第36話 レイガスの日報、百点
赴任十六ヶ月目。
レイガスの日報が、変わった。
俺のデスクの引き出しには、一年分の日報帳が積まれている。全部、俺が保管している。赤字だらけの初期のものから、赤が消えていく過程が、そっくり残っている。これは、レイガスの成長記録だ。そして、俺の教育記録でもある。
最初期の日報は「魔動灯が消えていた。以上」だった。誰が直したのか、いつ直したのか、報告の体をなしていなかった。赤字だらけで返した。
次の段階は「壁を直した。以上」。動詞と目的語は揃ったが、主語がない。赤字を入れた。『誰が、何を、どこで、いつ直したのか書いてください』。
返ってきたのは「俺が壁を直した。今日。学校の東壁。以上」。主語、目的語、時間、場所。全部入った。だが、文体が投げやりだった。赤字を入れた。『充分です。次は、使った資材と量も書いてください』。
その次が「壁の修繕。材料:石板三枚、漆喰一缶。費用:倉庫在庫から」だった。資材が入った。だが、「修繕」という単語を主語にしている。赤字を入れた。『主語は「人」にしてください。「レイガスが」で始める』。
次の日報は「レイガスが学校東壁を修繕。石板三枚、漆喰一缶使用。倉庫在庫より。以上」だった。かなり良くなっている。だが「以上」で終わるのが気になった。赤字を入れた。『良い報告です。「以上、報告します」と書いてください。報告書には「終わりの形」が必要です』。
(前世の新人教育でも同じことをやった。報告書はフォーマットだ。「始まりの形」と「終わりの形」が揃えば、中身は後からついてくる。——この男は、フォーマットを一つずつ吸収していく。戦闘のフォームを覚えるのと同じ要領で)
それから半年。赤字の量が減っていった。月に十箇所だったのが五箇所になり、三箇所になり、先月は一箇所だけだった。
そして今日の日報が、デスクの上に置いてあった。
『十六ヶ月目第三週。南区魔動灯整備巡回報告。巡回箇所:南区全域十二基。うち、交換要一基(番号S-07、光魔晶の出力低下)。交換用光魔晶は倉庫在庫から使用。在庫残数:四個。補充の要否について、フィーネ様に確認を依頼済み。巡回中、南区三丁目の路面に亀裂を確認。修繕の仕様書を別紙添付。——以上、報告します。レイガス』
俺は日報を二度読んだ。
巡回箇所。点検結果。交換の必要性と根拠。在庫との照合。上位者への確認依頼。別件の発見と仕様書の作成。——全部入っている。
赤字を入れる箇所がない。
(——赤を入れる必要がない日報。一年前の「やった。以上」の男が、これを書いた)
俺は万年筆を取った。赤ではなく、青のインクに替えた。
欄外に書いた。
『百点です。——この日報は、行政文書として完成しています。レイガスさん、ありがとう』
◇ ◇ ◇
午後。廊下でレイガスとすれ違った。
レイガスは何も言わなかった。だが、目が少し揺れていた。日報を読んだのだろう。
「レイガスさん」
「……何だ」
「赤字がなかったの、気づきましたか」
「……気づいた」
「どう思いましたか」
レイガスが黙った。長い沈黙。前世なら気まずい沈黙だが、この男の場合は言葉を探しているのだ。
「……これでいいのかと思った」
「いいんです」
「本当にいいのか。間違ってないのか」
「間違ってません。——前世で百点の日報を書ける新人は、三年目でもほとんどいませんでした」
「……おれは新人なのか」
「行政に関しては、一年生です。でも、一年生で百点を取ったんです」
レイガスが壁にもたれた。腕を組んで、天井を見た。何かを考えている。
「フィーネも百点だったんだろ。予算案」
「はい」
「……おれは、予算案は書けない」
(フィーネが百点を取ったことを、この男は知っている。——あのチビが猫の絵つきのメモを見せて自慢してきたのだろう。チート転生者に自作の絵を自慢する領主も大したものだが、それを素直に聞いているこの男も変わったものだ)
「書く必要はありません。あなたの仕事は現場です。現場の報告が正確であれば、予算はフィーネ様が組みます。——分業です」
「分業」
「はい。前世では、何百人もの職員がそれぞれの仕事をして、全体が回っていました。一人で全部やる必要はない」
レイガスの目が、一瞬だけ遠くなった。
「……前世では、一人で全部やってた。ゲームだけど」
「ソロプレイですね」
「ああ。全部一人でやるのが当たり前だった。——パーティーを組んだことがない」
(この男は、前世でも今世でも「一人で全部やる」ことしか知らなかった。チートという最強の個人戦力を持って、一人で街を壊し、一人で責任を背負った。——分業の概念がなかったのだ)
「レイガスさん。あなたは今、パーティーを組んでいます」
「……パーティー」
「フィーネ様が予算を組み、アルノルドさんが住民をまとめ、マリアさんがパンを焼き、エルザさんが薬草を管理し、あなたが現場を巡回する。——そして、俺が仕様書を書く。全員で一つの仕事をしています」
レイガスが黙った。それから、小さく言った。
「……パーティーか」
「はい。あなたの役職は『公共土木担当兼治安巡回』です」
「……長い」
「行政の役職は長いものです」
レイガスの口元が、僅かに動いた。笑顔ではない。でも、何かの感情はあった。
俺はその後もしばらく廊下に立っていた。レイガスの歩き去る背中を見ていた。
(拡大解釈かもしれないが——今の歩き方は、赴任初日に見た「世界を敵視している男」の歩き方ではなかった。少しだけ肩の力が抜けている。——「百点」の一言がそうさせたのだとしたら、言葉の力というのは大したものだ)
◇ ◇ ◇
夜。レイガスの日報帳を返却ラックに戻した。青字の「百点」がそのまま残っている。
振り返ると、フィーネが執務室の前に立っていた。
「ナカムラさん。レイガスさんの日報、百点だったって本当ですか」
「本当です」
「私の予算案に続いて、二人目の百点ですね」
「はい」
フィーネが嬉しそうに笑った。——他人の百点を自分のことのように喜ぶ。この子の一番良いところだ。
「ナカムラさんは百点じゃないんですか?」
「俺は採点する側です。——採点者は百点をもらえません」
「それって、ちょっとかわいそうです」
(かわいそう。——前世でも、人事考課を書く側がA評価をもらうことは稀だった。あの上司もこう思われてたのかな)
フィーネがメモ帳を取り出して何か書いた。見せてくれた。
「ナカムラさん。ひゃくてん」
その横に、猫の絵。猫が万年筆を持っている。
(猫が万年筆を持っている。——先生役の猫だ)
「ありがとうございます。——ただし、これは公式の人事考課には反映されません」
「いいんです。私が決めたんですから」
(領主権限で百点。——行政上の根拠は皆無だが、もらっておく)
「朝、起きた。広場を歩いた。魔動灯が一つ消えていた。——以上」
それが一年後には——
「南区魔動灯整備巡回報告。巡回箇所:南区全域十二基。交換用光魔晶は倉庫在庫から使用。在庫残数:四個。補充の要否について、フィーネ様に確認を依頼済み。——以上、報告します。レイガス」
赤字を入れる箇所がなかった。
青のインクに替えて、書いた。「百点です」。
フィーネからのメモ——「ナカムラさん。ひゃくてん」。猫が万年筆を持っていた。
領主権限で百点。行政上の根拠は皆無ですが、もらっておきます。
▶ 次話「治安という最後のピース」——五つの課題、最後の一つ。
チートの力を「暴力」ではなく「存在感」で使う。
あなたの☆が、作者への「百点」です。




