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第12話 覚えていない狂気

* * *


絆創膏の下の傷が、じくりと疼いた。嘘を重ねた分だけ、帰り道が長い。

夕暮れの空気が、また肌に絡みついてくる。

クラヴィスのあの日から、まだ日は浅い。

分かってはいた。この時間、この場所に来るのは危険だと。

なのに、足は勝手にいつもの路地へと向いていた。


(また……来てしまった)


ジョウは自嘲気味に息を吐く。フェンス沿いの錆びた匂いが、鼻先を掠めた。

ここは安心する場所のはず。でも今は、その安心こそが罠のように思えた。


一歩、踏み込む。

特に何も、変わらない。

色は褪せていない。空気も薄くない。夕方の、ただの路地だ。

それが逆に、ジョウの中の警戒心をわずかに緩めた。


――背後で、空気が動いた。


音ではなかった。気配というより、殺気に近い何か。

うなじの産毛が、逆立つ。

考えるより先に、身体が横に跳んでいた。


風を切る音。

すぐ耳元を、何か鋭いものが掠めていく。


「――っ!」


転がるようにして距離を取り、ジョウは振り返った。

そこに立っていたのは、大学で何度か見かけたことのある顔だった。

名前は知らない。話したこともない。

いつも図書館の隅で、一人資料を漁っていた――そんな印象しかなかった男。


だが今、その顔は別人のようだった。


小さな折りたたみナイフを握った手が、小刻みに震えている。

恐怖からの震えではない。興奮からの震えだ。

薄暗がりの中、男の目だけが異様な光を宿していた。


「惜しい、な……惜しかったなぁ……!」


引きつった高い笑い声が、路地に響いた。


「な……なんだよ、お前……!」


ジョウは喉を押さえたまま後ずさる。

声を出そうとした。だが、震える喉の奥からは掠れた息しか出てこなかった。

いつものあの振動が、ない。

出かけては、消える。何度も、何度も。


(出ない……なんで、なんで出てくれないんだ……!)


汗が背中を伝う。頭の中が真っ白になりかけていた。

異形が相手なら、まだよかった。人ならざるモノだと、割り切れた。

だが今、目の前にいるのは――同じ大学に通う、ただの人間だ。

その事実が、かえってジョウの喉を締め上げていた。


「あの動画の光、あんたの喉と同じだって……教えてもらったんだ。ずっと探してた」


男はナイフを軽く振りながら、じりじりと間合いを詰めてくる。

その足取りに、ためらいの色は欠片もなかった。


「なあ、教えてくれよ。ずっと気になってたんだ」


男の声が、興奮を隠しきれずに上ずる。


「鍵って、その首を掻っ切ったら出るのか……?

それとも――少しずつ、皮を剥いでいったら出てくるのかなぁ?」


言葉の意味を理解するのに、一拍かかった。

理解した瞬間、ジョウの背筋が凍りついた。


「お、お前、頭おかしいんじゃないの……!」

「おかしくなんかないさ」


男は心外だとでも言いたげに、口角を吊り上げる。


「だって、あんたは普通の人間じゃないんだろ?

喉から光る鍵が出るなんて……そんなの、人間じゃない証拠じゃないか。

だったら、少し傷つけたって――構わないよなぁ?」


理屈になっていない理屈を、男は本気で信じ切っていた。

その目に迷いは一切ない。

ジョウはそれが、何よりも恐ろしかった。


じり、じり、と後退る。

気づけば、背中に冷たい感触。

フェンスの網目が、シャツ越しに肌へ食い込んでくる。


(逃げ場が……ない)


左右を見る。細い路地の両側は、高いフェンスと壁に挟まれている。

戻る道は、男が塞いでいた。


「さあ、大人しくしてくれよ……なぁに、そんなに痛くはしないから」


男が一歩、また一歩と距離を詰める。

ナイフの刃が、最後の夕陽を反射して鈍く光った。


ジョウはもう一度、喉に力を込めた。

声にならない声を、必死に絞り出そうとする。


「た、頼む……出て、くれ……ッ」


ジョウの声に反応するかのように、光が、喉の奥でわずかに滲む。

だが、震える意識ではそれを形にすることができない。

男が、笑みを深めながらナイフを振り上げた。


「じゃあ――まずは、少しだけ」


刃が、迫る。

その刹那。


「――ッ、ジョウ!!」


低い声が、路地に響き渡った。


*


振り下ろされかけた刃が、宙で止まる。

止めたのは、群青の光を纏った鍵の柄だった。トウゴだ。

フェンスを飛び越えるようにして割り込んできたその勢いのまま、

男の腕を掴み、手首を捻り上げる。


「――ッ、ぁ……!?」


ナイフが、乾いた音を立てて地面に落ちた。

男が悲鳴とも呻きともつかない声を上げる。

だが、それを気にする素振りすら、トウゴは見せなかった。


「大丈夫か」

「……なんで、ここが」

「お前の鳴りが、俺達に共鳴して届いた」


短く、それだけをジョウに投げる。振り返りもしなかった。

答える余裕すら、ジョウにはまだなかった。

腰が抜けたように、その場にへたり込む。

喉の奥で、ずっと出せずにいた震えが、今更のように込み上げてきた。


「ジョウ!」


反対側から駆け寄ってきたヨシが、ジョウの肩を支える。

その顔には、いつもの飄々とした余裕はなかった。


「怪我は……ない、よね?ないよね?」

「あ……ああ、多分」


自分の声が、他人のもののように遠くで聞こえた。

トウゴに組み伏せられた男は、地面に押さえつけられたまま

なおもぶつぶつと何かを呟いていた。


「惜しい……惜しかったのに……あと少しで……」


その目には、まだ狂気の色が消えていなかった。

トウゴが男の後頭部を地面に軽く押しつけ、低い声で吐き捨てる。


「黙れ」


それ以上、男が言葉を発することはなかった。


*


数十分後。

路地には、通報で駆けつけた警察の赤い光が点滅していた。

現場から少し離れた場所で、ジョウは毛布を肩にかけられたまま

ぼんやりとその光景を眺めていた。


「事情聴取、あとでまた来るからな。……宮田、行くぞ」


警官の一人が、男の名を呼びながら連行していく。

――宮田。ジョウはその時初めて、男の名前を知った。

両手を拘束されながらも、宮田はまだ何かをぶつぶつと呟いていた。

その様子を、少し離れた暗がりからトウゴがじっと見つめている。


「……ちょっと、いいですか」


トウゴが警官に短く声をかけ、パトカーへ向かう宮田の傍らに歩み寄った。

不審に思われないよう、肩に軽く手を置く――ただそれだけの動作。

警官の視線が一瞬逸れた、その隙。


トウゴは手の甲をそっと口元に寄せ、誰にも聞こえないほどの声量で

低く、短く、何かを紡いだ。

口元が動いた。唇の形だけが『クローズ』と読めた 。

宮田の瞳から、ほんの一瞬だけ、光のようなものが抜け落ちた。


「……あれ、俺、何して……」


宮田が戸惑ったように目を瞬かせる。

だが、それ以上、何も気づかなかった。

警官に促されるまま、大人しくパトカーへと乗り込んでいく。


トウゴはその背中を、何も言わずに見送っていた。

表情に、変化はなかった。

ただ、鍵を握っていたはずの右手が、いつまでも半端に開いたままで。


少し離れた場所から、その一部始終をヨシが見ていた。

何も言わず、ただ黙って缶コーヒーのプルタブを開ける音だけが、静かに響いた。


* * *


事件から、一か月ほどが過ぎた。

大学構内では、あの事件のことは瞬く間に噂として広まり、

そしてまた瞬く間に忘れ去られていった。

被害者であるジョウの名前は、幸いにも表沙汰にはならなかった。


「措置入院になったらしいよ」

「精神鑑定の結果次第、ってやつかな。まあ、当然っちゃ当然か」


拠点の机に頬杖をついたヨシが、缶コーヒー片手にそう言った。

ジョウはその言葉に、思わず眉を寄せる。


「結局、警察もあんまり深くは調べなかったみたいだね」


ヨシの声には、皮肉とも諦めともつかない色があった。

トウゴは何も言わず、棚の書類整理を続けている。

その背中に、ジョウは何かを問いかけようとして――やめた。

聞いても、答えは返ってこない気がしたからだ。


「……アイツ、これからどうなるんだ?」

「さあ。少なくとも――」


ヨシが、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「もう、ジョウのことは覚えてないと思うよ」


その一言に、部屋の空気がわずかに沈んだ気がした。

ジョウはそれ以上、何も聞かなかった。


*


それから、しばらく時が経った。

オカルトサークルの噂を、ジョウが再び耳にしたのは

学食での何気ない世間話の中での出来事で。


「聞いた?オカルトサークル、名前変わったんだって」

「ああ、あの『法鍵士《ほうけんし》サークル』ってやつ?」


「あのオカルトサークルって、なんか大変だったとこでしょ」

「そうそう。でも、後任のサークル長がすごい熱量でさ。毎週集会開いて、目撃情報まとめてるとか」


その名前を耳にした瞬間、ジョウの箸を持つ手が止まった。

――サークル長。


聞き覚えのある単語が、頭の中で嫌な形で繋がっていく。

まさか、とは思う。だが、確信めいた予感もあった。


「……サークル長って、どんな奴なんだ?」


思わず口を挟んだジョウに、話していた学生が怪訝な顔をする。


「え?知らないけど……なんか、大人しい系?

でも法鍵士《ほうけんし》の話になると人が変わるらしいよ。すごい熱量でさ」


(人が変わる……)


その言葉が、妙に胸の奥に引っかかった。

ジョウはそれ以上、何も聞けなかった。

ただ、箸の先だけが、少しの間、宙で止まったまま動けないでいた。


――アイツは、もう。ワシの事なんて、覚えてない。

それなのに、あの日の熱だけは、形を変えてまだそこにある。


そのことに、安堵すればいいのか。

それとも、恐れればいいのか。

ジョウには、まだ分からなかった。


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