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お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第六章 峠

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第55話 峠(一)



◆ セラ




 百合が、開いた。


 九日目の、夜明けだった。丸窓の外で、峠の稜線が、灰色から薄い桃色に変わりはじめている。


 祭壇の脇。親指ほどの蕾が萼を押し開けて、白いものを外へ倒していく。まだ開ききってはいない。それでも朝の光を透かして、雪より白かった。


 私は、その前に膝をつく。


 丸窓から入る薄い光が、花の上に落ちている。緑の葉と、白い花。


 祭壇の上には、夜の紙が、そのまま置いてある。誰も、返事を書かなかった。


「神さま。咲きました」

『うむ』

「今日、なんですね」

『……今日じゃ』


 いつもの声。いつもの静けさ。


 その静けさの底に、ずっと前から、この朝を待っていた気配がある。


 扉が、開く。


 閣下だ。外套は、ない。黒い上着だけ。腰には、壁から下ろした古い剣。足元にグラウ。


 鞘の口が、白く錆びていた。三年前の峠のあと、壁に掛けたままだったのだと、それだけで分かる。


 錆びた鞘は、恥ではない、と思った。三年、抜かずに済んだしるしだ。


 閣下は百合を見て、それから私を見る。


「咲いたか」

「はい」

「……一本か」

「はい。まだ」


 それきり、花の話はしない。私の隣の長椅子に、腰を下ろす。


「言っておくことがある」


 七つの村は空だ、と閣下は言った。けれど竈には火が入っている。三日前の夜、炭焼きの男たちが壺に熾火を入れて、全部の家に戻したのだと。


「それから、パンだ。マルタとアンナと村の女たちが、九日、竈三つで焼き続けた。凍らせて、蔵に積んでおいた。荷車で四台」


 閣下の目は、百合から離れない。


「昨日の夕方から、夜のうちに、村の竈のそばの卓に並べてきた。最後の一台には、マルタが夜明け前に焼きあげたばかりのを積んだ」

「敵に」

「敵に」

『昔な、攻めてきた軍に、パンと水を出して、主君のもとへ帰らせた男がおった』


 神さまの声が、耳のそばで、静かに笑う。


『それきり、その軍は、二度と来なんだ』


 閣下が、花弁を指先でそっと持ち上げる。手袋の革が白い花に触れて、離れる。


「帝国の兵は吹雪で四十死んだ。薪は湿り、糧は尽きかけている。あの軍団は村を焼きに来る。焼く前に、パンと火を見つける」


 その目が、私を見る。


「九年前、私はあの村に、間に合わなかった。今度は、先に行っておいた」


 何も言えない。


 言えなかったから、その手を両手で握った。革の、冷たい手。革の下は温かい。それを知っているのは、この城で私だけだ。


 閣下が、握り返す。長く。


「閣下。私も、峠へ行きます」

「駄目だ」

「兄が、来ています」


 閣下が、黙る。


「王家の軍の総大将として。帳面に兄の名を書きました。二百十四人目です。帳面に書いた人の隣に、私は、いなければなりません」


 丸窓の光が、少しずつ、明るくなっていく。


 それから閣下は、夜に私の肩へ残していった外套の襟を、両手で、合わせ直した。


「持っていけ」


 重い。布の中に、まだ、夜の体温が残っている。


 閣下の目が、一瞬だけ、私の足もとに落ちた。つま先の縫い目が、少し口を開けている靴。


 何も言わずに、目が戻ってくる。


「ギルバートの後ろにいろ。前に出るな」

「はい」


 閣下の手が、一度だけ、私の頭の上に置かれた。


 大きくて、重くて、すぐに離れる。髪が、少しだけ乱れた。


「――セラフィーナ」

「はい」


 閣下が、私の頬に手を当てる。手袋を外した、素手で。


「帰ってきたら、お前に訊きたいことがある。それまで、死ぬな」

「閣下も」

「私は、死なない」

「約束です」

「ああ」


 立ち上がった閣下は、黒い上着一枚。


 峠の風は、これから強くなる。


 扉へ向かうその背中に、百合の香りが、ふっと濃くなった。


『セラや。あの子に、言うてやれ』


 神さまの声が、すぐ耳のそばで聞こえる。


『わしの言葉じゃ。お主の口で、渡してやれ』

「閣下」


 少しだけ押し開けた扉の取っ手に手をかけたまま、閣下が、振り返る。外の冷たい空気が、細い隙間から入ってくる。


「神さまが、閣下に、お言葉を」


 一瞬。冬の湖の色の目が、まっすぐに私を見た。


 閣下は、取っ手から、手を離した。


 戻ってくる。長靴の踵が、石の床を打つ。こつ。こつ。礼拝堂の高い天井へ、その音だけが、ゆっくりと昇っていく。腰の剣の鞘が、一歩ごとに腿に触れて、かすかに鳴る。


 祭壇の前。私の前で、足が止まる。


 閣下は、剣の柄に手を添えた。鞘の先が床を打たないように、わずかに引き寄せる。三年、壁に掛かっていた剣を、慣れた手つきで。


 そして、片膝をついた。


 膝が、石に降りる。こつん、と、低い音がひとつ。それきり、礼拝堂が、しんと静まる。


 そのとき、峠の稜線の向こうから、陽が昇った。


 丸窓の鳩の形が、初めて、くっきりと床に落ちる。ちょうど、閣下が膝をついた、その場所に。白い光が、膝を照らし、肩を包んでいく。


 あの冬、門の内側で、この人が待ちつづけた夜明けだった。今朝は、この人の膝の上に来た。


 こめかみに落ちた銀灰色の髪が一筋、光の中で、白く透ける。


 扉の脇で、グラウが首を上げたまま、息をひそめている。


 北に来てから、ずっと見上げてきた人を、私は、初めて、見下ろしている。


 黒い上着の肩が、私の目の下にある。見上げてくる目が、近い。


「お前の神の言葉なら、立ったまま聞くわけにはいかない」


 低い声。吐息が、白く、ほどけて消える。


 心臓が、うるさい。


 手が、勝手に動いた。閣下の肩に、そっと置く。黒い布越しに、硬い肩の温度が、手のひらに伝わってくる。


 言葉が、胸の奥から、そのまま上がってくる。私の知らない、古い言い回しなのに、口にする前から、知っている気がする。


「――ヴィルフリート・フォン・アイゼンベルク」


 私の声だった。けれど、私ひとりの声ではなかった。


 胸の底の、もっと深いところから、温かいものが一緒に上がってきて、私の声を、内側から満たしている。訛りは、ひとつもない。言葉が出るたびに、百合の香りが、ふわりと立つ。


「汝に、わが正義を、胸当てとして与える。わが救いを、兜として与える」


 小さな私の声のはずなのに、高い天井の隅々まで、まっすぐに届いていく。礼拝堂の石が、それを、ひとつずつ返す。


「汝が立つは、竈と、パンと、この城のひとりひとりの名のため。剣を抜くも、抜かぬも、汝の手に任せる」


 丸窓の鳩の光が、強くなる。閣下の銀灰色の髪の上で、白く、燃えるように。


「汝は、ひとりで峠に立つのではない。――われ、汝の隣に、坐す」


 最後の一言が、礼拝堂の石に、静かに沈んでいく。


 胸の奥の温かさが、すうっと引いていった。私の声だけが、残る。


 言い終えても、閣下は、動かない。


 祭壇の脇で、百合の花弁が一枚、光の中で、ほどける。音もなく。


 それから、肩に置いた私の手を、取った。


 閣下の指が、私の指を、下から、そっと掬う。


 引こうとした指を、閣下は、離さなかった。


 唇が、指先に、触れた。


 ほんの一瞬。雪のひとひらが載るくらいの、軽さで。


「……確かに、賜った」


 閣下が、立ち上がる。剣の鞘が、かすかに鳴る。


 胸に手を当てる。剣の柄ではなく、上着の、心臓の上に。


 それから、背を向けた。


 こつ。こつ。来たときと同じ足音が、扉のほうへ遠ざかっていく。胸の手は、下ろさないまま。


 扉が開く。朝の冷たい風が、一度だけ、礼拝堂を吹き抜けた。蝋燭の火が倒れかけて、また立つ。百合が、揺れる。


 扉が、閉まった。


 私は、触れられた指先を、もう片方の手で、そっと包む。


 原作の最後の挿絵が、目の裏に浮かぶ。紅く染まった外套。誰もいない峠。


 その外套は、今朝、私の肩にある。


 朝の光の中で、百合がもう一枚、花弁を開く。


(神さま。あの人、胸当ても、兜も、つけていません)

『つけておる。鉄ではないがのう』

(……外套も、ありません)

『お主の言う、あったか神力ストーブ、か。とうに貸しておる。今朝は、いちばん強うしてな』


 思わず、笑ってしまった。泣きそうだったのに。


 私は閣下の外套の襟を、胸の前で握る。




◆ パヴェル




 霜降り村には、煙が立っていた。


 夜明けの雪原は、青い。その青の中から、細い灰色の煙が、まっすぐに空へのぼっている。風のない朝だった。


「――焼いたのか? 先に誰かが」


 軍団長が馬上で眉を寄せる。


 違う。煙は家々の煙突から立っている。炭焼きの細い灰色の煙。四本、五本、六本。


 パヴェルは金の像を担いだまま、村の入口で足を止める。


 像は重い。右手の折れた指は絹で包んで、侯爵が懐にしまっている。金の下の白い木のことは、あれから誰も口にしない。口にしないということは、全員が見たということだ。


「人がいるぞ」

「いや、いない。戸が開いてる」


 先鋒の兵が、手前の小屋に槍を構えて入っていく。


 出てこない。


「おい! どうした!」


 軍団長が怒鳴る。返事はない。代わりに兵の一人が戸口に顔だけ出して、ひどく困った顔で言った。


「軍団長。パンが」

「パン?」

「卓の上に、パンが。焼きたてで。それから、竈に、火が」


 パヴェルは像を雪の上に下ろす。


 侯爵が何か喚いている。聞こえない。小屋の戸口へ歩く。


 暖かい。


 竈に熾火がある。誰かが夜のうちに壺から移したような、丁寧な火だ。その上に薪が三本。細いのを下に、太いのを上に。


 卓の上に黒パンが六つ。麻布に包まれて。麻布には炭で何か書いてある。


 字だ。パヴェルには、読めない。東の外れの村で、字を習った者は、ひとりもいなかった。隣でミハルが、かすれた声で言った。


「俺、商人の荷運びをしてたとき、少しだけ、字を覚えた。……これは、『塩は、足りていますか』って書いてある」

「……もう一回」

「塩は、足りていますか」


 パヴェルは、口の中で、同じ言葉を転がす。三年、誰にも訊かれなかった言葉だった。


 パヴェルはパンをひとつ、手に取る。


 まだ、少しだけ温かい。


 膝が、勝手に折れた。


 理由は、分からない。ただ竈の前で、膝が、折れた。


 竈の脇に、小さな腰掛けがひとつ。子どもの背丈の。


 煤で黒くなった縁に、小さな指の跡が、いくつか残っている。誰の指かは、分からない。ずいぶん古い跡だ。


 パヴェルが思い出していたのは、東の外れの、自分の村の竈だった。年貢の代わりに家を出た朝。母が最後に焼いてくれた黒パンの匂い。母は泣かなかった。泣かずにパンを焼いて、「道中で食べな」と言った。


 それから、もうひとつ。「塩の入ったパンを分けてくれた家には、何があっても、手を出すんじゃないよ」。村の、いちばん古い言いつけだった。


 それから、北の城の厨房の窓で、鳥に麦をやっていた娘の顔を。


「侯爵さま」


 パヴェルは戸口の外の、紫の毛皮に向かって言う。


「この家は、焼けません」

「――何だと」

「パンを置いてくれた家は、焼けません」


 侯爵の顔が真っ赤になる。


「貴様! 皇帝陛下の勅使に――」

「侯爵」


 軍団長の太い声が、それを遮った。


 軍団長は馬から降りて、二つ目の小屋の戸口から、パンをひとつ手に持って出てくる。


「俺の兵は三千だ。吹雪で四十死んだ。この九日、粥を薄めて、薄めて、もう水と変わらん」


 パンを、ひと口、齧る。


 噛む。もう一度、噛む。


「塩が、効いてる」


 そして、村の奥を見る。七本の煙。その向こうの白い峠。その上の、黒い城。


「その兵に、今、焼きたてのパンと火のある家を焼け、と命じてみろ。三千人が、一斉に俺を見るぞ」

「し、しかし、皇帝陛下の――」

「皇帝陛下は、帝都の暖炉の前にいる」


 軍団長はパンを齧りながら鼻を鳴らした。


「――氷竜、か。敵の兵にパンを焼く男が、冷酷であるものか」


 だが軍団長は、それ以上、何も言わなかった。


 撤退、とも。進め、とも。


 パンを齧りながら、黒い城を、見ているだけだった。


 パヴェルは竈の前に膝をついたまま、麻布の炭の文字を指でなぞる。


 自分には読めない字だ。けれど書いた人の手が、どんな手か、分かる気がした。麦を一粒ずつ拾う手だ。


 その手の持ち主が、あの峠の上にいる。


 三千の槍の、先に。




◆ ギルバート




 九年間、私には、神がいた。


 そのことに気づいたのは、礼拝堂の祭壇の前で閣下が額を床につけているのを、扉の隙間から見た夜だった。


 私の神は、閣下。


 十六の冬、閣下が掟を破って薪を背負ったとき、私はその後ろで大麦の袋を抱えていた。あのとき決めたのだ。この人のためなら何でもする。この人を傷つける者は笑顔で殺す。この人の言葉は、私の掟。


 忠誠だと思っていた。


 けれどあの夜、閣下は、私の知らないものの前に膝をついた。


 私は、扉の外で、ただ立ちつくす。どこに立てばいいのか、分からないまま。


 私の神が膝をついている。私は、誰の後ろに立てばいい。


 もうひとつ、認めなければならないことがある。


 私はあの王女に、何度も、言いかけてはやめた。


 言いかけたのは、たぶんこういうことだ。


――貴女が来てから、私の主君は、生きている顔をするようになった。


――そして私はそのことで貴女に感謝しているのか、別の何かを感じているのか、自分で分からない。


 分からないものを、私は口にしない。そう生きてきた。


 だから、言わなかった。


 そして、今朝。


 夜明けの礼拝堂で、扉の隙間から、見てしまった。閣下が、あの王女の前に、片膝をついているのを。


 聞こえてきたのは、王女の声だった。けれど、王女ひとりの声ではなかった。訛りのない、古い言葉。あの細い声が、礼拝堂の天井の隅々まで、まっすぐに満ちていく。


 私は、頭の中の帳簿を、閉じていた。九年で、初めて。


 扉が開く前に、柱の陰へ下がった。閣下は、冷たい風と一緒に出てきて、私の前を通り過ぎていく。その手は、胸の、心臓の上に置かれたままだった。


 昨夜の紙が欲しがっていたのは、峠と、あの王女だ。


 閣下は今日、敵のほうだけを向いて立つ。あの方の隣には、もう、別の方がおられる。


 ならば、私が立つのは、あの王女の前だ。


「――ギルバート」


 城門の内側で、閣下が私を呼んだ。風が、凍った雪を巻き上げる。馬の吐く息が白く千切れて、鉄と、凍った革の匂いがした。


「今日は、私の後ろに立つな。セラの前に立て。私に何かあれば、私ではなく、セラを守れ」

「それは、閣下の掟に反します」


 言ってから、可笑しくなった。その掟なら、ついさっき、私が自分で破ったばかりだ。


「掟は、私が作った」


 閣下が、少しだけ笑う。


「――だから、私が変える」


 私は眼鏡を外して、拭く。レンズは、汚れていない。


「なぜ、私なのですか。オットーでも、ルッツでもなく」

「お前が、ずっと私の背中を見てきたからだ。今日は、お前が背中を見せる側に立て」


 この人は今朝、私の神であることを、自分から降りようとしている。


 自分が膝をついた方がいるのに、私に膝をつかせたままでは、いられないのだ。


 閣下は、それだけ言って、馬に乗る。


 城門の内側に、兵が並んでいる。百人ほど。炭焼きや猟師の息子たちだ。


 閣下は、何も言わない。馬上から、ひとりずつ、顔を見るだけだ。


 最初に、ディルクが一歩、前に出た。


「ディルク。東の、三つ目の矢狭間」


 名乗って、城壁の階段へ走っていく。


「カール。北の門」

「ルッツ。西の櫓。腕は、治りました」

「オットー。熾火の壺」

「ゲルハルト。城壁。……石は、ちゃんと抱えてます」


 どこかで、小さな笑いが漏れる。


 名乗っては、持ち場へ走っていく。九日前、閣下が王女の帳面から呼んだ名を、今朝は、一人ひとりが、自分の口で返していく。


 そこから、名乗りは速くなった。


「ヨハン、クラウス、ゲオルク、ディーター、ローレンツ。南の櫓、五人」

「ヴィリー、フランツ、マティアス。矢の運び手、三人」


 名を言い終えた者から、雪を蹴って走っていく。鐘ひとつ打つあいだに、城門の内側が、空いていく。


 私は、帳簿を持っていない。けれど、頭の中の帳簿に、一人ずつ書き入れていく。……百一。百二。


 百三人目。最後に、トビアスが、真っ赤な顔で叫んだ。


「トビアス! 十五です! 聖女さまが治してくれた手で、矢を運びます!」


 それで、全員だった。


 残っているのは、私だけ。


 眼鏡を、押し上げる。名乗る必要のなかった名だ。閣下の後ろに立つ者に、名は要らなかった。


 それでも、名乗った。


「ギルバート。王女殿下の、前」


 閣下が、馬上から、私を見る。ほんの一瞬。それから、前を向く。


 閣下が、初めて、口を開いた。


「行け」


 それだけで、十分だった。


 閣下は、外套を着ていない。黒い上着の背中が、峠の風に、薄い。


 私は、確かめる。腰の剣、一本。矢筒、なし。盾、なし。閣下の外套、王女の肩。


 あの冬から、私の帳簿は、ひとつも足りたことがない。今日も足りない。


 眼鏡を掛け直す。


 そして私は初めて閣下の背中から目を離して、セラ王女の前に立った。


 彼女は閣下の外套の襟を両手で握りしめている。私を見て、少しだけ笑う。


「ギルバートさま。レンズ、減りませんか」

「――減りません」


 答えてから、言い直す。


「今日は一度も拭いておりませんので。いえ。三度、拭きました。記録しておりました」

「記録していらしたんですか」

「私は何でも記録します。閣下の膏薬の残りも。貴女があの方の名を呼びかけて、やめた回数も」

「え」

「行きましょう。私の後ろから、離れないでください」


 私は前を向く。


 そうすれば、この人の顔を見ずに済むからだ。


 前には、閣下の背中しかない。


 ずっと見てきた背中を、今日も、前に見ている。


 けれど今日は、私の背中にも、守る人がいる。




◆ 軍団長




 俺は、四十を、並べた。


 昨夜。天幕の外。凍った兵を、雪から掘り出して、並べる。一人ずつ。顔は、半分ほど見覚えがあった。名は、ほとんど知らなかった。三千の兵の名を全部覚えている軍団長など、帝国にはいない。俺も、例外ではない。


 だが、頭数だけは、勘定した。


 四十。


 その隣に、金の像が横たわっていた。毛皮を、また三枚巻かれて。侯爵の命令だ。「皇帝陛下の御尊像を、凍えさせるな」と。


 像は木だ。指が折れて、皆が見た。


 木なら、燃える。


 俺は、その夜、それを考えた。子どもほどの像ひとつ、燃やしたところで、焚き火ひとつ分だ。それでも、凍えかけた何人かは、朝まで持った。侯爵の毛皮三枚で、あと十人。


 考えて、やめた。燃やせば、俺の首が飛ぶ。三千の兵は、首のない軍団長の後ろを、帝都まで歩けない。


 燃やせない木。


 俺が三年、毎朝、頭を下げてきたのは、それだ。


 山で伐った同じ一本の木で、半分は竈にくべて飯を炊き、残りの半分を削って金を貼り、その前に膝をつく。子どもが聞いても笑う話だ。三千の大人が、それを三年やった。俺が、やらせた。


 あの像ひとつに、担ぐ者が一人、毛皮の番が二人、天幕の見張りが四人。七人いる。七人が薪を担げば、四十は死ななかったかもしれん。それも、弾いた。弾いて、誰にも言わなかった。


 それが、俺の仕事だ。


 夜明け前、紫の袖の若者が、像の隣で、膝を抱えていた。


「軍団長」

「なんだ」

「像の顔に、雪が」


 見る。皇帝の顔に、雪が積もっている。誰も拭いていない。三千人、誰一人。


「拭くか」

「……いいえ」


 若者は、拭かない。俺も、拭かない。


 若者は、像ではなく、並べた四十のほうを見ていた。


「軍団長。端から三つめは、ヤンです。俺と同じ村の」

「……そうか」

「その隣が、トマシュ。その隣は、知りません」


 端から三つめを、見る。雪をかぶった、若い顔だ。


「ヤン」


 口に出すと、白い息になって、消える。


「トマシュ」


 四十のうち、名がついたのは、二つだけだった。


 拭かない、ということが、この軍の中で、もう何かを決めていた。


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