第28話 日報、三行
レイガスの日報は、毎日届くようになった。
最初は三行。それが五行になり、七行になった。
『南区の魔動灯も確認。三つ切れていた。交換した。住民のおばさんに「明るくなったね」と言われた。名前は……聞いてない。聞き方がわからなかった』
俺は赤字を入れた。
『名前は「お名前を教えていただけますか」で大丈夫です。全住民の名前は台帳に載っています。顔と名前を覚えるところから始めてください』
翌日。
『おばさんの名前はクラーラ。南区の魔動灯を直したらお礼にカブをもらった。断りきれなかった。——カブ、うまかった。前世では野菜を食った記憶がない』
(カブのくだりは業務報告に不要だが、消さない。この男にとっての「最初の一歩」は、住民にカブをもらうことだったんだから。——しかし「前世では野菜を食った記憶がない」は、公務員として少し心配になる)
◇ ◇ ◇
数日後。帰還民の子供たちが、レイガスに近づき始めた。
きっかけは魔動灯の修理だった。レイガスが光魔晶を交換する作業を、残留民の男の子——クラウスの息子のトビアスが見つけた。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「……魔動灯を直してる」
「すごい! 光った!」
レイガスが固まった。——子供に「すごい」と言われた経験が、おそらくない。
「別にすごくない。光魔晶をはめただけだ」
「でも光ったよ! すごい! おにいちゃん、またやって!」
リッカがトビアスの後ろから顔を出した。
「……キラキラ」
五歳の女の子の「キラキラ」は、おそらく「光がきれい」という意味だろう。レイガスはその言葉に、二度目の固まりを見せた。
トビアスは以前、倉庫から食べ物を盗んでいた子だ。配給が始まってからは、列に並んで笑っていた子だ。その子が、レイガスに「すごい」と言っている。
(「盗まずに済む仕組み」があるから、この子は笑える。笑えるから、レイガスに声をかけられる。——仕組みが、人と人を繋ぐ)
残留民の子供も集まってきた。レイガスの周りに、五人、六人と増えていく。帰還民のヴェンツェルの近所に住むアダムという八歳の男の子が、少し離れた場所から様子を窺っていたが、トビアスに手を引かれて輪に加わった。
「お兄ちゃん、剣も使えるの?」
「……ああ」
「見せて見せて!」
「——ダメだ。危ない」
「えー!」
「じゃあ、かわりに「あいうえお」をおしえて!」
「……なんだそれ」
「フィーネ先生からもらった」
トビアスが小さな手で、インクの染みた紙切れを差し出した。フィーネが台帳の作業中に子供たちに配った「あいうえお」の練習済み。字は曲がっているが、一生懸命書いたのがわかる。
レイガスは紙切れを受け取って、じっと見つめた。前世では、誰かに何かを渡された経験がいつあっただろう。グリフォンからのチャット。——今度は、画面の中ではなく、生身の子供から。インクの染みた小さな手から。
レイガスの目尻が、かすかに下がった。
「……字、曲がってねーか」
「レイガスおにいちゃんのは?」
「俺の字はもっと曲がってる」
子供たちが笑った。レイガスは笑わなかったが、口の端が少しだけ動いた。——それは、この男がこの世界で初めて見せた笑顔のかけらだった。
(レイガスが「危ない」と言って断った。——この男は、子供の安全を考慮する能力がある。「社会性がない」のではなく、「発揮する機会がなかった」だけだ)
日報に書いてあった。
『子供に囲まれた。めちゃくちゃうるさい。でも、嫌じゃなかった。——なんでだろう。わからん。前世ではこういう経験がなかった。グリフォンに会いたくなった。もういないけど』
俺は赤字を入れなかった。代わりに、欄外に一言書いた。
『今のレイガスさんなら、オフ会に行けると思います』
翌日、日報が来た。最後の行に、一言だけ書いてあった。
『……そうだといいな』
◇ ◇ ◇
その日の昼、アルノルドが畑仕事の帰りに執務室に寄った。レイガスの日報に目を通して、ぼそっと言った。
「……あの男、変わったな」
「ええ。日報の効果です」
「日報だけじゃねえよ。——フィーネの嬢ちゃんだ。毎日飯を運んで、花を添えて、拒絶されても引かなかった。あの子は、昔からそうだ」
「昔から?」
アルノルドが腕を組み直した。いつもの渋面だが、目だけが少し遠くなった。
「お前が来る前のことだ。先代が死んで、レイガスが出ていって。——あの子は、一人だったんだよ」
「侍従はいなかったんですか」
「最後の侍従は、レイガスの暴発が怖くて逃げた。——あの子が十一の時だ。それから二年間、あの広い屋敷に一人で寝て、一人で起きて、一人で帳簿を抱えて座っていた」
俺は黙った。
「飯は俺が届けていた。毎日は行けなかったがな。畑があるから。——行くと、あの子は必ず帳簿を読んでいた。読めもしない帳簿を。先代の真似をして」
「読めないのに」
「読めないんだよ。でも、開いて眺めていた。毎日。——あの子に聞いたことがある。『何してるんだ』と。あの子は言った。『お父さんがやっていたことを、やっています』と」
(——十一歳の少女が、読めない帳簿を毎日開いていた。大人が誰もいない屋敷で。それが、フィーネの「ナカムラさんが来る前」だったのか)
「パンはどうしていたんですか。料理は」
「マリアが時々持ってきてくれた。あとは、保存食を自分で食っていた。——パンの切り方があの子が不揃いなのは、教わったことがないからだ。黒パンを一人で齧っていた。切り方も知らずに」
アルノルドの声が、わずかに低くなった。
「……あの頃のことは、今でも申し訳なく思っている。俺がもっと顔を出していれば」
「アルノルドさん。あなたが畑を守っていたから、フィーネ様の領地に食料があった。——それは、大きなことです」
「……そうか」
「フィーネ様が帳簿を読めなくても開いていたのは、行政官の本能です。教わらなくても、領主としてやるべきことを探していた。——あなたが見ていたのは、この子の原点です」
アルノルドが黙って頷いた。大きな手で顔を拭った。泣いてはいないが、目が赤かった。
(十一歳から二年間。一人で帳簿を開き、一人で黒パンを齧り、一人で屋敷に寝た。——俺が来た時、この子が「ごめんなさい」しか言えなかったのは、謝る相手すらいなかったからだ。それでも帳簿を開き続けた。——この子の強さの根は、あの二年間にある)
◇ ◇ ◇
レイガスの日報が変わった。
業務報告として機能し始めたのだ。
『北区の倉庫裏、石畳が三枚割れている。修繕必要。位置は台帳の地図で「北-12-3」。自分で直せるか確認する。——あと「なんかデカいやつ」が森の境界にいた。魔獣かもしれない。体長推定三メートル。刺激しなければ近づいてこない感じ。巡回の注意区域に追加すべきか。以上、報告します』
俺は赤字を入れた。
『「なんかデカいやつ」について、毛色、角の有無、行動パターンを追加で記載してください。リーザさんに見せに行けば、種名が判明する可能性があります』
翌日の日報。
『「なんかデカいやつ」、茶色、角二本、木の実を食っていた。リーザ婆さんに見せたら「森鹿の種だよ」と言われた。大人しいヤツらしいが危険はないとのこと。以上、報告します』
(「以上、報告します」。——この男は今、報告の書き方を自分で覚え始めている。そして、俺のフィードバックを受けて、「なんかデカいやつ」が「森鹿」であることまで突き止めた)
フィーネが日報を読んで笑った。
「『なんかデカいやつ』って、もうちょっと詳しく書いてほしいですよね」
「そのうち書けるようになりますよ」
「ナカムラさん。レイガスさんの日報、最初の頃と全然違います」
「そうですね。位置情報や『台帳の地図』という引用まで入るようになった」
「それと、『なんかデカいやつ』って書き方が、ちょっと面白いです」
「あれは術語を知らないからです。教えましょうか」
「いえ、そのままのほうがいいです。『なんかデカいやつ』のほうが、緊迫感があります」
「フィーネ様。それは術語の緊迫感ではなく、語彙の欠如です」
「でも、わかりやすいでしょ?」
(……否定できない。「なんかデカいやつ」は確かにわかりやすい)
(フィーネ様の報告書の読み方が、確実に成長している。内容を読み取り、評価し、改善点まで指摘しようとする。——「きたくのいど」と書いていた子が)
(そうだ。三行が十行になった。「何もない」と言っていた男が、今は巡回ルートの報告をしている。——成長速度で言えば、フィーネ様より遅い。だが方向は同じだ)
「日報の『以上、報告します』も、最初はなかったですよね」
「ああ。あの一言を自分で付け始めた時、レイガスさんは『報告する相手』がいることを意識した」
「『報告する相手がいる』……」
「一人プレイには、報告が要りません。報告が存在するということは、誰かがいるということです」
フィーネが頷いた。メモ帳を取り出して、書いた。
「ほうこくするあいてがいる=ひとりじゃない」
(この子のメモは、いつも本質を突く)
三行が五行になり、七行になった。
おばさんにカブをもらって「うまかった」と書いた。
子供に囲まれて「嫌じゃなかった」と書いた。
「グリフォンに会いたくなった。もういないけど」と書いた。
日報は、最小単位の自己肯定装置。
そして——「今のレイガスさんなら、オフ会に行けると思います」。
▶ 次話「土地と、居場所と」——レイガスの処遇、最終決定。
チートの力を、行政にどう組み込むのか。ナカムラの提案。
感想も一行から。☆評価・リアクション、気軽にどうぞ。




