↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/50

第41話 冷たい手

*

足元が、揺れていた。

音も光もない。上下の感覚だけが曖昧な暗闇に、扉が一つ、ぽつんと立っている。

軋みながら扉が開き、中から影が這い出した。

人の形を歪めたような、異形。触手のような腕が鞭になってしなり、

トウゴを打ち据えた。

血を吐いた。それでも群青の鍵を握り直す。膝は折らなかった。


(……カガリさんなら、こうする)



拾われた理由は、何年も経ってから、一度だけぶっきらぼうに告げられた。


『放っておくと、お前は一人で勝手に死ぬと思ったからだ』


褒められたことも、慰められたこともない。稽古らしい稽古も覚えていない。

ただ隣に並んで走るうちに、同じ足捌き、同じ動きが身体に移っていた。

トウゴの鍵が床を這う軌道を描くのは、カガリの鍵がそう動いていたからだ。

血の繋がった誰かに型を教え込まれた記憶も、うっすらとある。だが身体が覚えているのは、そちらではなかった。

どちらかが限界のとき、もう一方は何も言わずに前に出た。それだけで、通じていた。それが、救いだった。


暗闇には、誰もいない。ここで折れれば、外の二人が死ぬ。トウゴは、泥を踏むように立ち続けた。


*


澪の光が、爪のように三方向へ裂けた。

ヨシは正面を鍵で受け、左を身体を捻って躱した。右からの変則の一撃だけが、間に合わない。

右腕を、深く掠められた。


「あのさぁ、一度見たら読める、ってよっさん、前に偉そうに言ってたよねぇ?」


澪が肩を揺らす。


「私も同じ。同じトレブルだもん、手の内は透けて見えるの。……あっちのお弟子ちゃんは、今ごろいい夢でも見てるんじゃない?」

「やめろ……っ!」


ヨシは唇を噛んだ。同じ音域だ。

普通に戦えば、こちらの動きはすべて先読みされる。

なら、戦い方を切り替える。

ゆっくりと息を吐いた。手の角度を、内側へ絞る。外へ伸びていた白銀が折り返し、自分の内側へ、鋭く収束していく。


「……封印モード」


澪の目が、初めて細くなった。


「解放と封印、両方を扱うのが、僕だからね」

穏やかな声だった。瞳だけが、氷のように冷たい。

「同じ音域でも、質を変えた。君の目でも、簡単には読めないだろう?」


澪が半歩退いた。

白銀が、床の境界を這う。内側へ絞られた不規則な軌道が、先読みを裏切った。

澪が弾こうとして、一手遅れる。

シュウ、と静かな音。白銀の切っ先が、澪の上着の胸元を裂いていた。

澪は裂け目に目を落とし、動きを止めた。


「……なんで」

掠れた声だった。

「トレブルは、一つを極めるものでしょ。解放か封印か、どちらかに特化してこそ出力が出る。なんであんたみたいな中途半端な男が、両方を――!」


声が裏返りかけて、自分で堰き止めた。笑顔を取り繕う。戻るのが遅かった。


「しょうがないよ……両方の血を持って、生まれてきてしまったから」


澪は、一瞬揺れるヨシの眼を見て、何も言い返さなかった。ファルセットの光が、ほんの一瞬、不格好に揺らいだ。


*


暗闇を割って、カガリの手が差し伸べられた。


「……カガリさん」

「トウゴ。もういい。俺と一つになれば、苦しむ必要はなくなる」


慈愛に満ちた眼差しでトウゴに言葉を紡ぐ。記憶の中のぶっきらぼうな顔とは、まるで違う。


「封印派の重圧からも、茨の道からも、解放してやる」


声が、傷の隙間へ滑らかに染み込んでくる。すべて投げ出して、

この人の隣に引きこもれたら、どれほど楽か。

ずっと、本当はそうしたかったのではないか。

指先が、迷いながら手に近づく。群青の光が揺らぎ、消えかけた。

あと数センチのところで、指が止まった。

理由は分からない。ただ、目の前の掌を見ているうちに、頭の奥で何かが引っかかった。


(……あったかい)


カガリの手は、いつも冷たかった。血の巡りが悪いのだと、昔ぶっきらぼうに言っていた。冬の稽古で握られるたび、氷のような冷たさに驚いた。

なのにこの手は、こちらが欲しがるものを測って用意したような、都合のいい温度をしていた。


(違う)


トウゴは、指を引いた。


「……あんたは、カガリさんじゃない」


差し伸べられた手が、ぴたりと止まる。笑みは変わらない。

だがその奥で、張り詰めた糸が軋んだ。


「あの人の手は、冷たかった。こんなふうに、あたたかかったことはない」


手の中で、消えかけていた群青が、力を取り戻していく。


「俺を甘やかしたことなんて、一度もない人だ。それでも俺は、あの背中に救われてきた」


偽りの姿が歪み、優しい笑顔の下から、異形のノイズが滲み出した。

トウゴは、もうそれを恐れなかった。


*

トウゴは、目を開けた。

荒れた路地に、カガリが立っていた。姿も、動きもカガリのままだ。

ただ手の中の鍵だけが濁り、輪郭が歪み、ノイズが混じっている。

それでも、鍵が地を這う軌道だけは、寸分違わずカガリのものだった。


(……癖が、まだ残っている)


動かしているのは、この人ではない。この人は、とうにいない。

残っているのは、身体に染みた戦い方と、消えきらなかった意志の欠片だけだ。

それが、抵抗するようにそこにある。

言葉は、なかった。カガリの口から漏れるのは、意味をなさない異音だけだ。

トウゴも、何も言わなかった。

群青が、地を這って正面からぶつかる。同じ流儀、同じ軌道。師弟の鍵が、火花を散らして押し合った。


(こんな冒涜を、あの人が許すはずがない)


終わらせるのは、自分でなければならない。

隣に並んで走った背中が、脳裏をよぎった。


「さよなら、カガリさん」


視界が滲んでいた。


「……クローズ」


叫ばず、怒鳴らず、祈るような低い声だった。

術式が霧散した。

カガリのいた場所に、一本の鍵が落ちていた。

濁ったノイズの残滓が薄く滲んでいる。

その奥に、本来の深い群青が、確かに残っていた。

トウゴは何も言わず、それを拾い、胸の奥へ仕舞った。


*


澪の動きが止まっていた。笑顔が消えている。冷静に勝算を弾く目でもない。

目の前で起きたことを、信じられないという顔だった。


「……本当に、自分の手で封印したの」


独り言のような声だった。


「一番大切な師匠を、こんな短時間で……」


忌々しげにそれだけ吐くと、澪の鍵が霧のように消えた。


「今日は、ここまでにしといてあげる」


背を向けて歩き出そうとした。が、


「待て」


低い声に振り向いた瞬間、トウゴはもう間合いにいた。

咄嗟に鍵で受けた澪の喉が、小さく鳴った。澪は思わず、喉に手を当てた。

次の斬撃を堪えきれず、身体が吹き飛んで段ボールの山に突っ込んだ。

崩れた山が身体を押さえ、動けない。


「貴様、触れてはいけない場所を汚したな」


トウゴの手が、鍵の柄を握って白く震えていた。


「ひっ……」

「ごーさん、待って!」


咄嗟にジョウが群青の柄を押さえる。


「待たない。こいつは、俺の大切な記憶を無茶苦茶にした」

「ここでごーさんがやったら、コイツがごーさんにやったことと、同じになる」

「……っ」

「怒りに染まっても、カガリさんは望んでないと思う」


トウゴは、何も言わなかった。喉の奥に、鉄の味がした。

怒りを飲み下したときの味だ。

ジョウの言葉が、胸のどこか柔らかい場所を押した。反論しようと開いた口が、

行き場を失って閉じる。

群青の鍵を握る掌に、汗が滲んでいた。


(……そうだな)


トウゴは鍵を収め、澪の前にしゃがんだ。手を翳す指が、一瞬だけ止まる。

ジョウに使えなかった術が、頭をよぎった。

それでも、手は下ろした。


「……やめっ…」

「クローズ」


柔らかな光が、澪を包んだ。


「ごーさん、何を……」

「記憶を封じた。幹部の頃も、法鍵士の頃も、全部だ」


静かな声だった。問うたのはジョウなのに、責められている気がした。腹の底が、まだ熱いままだった。

光が消えると、澪は瞬きをして周りを見た。


「ここは……?」

「大丈夫ですか。ここに倒れてましたよ」

「そうなんだ……でも」


澪は三人を見渡した。


「貴方たち、どこかで会ってない?」

「人違いです。よく言われるんですよ」


トウゴが答える。澪はふらふらと立ち上がり、スマホを取り出しながら、倉庫街の方へ歩き去った。その背中が見えなくなるまで、三人は黙って見送った。


「……放っておいていいのかな」


ジョウが小声で聞く。

「記憶がない以上、もう脅威じゃないよ」ヨシが答えた。「それに、今は僕らも動ける状態じゃない」


夜風が頬を撫でた。遠くの幹線道路の音が聞こえてくる。

澪の結界が霧散し、遮られていた世界の音が、一気に戻ってきた。

荒れた路地に、三人の息遣いだけが重なる。

トウゴは地面に目を落としたまま、手の中の群青を仕舞った。

それから、ゆっくりと二人の方へ向き直る。


「ごーさん……」


ジョウの声が、震えていた。

トウゴは答えなかった。ただ、顔を上げた。

涙の痕が、頬に残っていた。


「二人とも……ただいま」


ジョウとヨシは、何度も、静かに頷いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。