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氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第五章 砕けた心の住まい

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第49話 金の像は、寒がらない(一)

明日も3回投稿します。休日なので



 峠の向こうに、光るものが見えた。


「――あれだ」


 オットーさんが、城壁の上から、指をさす。


 冬の午後の、薄い陽の下で、峠の向こうの遠い雪原に、何かが、ぎらりと光る。一度。二度。日が雲に隠れると、消えた。


「金の像だ。先鋒の先頭で、担がせてやがる」


 侯爵が城に抱えてきた、あの像だ。七つの子どもほどの背丈しかないのに、遠くからでも、よく光る。


 私は、城壁の冷たい石に、手を置く。


 九日後に、あれが、この峠に来る。


 原作に、金の像は、出てこない。


 あの本の帝国は、ただ「峠へ来る」とだけ書かれていた。旗の色も、兵の数も、なかった。


 本の中の敵には、顔がなかったのだ。


 グラウが、城壁の上で、私の隣に座って、遠くの光を見ている。犬の目には、あの光が何に見えるのだろう。


「神さま」

『うむ』

「あの像は、神さまがお創りになった木でできているんですよね」


 神さまが、少し笑った。


『よう気づいたのう。東の山の、杉の若木じゃ』

「杉」

『金を薄う貼るために、軽い木を選んだのじゃろう。わしはな、あの木が嫌いではない。まっすぐで、雪の重みに、よう耐えた』

「覚えていらっしゃるんですね、木のことまで」

『若いうちに、山鳩が一度、巣を作った。雛が二羽、あの枝から巣立っていった。……木のほうは、たぶん、忘れておらん』

「像になっても」

『像になっても、じゃ。切って、金を貼って、皇帝の顔をつけたのは、人間じゃ。木のせいではない』


 私は、遠くの光を見る。


「あの像は、帝国の兵士さんたちを、助けてくれるんでしょうか」

『助けん』


 はっきりとした声だった。怒りではない。悲しみの声だ。


『どれほど金を貼っても、寒い夜に、誰も温めん』

「木なのに、みんな頭を下げるんですね」

『木にではない。助けてくれると信じたものに、じゃ』

「木じゃなくても、同じですか。玉座とか、金貨とか、鏡とか」

『同じじゃ。差し出せば差し出すほど重くなって、いちばん寒い夜に、何もしてくれん。それを、担がされておる若者がおる』


 大聖堂の回廊を思い出す。金の壁画の前を通るたびに、誰もが頭を下げていた。司祭も、貴族も、下働きも。私も、下げていた。


 それが、ふつうだったから。


「みんなが頭を下げていたら、下げないほうが、おかしく見えますね」

『そうじゃ。みんなで担いでおると、重いことにも、気づかんようになる』


 百合の香りが、城壁の風の中に、ふわりと混じった。


『わしは、あの峠で、あの像を担いで凍える若者の隣にも、膝をつくことになる。その日が、来んでほしいのじゃがのう』


 あの本には、いなかった。


 像を担いで凍える若者も。その隣に膝をつく、神さまも。


 私は、グラウの首の毛の中に、指を埋める。温かい。




◆ 幕間 王都 空の金庫




 王城の地下の金庫は、空である。


 正確に言えば、空ではない。石の棚には木の箱がまだいくつも並んでいて、蓋を開ければ中身もある。ただしそれは金貨ではなく、王家の紋章を押した「借用証」の束だ。箱の数だけ、借りがある。


 王家が金貨で暮らしたことは、この三百年、一度もない。王家は、紙で暮らす。商人が紙を受け取ってくれるかぎり、金貨は要らない。ベンノが五十年勤めて学んだのは、その一つだけだ。


 国は、金があるから回るのではない。金があると思われているから回る。だから王妃は、兵の給金が二月遅れても、大聖堂の壁画を塗り直させた。金糸の長靴を新調させた。


 見栄は無駄ではない。見栄は、担保だ。王家が貧しく見えた日に、商人は紙を受け取らなくなる。


 だから、誰もが、金があるふりをしている。王家も、貴族も、商人も。仕立てのいい外套。新しい馬車。家の名と、肩書と、どこの学び舎を出たか。中身の空いた箱を、互いに見せ合って、うなずき合う。


 みんながそうしているから、誰も、それを嘘だとは言わない。言った者から、貧しくなる。


 貴族たちも、同じ紙を持っている。王家の借用証を、一人が何十枚も。王家が倒れた日に、その紙は、ただの紙になる。


 だから、誰も騒がない。王家の金庫が空だと叫べば、自分の金庫も、空になる。


 その紙を、この三年、誰が買い集めていたか。


 ベンノは知っている。王都の商人は、王家の借用証を、東から来た紫の毛皮の男に、二割引きで売った。グラナート侯爵。帝国の勅使は、剣を持ってこなかった。王家の借金を、持ってきた。


 だから帝国は、金貨を出せ、さもなくば鉱山を、と言える。あれは脅しではない。取り立てだ。北の竜晶鉱山は、三代前の王が借用証の裏に書いた、担保の名前だった。王家のものでもない、北の辺境伯の鉱山を。


 だから王家には、婚姻の紙が要った。持参金の誓約で採掘権の半分を手に入れれば、紙の裏の担保が、初めて本物になる。辺境伯が拒めば、反逆の名で潰して、まるごと取る。


 どちらに転んでも、担保は帝国に渡せる。王妃の計算は、最初から、それだけ。


 その鉱山が枯れていると知ったとき、王妃は何も言わなかった。言わなかったが、その日から冠の箱の鍵を、首から外さなくなった。


「――王妃さま。これ以上は」


 財務官の長、老いたベンノの顔は、蝋燭の灯りの下でも青い。眼鏡を額に上げる。下ろす。また上げる。二月あまり前、金貨百二十枚が八枚に減ったとき震えた手が、今夜は、震えることにも疲れている。


「帝国への上納金は、三年分、前払いしました。兵の給金は、二月、払えておりません。昨日、王都のパン屋が、王家の役人には現金でしか売らんと。わたくしの妻が、その、市場で。これ以上、絞れるものが、ありません」


 エレオノーラ王妃は、金庫の奥の、いちばん小さな箱の前に立っている。


 鍵がかかっているのは、その箱だけだ。


 首から下げた小さな鍵で、王妃はそれを開ける。


 宝冠。王家に嫁いだ日に、先代の王妃から受け継いだもの。三百年、この国の王妃の頭に載ってきた、金と真珠の冠。


 持ち上げると、蝋燭の灯りに真珠が鈍く光る。王妃はその一粒を指先で撫でた。ほんの一瞬。娘の髪を撫でるような手つきだったと、あとでベンノは思い返すことになる。撫でられた娘を、この王妃は持たなかったのに。


 それから、ベンノの前に置いた。


「これを、溶かしなさい」


 ベンノは、息を呑んだ。


「王妃さま、それは、王家の――」

「帝国は、紙を受け取りません。金でなければ」

「玉座が残れば、冠は、また作れます」


 声は、少しも揺れていない。


「帝国の使者に渡しなさい。峠が落ちた暁の、献上の印に」

「……は」

「それから、ジュリアンを北へ。王家の軍の総大将として」

「殿下を、戦に」

「氷竜の首を持ち帰れば、あの子が次の王です」


 空になった小箱を、王妃はそっと閉じる。鍵も、かけ直した。中に何も入っていないことを知る者は、ここにいる二人だけでいい。


「わたくしは、玉座を守るためなら、何でも差し出します。冠でも、宝石でも」


 ベンノは続きを待った。


 続きはなかった。


「息子でも」を、王妃が口にしなかったのか、口にする必要すら感じなかったのか。ベンノにはわからない。わからないまま、老いた財務官は冠を両手で抱えた。思ったより、軽い。


 ジュリアンは、金庫の階段の上で、それを聞いている。


 聞くつもりはなかった。母を探して地下へ下りてきただけだ。


 冠が、溶かされる。三百年の、王妃の冠が。


 ジュリアンは、階段の壁に、背中を預けた。


 母は、いつも言っていた。王が見るべきものは、誰が自分に頭を下げ、誰が下げないか。それだけ。この国の、次の王。玉座。血筋。


 その母が、今、玉座のために、冠を溶かしている。


――なら、玉座のために、次に溶かすのは、何だ。


 与えたものに、礼も恨みも要らない。母は、北の女のことを、そう言った。


 あれは、与えたものは、いつでも取り上げていい、という意味だったのだ。屋根も、パンも。冠も。


 ――それから、たぶん、息子も。


 その問いが頭に浮かんだとき、ジュリアンは初めて、自分の手が震えていることに気づく。


「寒い」


 呟いていた。


 王城の地下は暖かい。暖炉の熱が床の石を通して、足元まで届いている。


 それでも、寒い。


 なぜか、北の城のあの厨房の匂いを思い出した。麦と、蕪と、塩。あの女が二十人の兵と一緒に膝をついて、麦を拾っていた床の匂いだ。




◆ 幕間 峠の道 凍る靴




 王家の軍は、五百人だった。


 半分は、給金の払われていない正規兵。もう半分は、王都の周りの村から、借用証一枚で駆り出された農民だった。槍の持ち方も知らない者が、ジュリアンの後ろを、ぞろぞろと歩いていた。


 そして、国境の川のこちら側で、帝国の第四軍団と合流する。


 三千人。天幕、五百。そして、先頭に、金の像。


「――ジュリアン殿下。ようこそ」


 グラナート侯爵は、紫の毛皮の中から、蜜のように笑った。


「皇帝陛下の御尊像の前で、膝を折られよ。それが、同盟の作法だ」


 ジュリアンは、金の像を見る。


 雪の上の低い台に据えられた、子どもほどの背丈の像。膝をついた者の目の高さに合わせて、わざわざ作らせた台だ。


 膝をつけば、冠をかぶり、右手を高く掲げた皇帝の顔が、ちょうど目の前に来る。


 その像の足元で、若い従者が、雪を払っていた。長すぎる紫の袖の男。北の城の廐の裏で、一度、見た顔だった。


 ジュリアンは、膝をついた。


 雪の上に。金糸の長靴が、雪に沈んだ。


 その靴は、王都の石畳の上では、いつも、誰よりも高く鳴った。大聖堂の回廊で、あの女の手を踏みつけたときも。


 峠の雪の中では、音がしなかった。


 雪は、音を包む。


 そして、金糸の刺繍の隙間から、溶けた雪が、靴の中に、じわじわと染みこんできた。


 後ろで、五百の兵が、いっせいに膝をつく音がする。誰も、ためらわない。王子が膝をついたから。帝国の三千人が、毎朝そうしているから。


 膝をついたまま、ジュリアンは、ふと、隣を見た。


 従者の若者が、像の足元の雪を払う手を止めて、こちらを見ている。何の表情もない顔で。けれど、その目は、ジュリアンの金糸の靴を、見ている。


「何だ」

「いえ。その靴、雪が入ります」


 若者は、それだけ言って、また、雪を払い始めた。


 三日目の夜、吹雪が来た。


 峠の中腹の野営地で、天幕が、次々に吹き飛ぶ。篝火は消え、薪は湿り、三千人の兵が、雪の中で、互いに体を寄せ合って震える。


 金の像は、いちばん大きな天幕の中にいた。


 侯爵の命令で、像は、熊の毛皮を三枚、巻かれている。「皇帝陛下の御尊像を、凍えさせるわけにはいかん」と。


 その天幕の外で、帝国兵が、一人、凍えている。


「ミハル。おい、ミハル、起きろ」


 パヴェルは、その男の肩を揺する。


 ミハルは、パヴェルと同じ、帝国の東の外れの村から、年貢の代わりに差し出された男だった。二十二歳。国境の川を渡る前の夜に、「帰ったら、結婚する」と言っていた。相手の娘の名前を、三度も。


 ミハルには、兄がいた。


 三年前の秋、侯爵が年貢を取りに村へ来た。麦は不作で、村は半分しか納められない。侯爵は、怒らない。


 怒る代わりに、足りない分を人で払わせると言い、若い男を五人選んだ。パヴェルとミハルは、そのときに選ばれた。


 帰りの馬車に金の像を積むとき、ぬかるみで車輪が傾く。像が倒れかけ、ミハルの兄が、とっさに両手で支える。像は、無事。


 侯爵は、馬車の中から、それを見ていた。


「皇帝陛下の御顔に、農夫が触れた」


 それだけ言って、兄を、その夜、村の広場に立たせた。上着を脱がせて。朝まで。誰も近づくことを許されなかった。


 ミハルが毛布を持って出ようとしたとき、侯爵の従者がその腕を折った。三年経っても、ミハルの左腕は、まっすぐには伸びない。


 兄は、朝には立っていなかった。


 侯爵は、それを見ても、何も言わない。怒ってもいない。像の金の表面を絹で拭いて、馬車の扉を閉めた。


 パヴェルが覚えているのは、その絹の白さだ。人の命と、絹の白さの重さが、あの人の中では同じだった。いや、絹のほうが重かった。


 だから、パヴェルは知っている。この人は、悪いことをしているつもりがない。それが、いちばん怖い。


 ミハルの唇は紫で、指は白い。


「薪を」

「ねえよ。全部、湿っちまった」


 パヴェルは、天幕の中を見る。


 金の像が、熊の毛皮の中で篝火に照らされて光っている。毛皮は三枚。


 三千人が、毎朝、この像に頭を下げる。三千人がそうしているから、誰も、おかしいとは言わない。パヴェルも、三年、言わなかった。


 像は、寒がらない。


 自分の右の手のひらを見る。


 北の城の、地の底の、低い戸口の向こうで、一瞬だけ、白く光った石。あの石は、松明の陰で、少しだけ、温かかった。毎朝額をつけてきた金の像は、一度も、温かかったことがない。


 彼は、立ち上がった。


 天幕の入口をくぐり、像の前に立ち、そして、三枚の毛皮を、一枚ずつ、剥がした。


「――貴様、何をしている!」


 侯爵の怒声が、天幕の奥から飛んでくる。


 パヴェルは、振り返らない。


「像は、寒がりません」


 それだけ言って、彼は、毛皮を抱えて、天幕の外へ出た。


 ミハルの体を、三枚の熊の毛皮でくるんだ。それから、自分も、その隣に潜りこんで、ミハルの背中を、自分の胸で温めた。


「パヴェル。お前、殺されるぞ」


 ミハルが、かすれた声で言う。


「知るか」


 パヴェルは、目を閉じる。


「像は、俺たちを、助けてくれねえ。三年、毎朝、頭を下げてきたのに。北の城の犬のほうが、よっぽど、人を温めてた」


 吹雪の音の向こうで、彼は、また、あの低い戸口のことを思い出している。


 丸くすり減った、石の縁。額に触れた、冷たくてなめらかな感触。


――あの部屋には、毛皮を巻いた像はなかった。


――あの部屋には、二人並んで座れる、低い腰掛けがあった。


 そのことの意味を、パヴェルはまだ言葉にできない。


 けれどその夜、ミハルは死ななかった。


 翌朝、毛皮を剥がされた金の像の右手の指先が、一本、凍ってぽろりと折れているのが見つかった。


 金の下から覗いていたのは、白い木だ。


 ジュリアンは、その折れた指を見ている。


 侯爵が真っ青な顔で折れた指を絹に包み、パヴェルを鞭打てと喚いている。軍団長が退屈そうにそれを止める。「凍死した兵が四十人だ。像の指より、そちらの頭数を取れ」と。


 四十人。


 ジュリアンは、自分の足元を見る。


 金糸の長靴は、雪と氷でごわごわに固まっている。昨夜の吹雪の中で、彼は一歩も歩けなかった。靴が凍りついて、足に張りついていたからだ。


 王家の兵が、彼を、天幕まで運んだ。給金を払われていない兵が。


「殿下」


 その兵の一人が、天幕の入口で、ぼそりと言う。


「その靴、脱いだほうがいいですぜ。凍傷になる」


 ジュリアンは、その兵の顔を見る。


 名前を、知らなかった。五百人の、一人も。


「お前、名前は」


 兵が、驚いた顔をする。


「ハインツ、です。殿下」

「ハインツ」


 口の中で、その名を繰り返す。


 なぜ訊いたのか、自分でもわからない。ただ、あの女が北の城で麦を拾いながら、隣に膝をついた子どもの兵を、名前で呼んでいたのを思い出していた。トビアス、と。


「靴を、脱ぐのを、手伝え」


 ハインツは、ジュリアンの顔を見た。雪の照り返しが、その目を細くさせる。それから黙ってしゃがみこみ、凍りついた靴の紐を指で解き始める。


「殿下。俺、王家の兵になって三年です。殿下に名前を訊かれたのは、初めてです」

「……そうか」

「嬉しくは、ないです。今さら」

「……だろうな」

「でも、靴は脱がせます。凍傷になったら、俺が運ぶんで」


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