第49話 金の像は、寒がらない(一)
明日も3回投稿します。休日なので
峠の向こうに、光るものが見えた。
「――あれだ」
オットーさんが、城壁の上から、指をさす。
冬の午後の、薄い陽の下で、峠の向こうの遠い雪原に、何かが、ぎらりと光る。一度。二度。日が雲に隠れると、消えた。
「金の像だ。先鋒の先頭で、担がせてやがる」
侯爵が城に抱えてきた、あの像だ。七つの子どもほどの背丈しかないのに、遠くからでも、よく光る。
私は、城壁の冷たい石に、手を置く。
九日後に、あれが、この峠に来る。
原作に、金の像は、出てこない。
あの本の帝国は、ただ「峠へ来る」とだけ書かれていた。旗の色も、兵の数も、なかった。
本の中の敵には、顔がなかったのだ。
グラウが、城壁の上で、私の隣に座って、遠くの光を見ている。犬の目には、あの光が何に見えるのだろう。
「神さま」
『うむ』
「あの像は、神さまがお創りになった木でできているんですよね」
神さまが、少し笑った。
『よう気づいたのう。東の山の、杉の若木じゃ』
「杉」
『金を薄う貼るために、軽い木を選んだのじゃろう。わしはな、あの木が嫌いではない。まっすぐで、雪の重みに、よう耐えた』
「覚えていらっしゃるんですね、木のことまで」
『若いうちに、山鳩が一度、巣を作った。雛が二羽、あの枝から巣立っていった。……木のほうは、たぶん、忘れておらん』
「像になっても」
『像になっても、じゃ。切って、金を貼って、皇帝の顔をつけたのは、人間じゃ。木のせいではない』
私は、遠くの光を見る。
「あの像は、帝国の兵士さんたちを、助けてくれるんでしょうか」
『助けん』
はっきりとした声だった。怒りではない。悲しみの声だ。
『どれほど金を貼っても、寒い夜に、誰も温めん』
「木なのに、みんな頭を下げるんですね」
『木にではない。助けてくれると信じたものに、じゃ』
「木じゃなくても、同じですか。玉座とか、金貨とか、鏡とか」
『同じじゃ。差し出せば差し出すほど重くなって、いちばん寒い夜に、何もしてくれん。それを、担がされておる若者がおる』
大聖堂の回廊を思い出す。金の壁画の前を通るたびに、誰もが頭を下げていた。司祭も、貴族も、下働きも。私も、下げていた。
それが、ふつうだったから。
「みんなが頭を下げていたら、下げないほうが、おかしく見えますね」
『そうじゃ。みんなで担いでおると、重いことにも、気づかんようになる』
百合の香りが、城壁の風の中に、ふわりと混じった。
『わしは、あの峠で、あの像を担いで凍える若者の隣にも、膝をつくことになる。その日が、来んでほしいのじゃがのう』
あの本には、いなかった。
像を担いで凍える若者も。その隣に膝をつく、神さまも。
私は、グラウの首の毛の中に、指を埋める。温かい。
◆ 幕間 王都 空の金庫
王城の地下の金庫は、空である。
正確に言えば、空ではない。石の棚には木の箱がまだいくつも並んでいて、蓋を開ければ中身もある。ただしそれは金貨ではなく、王家の紋章を押した「借用証」の束だ。箱の数だけ、借りがある。
王家が金貨で暮らしたことは、この三百年、一度もない。王家は、紙で暮らす。商人が紙を受け取ってくれるかぎり、金貨は要らない。ベンノが五十年勤めて学んだのは、その一つだけだ。
国は、金があるから回るのではない。金があると思われているから回る。だから王妃は、兵の給金が二月遅れても、大聖堂の壁画を塗り直させた。金糸の長靴を新調させた。
見栄は無駄ではない。見栄は、担保だ。王家が貧しく見えた日に、商人は紙を受け取らなくなる。
だから、誰もが、金があるふりをしている。王家も、貴族も、商人も。仕立てのいい外套。新しい馬車。家の名と、肩書と、どこの学び舎を出たか。中身の空いた箱を、互いに見せ合って、うなずき合う。
みんながそうしているから、誰も、それを嘘だとは言わない。言った者から、貧しくなる。
貴族たちも、同じ紙を持っている。王家の借用証を、一人が何十枚も。王家が倒れた日に、その紙は、ただの紙になる。
だから、誰も騒がない。王家の金庫が空だと叫べば、自分の金庫も、空になる。
その紙を、この三年、誰が買い集めていたか。
ベンノは知っている。王都の商人は、王家の借用証を、東から来た紫の毛皮の男に、二割引きで売った。グラナート侯爵。帝国の勅使は、剣を持ってこなかった。王家の借金を、持ってきた。
だから帝国は、金貨を出せ、さもなくば鉱山を、と言える。あれは脅しではない。取り立てだ。北の竜晶鉱山は、三代前の王が借用証の裏に書いた、担保の名前だった。王家のものでもない、北の辺境伯の鉱山を。
だから王家には、婚姻の紙が要った。持参金の誓約で採掘権の半分を手に入れれば、紙の裏の担保が、初めて本物になる。辺境伯が拒めば、反逆の名で潰して、まるごと取る。
どちらに転んでも、担保は帝国に渡せる。王妃の計算は、最初から、それだけ。
その鉱山が枯れていると知ったとき、王妃は何も言わなかった。言わなかったが、その日から冠の箱の鍵を、首から外さなくなった。
「――王妃さま。これ以上は」
財務官の長、老いたベンノの顔は、蝋燭の灯りの下でも青い。眼鏡を額に上げる。下ろす。また上げる。二月あまり前、金貨百二十枚が八枚に減ったとき震えた手が、今夜は、震えることにも疲れている。
「帝国への上納金は、三年分、前払いしました。兵の給金は、二月、払えておりません。昨日、王都のパン屋が、王家の役人には現金でしか売らんと。わたくしの妻が、その、市場で。これ以上、絞れるものが、ありません」
エレオノーラ王妃は、金庫の奥の、いちばん小さな箱の前に立っている。
鍵がかかっているのは、その箱だけだ。
首から下げた小さな鍵で、王妃はそれを開ける。
宝冠。王家に嫁いだ日に、先代の王妃から受け継いだもの。三百年、この国の王妃の頭に載ってきた、金と真珠の冠。
持ち上げると、蝋燭の灯りに真珠が鈍く光る。王妃はその一粒を指先で撫でた。ほんの一瞬。娘の髪を撫でるような手つきだったと、あとでベンノは思い返すことになる。撫でられた娘を、この王妃は持たなかったのに。
それから、ベンノの前に置いた。
「これを、溶かしなさい」
ベンノは、息を呑んだ。
「王妃さま、それは、王家の――」
「帝国は、紙を受け取りません。金でなければ」
「玉座が残れば、冠は、また作れます」
声は、少しも揺れていない。
「帝国の使者に渡しなさい。峠が落ちた暁の、献上の印に」
「……は」
「それから、ジュリアンを北へ。王家の軍の総大将として」
「殿下を、戦に」
「氷竜の首を持ち帰れば、あの子が次の王です」
空になった小箱を、王妃はそっと閉じる。鍵も、かけ直した。中に何も入っていないことを知る者は、ここにいる二人だけでいい。
「わたくしは、玉座を守るためなら、何でも差し出します。冠でも、宝石でも」
ベンノは続きを待った。
続きはなかった。
「息子でも」を、王妃が口にしなかったのか、口にする必要すら感じなかったのか。ベンノにはわからない。わからないまま、老いた財務官は冠を両手で抱えた。思ったより、軽い。
ジュリアンは、金庫の階段の上で、それを聞いている。
聞くつもりはなかった。母を探して地下へ下りてきただけだ。
冠が、溶かされる。三百年の、王妃の冠が。
ジュリアンは、階段の壁に、背中を預けた。
母は、いつも言っていた。王が見るべきものは、誰が自分に頭を下げ、誰が下げないか。それだけ。この国の、次の王。玉座。血筋。
その母が、今、玉座のために、冠を溶かしている。
――なら、玉座のために、次に溶かすのは、何だ。
与えたものに、礼も恨みも要らない。母は、北の女のことを、そう言った。
あれは、与えたものは、いつでも取り上げていい、という意味だったのだ。屋根も、パンも。冠も。
――それから、たぶん、息子も。
その問いが頭に浮かんだとき、ジュリアンは初めて、自分の手が震えていることに気づく。
「寒い」
呟いていた。
王城の地下は暖かい。暖炉の熱が床の石を通して、足元まで届いている。
それでも、寒い。
なぜか、北の城のあの厨房の匂いを思い出した。麦と、蕪と、塩。あの女が二十人の兵と一緒に膝をついて、麦を拾っていた床の匂いだ。
◆ 幕間 峠の道 凍る靴
王家の軍は、五百人だった。
半分は、給金の払われていない正規兵。もう半分は、王都の周りの村から、借用証一枚で駆り出された農民だった。槍の持ち方も知らない者が、ジュリアンの後ろを、ぞろぞろと歩いていた。
そして、国境の川のこちら側で、帝国の第四軍団と合流する。
三千人。天幕、五百。そして、先頭に、金の像。
「――ジュリアン殿下。ようこそ」
グラナート侯爵は、紫の毛皮の中から、蜜のように笑った。
「皇帝陛下の御尊像の前で、膝を折られよ。それが、同盟の作法だ」
ジュリアンは、金の像を見る。
雪の上の低い台に据えられた、子どもほどの背丈の像。膝をついた者の目の高さに合わせて、わざわざ作らせた台だ。
膝をつけば、冠をかぶり、右手を高く掲げた皇帝の顔が、ちょうど目の前に来る。
その像の足元で、若い従者が、雪を払っていた。長すぎる紫の袖の男。北の城の廐の裏で、一度、見た顔だった。
ジュリアンは、膝をついた。
雪の上に。金糸の長靴が、雪に沈んだ。
その靴は、王都の石畳の上では、いつも、誰よりも高く鳴った。大聖堂の回廊で、あの女の手を踏みつけたときも。
峠の雪の中では、音がしなかった。
雪は、音を包む。
そして、金糸の刺繍の隙間から、溶けた雪が、靴の中に、じわじわと染みこんできた。
後ろで、五百の兵が、いっせいに膝をつく音がする。誰も、ためらわない。王子が膝をついたから。帝国の三千人が、毎朝そうしているから。
膝をついたまま、ジュリアンは、ふと、隣を見た。
従者の若者が、像の足元の雪を払う手を止めて、こちらを見ている。何の表情もない顔で。けれど、その目は、ジュリアンの金糸の靴を、見ている。
「何だ」
「いえ。その靴、雪が入ります」
若者は、それだけ言って、また、雪を払い始めた。
三日目の夜、吹雪が来た。
峠の中腹の野営地で、天幕が、次々に吹き飛ぶ。篝火は消え、薪は湿り、三千人の兵が、雪の中で、互いに体を寄せ合って震える。
金の像は、いちばん大きな天幕の中にいた。
侯爵の命令で、像は、熊の毛皮を三枚、巻かれている。「皇帝陛下の御尊像を、凍えさせるわけにはいかん」と。
その天幕の外で、帝国兵が、一人、凍えている。
「ミハル。おい、ミハル、起きろ」
パヴェルは、その男の肩を揺する。
ミハルは、パヴェルと同じ、帝国の東の外れの村から、年貢の代わりに差し出された男だった。二十二歳。国境の川を渡る前の夜に、「帰ったら、結婚する」と言っていた。相手の娘の名前を、三度も。
ミハルには、兄がいた。
三年前の秋、侯爵が年貢を取りに村へ来た。麦は不作で、村は半分しか納められない。侯爵は、怒らない。
怒る代わりに、足りない分を人で払わせると言い、若い男を五人選んだ。パヴェルとミハルは、そのときに選ばれた。
帰りの馬車に金の像を積むとき、ぬかるみで車輪が傾く。像が倒れかけ、ミハルの兄が、とっさに両手で支える。像は、無事。
侯爵は、馬車の中から、それを見ていた。
「皇帝陛下の御顔に、農夫が触れた」
それだけ言って、兄を、その夜、村の広場に立たせた。上着を脱がせて。朝まで。誰も近づくことを許されなかった。
ミハルが毛布を持って出ようとしたとき、侯爵の従者がその腕を折った。三年経っても、ミハルの左腕は、まっすぐには伸びない。
兄は、朝には立っていなかった。
侯爵は、それを見ても、何も言わない。怒ってもいない。像の金の表面を絹で拭いて、馬車の扉を閉めた。
パヴェルが覚えているのは、その絹の白さだ。人の命と、絹の白さの重さが、あの人の中では同じだった。いや、絹のほうが重かった。
だから、パヴェルは知っている。この人は、悪いことをしているつもりがない。それが、いちばん怖い。
ミハルの唇は紫で、指は白い。
「薪を」
「ねえよ。全部、湿っちまった」
パヴェルは、天幕の中を見る。
金の像が、熊の毛皮の中で篝火に照らされて光っている。毛皮は三枚。
三千人が、毎朝、この像に頭を下げる。三千人がそうしているから、誰も、おかしいとは言わない。パヴェルも、三年、言わなかった。
像は、寒がらない。
自分の右の手のひらを見る。
北の城の、地の底の、低い戸口の向こうで、一瞬だけ、白く光った石。あの石は、松明の陰で、少しだけ、温かかった。毎朝額をつけてきた金の像は、一度も、温かかったことがない。
彼は、立ち上がった。
天幕の入口をくぐり、像の前に立ち、そして、三枚の毛皮を、一枚ずつ、剥がした。
「――貴様、何をしている!」
侯爵の怒声が、天幕の奥から飛んでくる。
パヴェルは、振り返らない。
「像は、寒がりません」
それだけ言って、彼は、毛皮を抱えて、天幕の外へ出た。
ミハルの体を、三枚の熊の毛皮でくるんだ。それから、自分も、その隣に潜りこんで、ミハルの背中を、自分の胸で温めた。
「パヴェル。お前、殺されるぞ」
ミハルが、かすれた声で言う。
「知るか」
パヴェルは、目を閉じる。
「像は、俺たちを、助けてくれねえ。三年、毎朝、頭を下げてきたのに。北の城の犬のほうが、よっぽど、人を温めてた」
吹雪の音の向こうで、彼は、また、あの低い戸口のことを思い出している。
丸くすり減った、石の縁。額に触れた、冷たくてなめらかな感触。
――あの部屋には、毛皮を巻いた像はなかった。
――あの部屋には、二人並んで座れる、低い腰掛けがあった。
そのことの意味を、パヴェルはまだ言葉にできない。
けれどその夜、ミハルは死ななかった。
翌朝、毛皮を剥がされた金の像の右手の指先が、一本、凍ってぽろりと折れているのが見つかった。
金の下から覗いていたのは、白い木だ。
ジュリアンは、その折れた指を見ている。
侯爵が真っ青な顔で折れた指を絹に包み、パヴェルを鞭打てと喚いている。軍団長が退屈そうにそれを止める。「凍死した兵が四十人だ。像の指より、そちらの頭数を取れ」と。
四十人。
ジュリアンは、自分の足元を見る。
金糸の長靴は、雪と氷でごわごわに固まっている。昨夜の吹雪の中で、彼は一歩も歩けなかった。靴が凍りついて、足に張りついていたからだ。
王家の兵が、彼を、天幕まで運んだ。給金を払われていない兵が。
「殿下」
その兵の一人が、天幕の入口で、ぼそりと言う。
「その靴、脱いだほうがいいですぜ。凍傷になる」
ジュリアンは、その兵の顔を見る。
名前を、知らなかった。五百人の、一人も。
「お前、名前は」
兵が、驚いた顔をする。
「ハインツ、です。殿下」
「ハインツ」
口の中で、その名を繰り返す。
なぜ訊いたのか、自分でもわからない。ただ、あの女が北の城で麦を拾いながら、隣に膝をついた子どもの兵を、名前で呼んでいたのを思い出していた。トビアス、と。
「靴を、脱ぐのを、手伝え」
ハインツは、ジュリアンの顔を見た。雪の照り返しが、その目を細くさせる。それから黙ってしゃがみこみ、凍りついた靴の紐を指で解き始める。
「殿下。俺、王家の兵になって三年です。殿下に名前を訊かれたのは、初めてです」
「……そうか」
「嬉しくは、ないです。今さら」
「……だろうな」
「でも、靴は脱がせます。凍傷になったら、俺が運ぶんで」




