第1話 泥まみれの聖女は、戦場の地獄で祈りを捧ぐ
鉄錆と血の混じった臭いが鼻につき、泥を跳ね上げるブーツの音が耳を打つ。
ここは、三年に及ぶ泥沼の戦場、その最前線。
悲鳴や怒号が入り混じる地獄絵図の中、場違いなほど澄んだ声が響いた。
「怪我人は一キロ自国側に進んだ場所にあるテントへお願いします! 自力で移動できない人は、声をかけてください、私が今すぐ治療します!」
泥にまみれ、それでもなお凛と声を張り上げているのは、まだ十五歳ぐらいの少女――聖女イリスだった。
本来なら、後方の安全な場所にいるべき貴族の令嬢だ。数ヶ月前、俺が「危ないから前に出るな」と叱ったとき、彼女は「それでは助からない命があります」と、真っ直ぐに俺を睨みつけてきた。
自分の命すら勘定に入れていないような、その瞳。
あの日、少女に本気で怒鳴られた俺は、たぶん、その時から彼女から目が離せなくなったのだ。
「お前たち! こちらには勝利の女神、イリス様がいらっしゃるのだ! 死にたくなければ、イリス様の光が届く場所で戦え――――!」
俺の咆哮に、疲弊しきった兵士たちが「お――――!!」と地を揺らすような声を返す。
イリスの放つ治癒魔法は、この世のものとは思えないほど清らかだ。彼女は「傷を洗う程度の初歩的な魔法です」なんて言っているが、実際はどうだ。深く裂けた腹も、本来なら手遅れのはずの重傷も、彼女が触れれば淡い光と共に、文字通り『無かったこと』になる。
この三年、半分にまで減った俺たちの命を繋ぎ止めてきたのは、間違いなく彼女だった。彼女の存在は、俺たち兵士の士気に直結していた。
開戦から半年も経たずに兵が半減した地獄のようなこの戦場に、彼女が聖女として参加したのはその半年後。それからの二年間、彼女は膨大な魔力で死の淵にいた者たちを救い続け、今ではこうして最前線を走り回りながら、絶望を光で塗り替えている。
「きゃっ!」
「ふんっ!」
イリスの横顔を狙った矢を、俺は剣で叩き落とす。
「言っただろう、イリス。俺の目が届く範囲にしろ。お前は俺が守ってやる」
「……ヴァ、ヴァレント様! ありがとうございます。でも、今は治療を優先させてください!」
頬を赤らめながらも、彼女はすぐに次の負傷者へと駆け寄る。戦場の花。誰かが呼んだその二つ名は、最後まで俺たちの希望だった。
そして――。
俺が敵国の王子を討ち取ったことで、ようやく、長かった戦争は幕を閉じた。
――これでやっと、泥まみれじゃない場所で、彼女とゆっくり話ができる。
そう信じて疑わなかった俺は、この時、まだ何も分かっていなかったんだ。
勝利を捧げたはずの王都に、どんな醜悪な裏切りが渦巻いているのかを。




