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お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第六章 峠

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第53話 挿話 九日(三)



◆ セラ




 八日目の、夜明け前。


 まだ薄暗い厨房で、竈の火だけが赤い。舞い上がる粉が、その火の色に、ちらちらと光っている。


 パンは、二千五百を、越えていた。


 厨房の床に、ルーカスが座っている。霜降り村の子。九つ。麦の袋の隣で、木の枝を削っていた。


「お姫さん」

「はい」

「みんな、死ぬの」


 竈の音が、一瞬、遠くなった。


 私の喉の奥にも、同じ問いが、ずっと、しまってある。


 アンナさんの手が止まる。マルタさんの手は、止まらない。グレーテさんが、石を布に包む手を、止めた。


 私は、ルーカスの隣に、しゃがみこむ。


 帳面を、開く。


「ルーカス。この帳面に、何人、書いてあると思いますか」

「……わからない」

「二百十六人です」


 私は、指で、名前をなぞる。ルーカスの小さな指が、炭の字のあとを、ついてくる。


「マルタさん。アンナさん。オットーさん。ルッツさん。カールさん。ディルクさん。ヨーゼフさん。グレーテさん。ゲルハルトさん。リーゼルさん。閣下。ギルバートさま。……あなたも。六十二人目」

「おれ、六十二?」

「霜降り村の朝に、書きました。あなたが、麦の袋を、運んでくれた日に」


 ルーカスは、帳面を見ている。


「この名前は、ひとつも、消えません。私が消さないからではなくて、神さまが、ひとつも忘れないからです」

「死んでも?」

「死んでも」


 竈の火が、ぱちりとはぜる。ルーカスは、木の枝を握ったまま、帳面を見ている。


 それから、削っていた木の枝を、私に、差し出す。小さな指に、細い切り傷が、いくつもついていた。


 小鳥だった。片方の翼が大きくて、首が少し曲がっている。けれど、くちばしの先だけは、丁寧に、丸く削ってあった。


「リーネねえちゃんのやつ。おれ、見たことないけど。母ちゃんが、話してた。だから、作った」


 リーネ。


 九年前の冬、あの小屋で、ルーカスは生まれたばかりだった。アンナさんの胸に抱かれて、閣下の組んだ火のそばで、助かった赤ちゃん。


 顔も知らない姉の小鳥を、この子は、母さんの話だけで、彫った。


 私は、それを、両手で受け取る。


 喉の奥が、痛い。


 小鳥を持ったまま、ルーカスを抱き寄せた。木屑と、粉の匂いがする。小さな肩が、腕の中で、一度だけ、こわばって、ほどけた。


「……帳面の、隣に置きます」

「うん」


 竈の音が、戻ってくる。


 アンナさんが、鼻をすする。マルタさんが「粉が舞うから、泣くなら外で泣きな」と怒鳴る。グレーテさんが、石を包み終えて、階段へ走った。走りながら、袖で、顔を拭いていた。


 ルーカスは、また、木を削り始める。


「お姫さん」

「はい」

「あと、何人、書くの」

「全員」


 私は、言う。


「峠の向こうの人も、いつか、全員」


 ルーカスは、木を削りながら、「いっぱいだね」と言う。


 いっぱいだ。


 でも、神さまの帳面は、私のより、ずっと大きい。




◆ ギルバート




 八日目の夜、私は、種麦の樽の前に立っていた。


 穀物庫は、城でいちばん寒い場所だ。吐く息が、燭台の光の中で、白く固まって見えた。


 蓋に、釘。私が打った。閣下にも開けさせるな、と言われて。


 その釘の頭を、指で、なぞった。


 パンは、二千八百。あと四百。樽は、三つ、空いた。予定どおり。種麦には、触れていない。


 塩は、今日、麻袋で三つ増えた。これは、予定になかった。


 数は、合っている。


 合っているのに、私は、この釘の前で、動けなかった。


 三千五百が登ってくれば、この樽は、要らなくなる。閣下はそう言った。私は書かなかった。書かなかったが、頭には、残る。


 この城で、剣を佩く家に生まれたのは、私だけだ。閣下が蓄えを村に分けたあの冬、ほかの家の者は、皆、王都へ去った。


 私は、残った。


 その理由を、帳簿に書いたことは、一度もない。


 腰の剣を、抜く。


 燭台の光に、刃をかざした。九年、帳簿の机の横に立てかけてきた剣だ。曇りは、ひとつもない。


 数字と同じだ。使わない日にも、手入れは欠かさない。


 鞘に戻す。音は、立てなかった。


 足音。


「――ギルバートさま」


 あの娘だった。


 膏薬の匂いがした。閣下の匂いだ。


「何を、なさっているのですか」

「釘を、確かめていました」

「釘を」

「四本です。本数に間違いがないか、見ておりました」


 娘は、樽の隣に、しゃがむ。


 私は、立ったままだった。


「ギルバートさま。ひとつ、伺っていいですか」

「業務のことなら」

「業務です」


 娘は、樽を見ている。


「峠から、帰ってきたら。ギルバートさまは、薪の帳簿を、また、つけますか」


 私は、答えを、探す。


 業務上の答えを。


「……つけます」

「よかった」


 娘は、少し迷ってから、もうひとつ訊いた。


「明日、ギルバートさまは、どこに立たれるんですか」

「閣下の、後ろに」


 答えは、探さなくても出た。


「峠は、横に六人しか登れません。閣下の前に立つ者は、要りません。あの方は、前に立たせてくださらないので。ですから、後ろに一人。閣下が振り返らずに済むように」

「……ずっと、そうしてこられたんですね」

「業務です」


 娘は、樽の蓋の釘を、ひとつ、指で触る。


「帳簿が、あると、この城は、大丈夫な気がします。ギルバートさまが、確かめていてくださると」


 私は、口を、開けた。


 閉じた。


 娘は、気づいていないようだ。私も、気づかなかったことにした。


「行きましょう。閣下が、厨房で、パンをこねています」

「――閣下が」

「アンナさんに、『手が余っているなら、こねな』と言われたそうです」


 私は、眼鏡を外して、拭く。


 レンズは、汚れていない。


 閣下が、パンをこねている。私の帳簿に、その欄はない。


 欄を、作るべきかどうか、明日、考える。




◆ セラ




 八日目の、夜更け。


 厨房の竈の前に、閣下が座っていた。


 粉だらけの手。上着の袖をまくっている。左手の甲に、あかぎれが、一本、走っていた。銀灰色の前髪にも、睫毛にまで、粉が白くついている。


「閣下。手を」

「割れた」

「言いました」

「言ったな」


 私は、竈の脇の壺を、取る。閣下の膏薬。今朝、ギルバートさまが「用途不明」と書いた壺。


 閣下の手を、取る。


 昨夜、閣下が私にしたのと、同じに。掬って、置く。押さない。


 閣下は、私の手を、見ている。


 私の指のあかぎれには、昨夜の膏薬が、まだ、光っていた。


「セラ」

「はい」

「私の名は、何番目だ」

「五十一番目です」

「五十一」

「閣下が、『書け』とおっしゃった夜です。『余計だ』と言われた二行も、まだ、消していません」


 竈の火が、ひとつ、低く鳴る。


「……命令は、まだ生きている」

「私の帳面ですので」


 閣下の睫毛から、粉が、ひとつ落ちた。


 閣下は、膏薬を塗り終えた手を、引かない。


 代わりに、その手で、私の頬に、粉を、つける。


 わざと、だと思う。


「閣下」

「粉が、ついている」

「今、つけました」

「ついている」


 閣下が、笑っている。


 いつも眉間に皺を寄せている人が、竈の前で、粉だらけの手のまま、声を立てずに笑っている。


 その笑顔を見て、私は、何を思ったのだろう。


 嬉しいのだと思う。


 でも、明日、峠へ行くのだと思うと、その嬉しさを、どこへ置けばいいのか、分からない。


 竈の火が、二人の影を、石の壁に、ひとつに重ねて映している。


「……セラ」

「はい」

「明日、百合が、咲くか」

「わかりません」

「咲いたら、教えろ」

「はい」


 閣下が、立ち上がる。


 立ち上がる前に、一度だけ、私の頭に、手を置いた。


 置いて、離す。


 粉が、髪につく。


 私は、それも、見なかったことにした。


 寝台に戻る途中、礼拝堂の前を通る。


 祭壇の脇。親指ほどの蕾。


 まだ、開いていない。


 原作の、最後の巻の、最後の峠。


 明日、あの頁が来る。閣下が、ひとりで立つ頁が。


 原作の閣下は、あの峠から、帰ってこない。


(神さま)

『うむ』

(明日、ですか)

『……明日じゃ』

(怖いです)

『じゃろうな』

(神さまも、怖いですか)


 灰色の石の光が、蕾の影を、床に細く落としている。


『お主が怖がっておるとき、わしは、その怖さの、いちばん近くにおる。……じゃから、ようわかる』

(……)

『怖いのと、隣におるのは、両方できる。お主にも、できる』

(……はい)

『今夜、この城に、何人おると思う』

(三百二十三人です。村の人が二百、兵が百、城の者が二十三)

『うむ。ひとりも、欠けておらん』

(ご飯は、足りていますか)

『粥は薄い。塩は、今日、マルタが掘ってきた。それでもマルタは、明日の朝の分まで、もう頭の中で割り振っておる』


 神さまの声が、くすりと笑う。


『じゃがな。今夜、この城で、椀が回ってこなかった者は、ひとりもおらん。村の婆さまにも、赤子を抱いた母親にも、ルーカスにも。犬にもじゃ』

(グラウにも)

『いちばん大きい骨を、もろうておった。……それだけは、わしの帳面に、ちゃんと書いてある』


(神さま。ひとつだけ、お願いしてもいいですか)

『言うてみい』

(閣下を、帰してください)


 答えは、すぐには来なかった。灰色の石の光が、ほんの少しだけ、揺れる。


『明日、お主は、お主の場所に立っておれ。それだけでよい』

(それだけ、ですか)

『それだけじゃ。わしは、お主の隣と、あの子の隣と、両方におる。……峠は、狭いからのう。近うて、ちょうどよい』


 神さまの声は、いつもより、少しだけ、ゆっくりだった。


 私は、蕾の前に、そっと座りこむ。


 膏薬の匂いが、まだ、手に残っていた。


 ルーカスの小鳥を、帳面の隣に、置く。


 帳面には、もう、兄の名が書いてある。二百十四人目。金糸の長靴を、脱いだ人。


 明日、峠で、その人の顔を見る。


 礼拝堂の丸窓の外では、雪がやんでいた。峠の上の空に、星が、数えきれないほど出ている。あの星の下に、兄も、パヴェルさんも、三千五百の人たちも、いる。


 ぱちんと、竈の火が、遠くで、鳴った。


読んでくださって、ありがとうございます。


『怖いのと、隣におるのは、両方できる』


次回、峠の前の夜。閣下のもとに、一枚の紙が届きます。


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本日、同じ世界の短編『余命十日の薬草姫は、十五年後の梨を植える』を投稿しました。

第2話・第6話に出てくる見習いのノアくんの、百五十年ほど前のご先祖さまのお話です。作者のページから、一話で読めます。


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