……。
「……うう…………仕方ないです……」
あまりにも僕が喚くものだから、犬は弱り果てたようにそう呟く。
程なくして、パキッと音が聞こえた。何かを砕くような音だ。ツンとした刺激臭が鼻を突き、僕の目の前がぐるりと回る。
何が起きた? 僕もゼリーになってしまったのだろうか。
成すすべなく、パタリと倒れ伏す僕の体。
視界の端に緑色の瞳が写り込んだところで、僕の意識はいともあっさりと闇に落ちていく。
意識を取り戻した僕の目が、最初に捉えたのは白い天井だった。
あれ……? ここはどこだろう。寮の部屋じゃない。
どうやらベッドに寝かされているようで、少し固いマットレスが、実家のものと似ていると感じる。
いつの間にか実家に帰ってきたのだろうか。僕はボンヤリとそう思ったけど、こんなにもまっ白な天井には見覚えがない。
ゆっくりと身を起こすと、側いた誰かが僕に話し掛けてきた。
「具合はどうですか? フリックさん」
「あ……えっと、ノギスさん……?」
そこにいたのは、寮母のノギスさんだった。スラリとした体型の長身の女の人で、先ほど見た小さな女の子ではなく、いつもの大人なノギスさんだった。
先ほど? 先ほどって、いつの話だ。僕はズキリと痛む頭を抱える。確か僕は、マーガレットと一緒に神の子の棺を探しに行き、そこでとんでもないことが起こって、それで……。
「ノギスさん! マーガレットは? マーガレットは無事ですか?」
取り乱す僕に、彼女は薄く微笑みかける。
「大丈夫ですよ。マーガレット・アレクサンドラさんは、なんともありません」
「ほ、本当に?」
「はい。本当です」
良かった……。
きっと夢だったんだ。悪い夢を見ていたんだ。どこからが夢なのかわからないけど、ただの夢だった……。
僕は段々と冷静さを取り戻し、辺りの様子に気を向けるまでに余裕ができた。
「ここは……どこですか?」
僕がそう問い掛けると、ノギスさんは困ったように薄く笑う。
「ここは、反省室です。あなたは今、反省室に閉じ込められています」
「反省室……?」
何だそれ。聞いたことがない……。だけど少なくとも、ここは学校の中であることはわかる。僕は実家に戻されたわけではない。
「今、先生方があなたの処分について議論しています」
「処分……?」
僕の心がざわざわする。処分って何? 僕は何か悪いことをしたの……?
「あの。処分ってどういう……」
問い掛けようとしたタイミングで、ノギスさんはスカートをつまみ会釈をした。薄く笑って、このようなことを言う。
「フリックさんが目を覚ましたことを伝えて参ります。すぐに迎えがやってくるでしょう」
少々お待ちくださいませ。そう囁いて、彼女は部屋を出ていった。
ガチャリと鍵がかかる音がする。部屋の扉は、窓の部分に格子がついた殺風景な木扉だった。
寮や講堂には鍵をかけないのに、ここには鍵をかけるのか。
僕はしばらく身動きがとれず、ベッドの中でボンヤリとしていた。
ノギスさんの言う通り、迎えはすぐにやってきた。ガチャガチャと鍵を開けて、賑やかに入ってきたのはサファー先生だった。
「フリックくん! 目が覚めて良かったよ~!」
彼女はそう言って、僕に抱きついてきた。そして体調を気遣う言葉を捲し立てながら、僕が置かれた状況について少しずつ語ってくれた。
「あのね、フリックくん。きみは丸一日眠っていたのよ。講堂のてっぺんの部屋に倒れていたの。どうしてあんなところに行ったのか、覚えている?」
「え、えっと……」
「いいのいいの。今は答えなくて。ちょっとだけね、問題になってて……。今から先生方に説明する会をね、やらないといけないんだけど、行けそうかな?」
「説明する会……?」
一体何を説明させられるんだろう。不安で縮こまった僕の両肩を、サファー先生はニコニコしながら抱えた。
「大丈夫だよ。聞かれた通り、答えればいいの。あなたが覚えていることを、覚えているまま話せばいいだけだから!」




