第20話 焦げた土と三圃制
赴任から七ヶ月目。初秋。
朝もやが丘の稜線に薄く残っている。風に混じる匂いが変わった。夏の草いきれが消え、土と枯葉の匂いが立ち始めている。
俺は畑の前に立っていた。
畑、と呼んでいいのかわからない。レイガスが魔法で無理やり開墾した土地は、表面が焼け焦げたように硬く、雑草すら満足に生えていなかった。土を手に取ると、粉のように崩れる。色が灰色だ。生きた土は黒い。この土は死んでいる。
「ナカムラさん。この畑、何も育たないんです。前から何度も蒔いたんですけど、芽が出て枯れて、芽が出て枯れて……」
アルノルドが渋い顔で言った。隣でフィーネが心配そうにしゃがみ込んで、灰色の土をつまんでいる。赤毛が風に揺れて、口元にかかった。ふっと息で払う仕草が、やけに幼い。
「土が死んでるんですよ。レイガスの魔法で焼かれた土壌は、養分が全部飛んでいます」
(前世の農業委員会で相談を受けたことがある。化学肥料がない以上、堆肥と輪作で地力を回復させるしかない。農業委員会は二年しかいなかったが、こういう時に役に立つ)
「アルノルドさん。三圃制をご存じですか」
「三圃制? いや、聞いたことないな」
「畑を三つの区画に分けます。一つ目に冬の麦を蒔く。二つ目に春の作物——カブや豆。そして三つ目は何も植えず、休ませる。一年ごとに順番をずらします」
「休ませる? 畑を?」
「はい。もっと言えば、三つ目の区画は『ただ休ませる』のではなく、家畜を放牧します。家畜の糞が肥料になる。翌年そこに麦を蒔くと、肥えた土で育ちがいい」
「なるほど。で、その麦の次には春の作物を植えて、三年目に休ませるのか。——ぐるぐる回すわけだ」
(この人は飲み込みが早い。農家だった経験が活きている)
「土も人間と同じです。働きっぱなしだと壊れます。でも、休ませれば回復する。——ちなみに前世の上下水道課でも同じ理屈がありまして」
「上下水道?」
「水道管も、使い続けると劣化します。計画的に更新する。インフラ管理の基本です」
アルノルドが腕を組んで黙った。五秒ほどして、ぼそっと言った。
「……先代もそんなことを言っていたな。『畑には休みが要る』と。だが、レイガスが来てからは『魔法で何とかなる』で、全部ぶっ飛んだ」
(チートが農業技術の継承を断絶させた。前世でもあった。長年の技術者が退職して、ノウハウが消える。ここではチートがその役割を果たした)
「まず、この焦げた土地に堆肥を入れます。家畜の糞、落ち葉、残飯。全部集めて発酵させる」
「糞を?」
「はい。堆肥は、死んだ土を生き返らせる最も基本的な方法です。三ヶ月から半年で土に還る」
フィーネがメモ帳に書いている。「たいひ=つちを生きかえらせる」
(この子は最近、簡易文字に混じって少しずつ正字が増えている。「堆肥」はまだ無理だろうが、「土」と「生」は正字で書いていた。前に比べると格段の進歩だ)
「ナカムラさん。堆肥って、どのくらいの量が要りますか」
フィーネが真剣な顔で聞いた。
「焼けた区画の面積から逆算すると——」
フィーネがメモ帳をめくった。そこには、領地の地図と区画の面積がメモされていた。——棚卸しの応用だ。この子は教わったことを別の場面で使い始めている。
「この区画が、百歩四方の面積三つ分ですから——堆肥は……」
(前世の単位で言えば約三反。不正確だが目安にはなる)
◇ ◇ ◇
堆肥の仕込みは、排水溝清掃に次ぐ「臭い仕事」だった。
住民を募った。日当制。今回は二十人集まった。排水溝の時は十二人だった。
(日当が払われると知ったら人が来る。信頼の蓄積が参加率を上げている。——行政の成果は、次の行政を楽にする。前世の係長が言っていた。「最初の一回が一番きつい。二回目からは楽になる」。その通りだ)
三日間で、領地の外周に堆肥場を三箇所作った。悪臭がすごい。フィーネが鼻を押さえている。目が潤んでいるのは涙ではなく、アンモニアのせいだ。
「ナカムラさん。これ、本当にいい匂いになるんですか」
「いい匂いにはなりません。いい土になります」
「……同じですよね?」
「全然違います」
フィーネが「うぅ」と呻いた。小さな体で堆肥場の柵を支えているが、風向きが変わるたびに顔をそむける。それでも手は離さない。
(この子は嫌なことから逃げない。排水溝の時もそうだった。臭いのは嫌がるが、仕事を放り出さない)
マリアが差し入れにパンを持ってきた。
「ナカムラさん、堆肥場のそばでパンを食べるのは精神的に無理ですが」
「場所を変えましょう」
「お願いします」
「堆肥が土に還るまで、数ヶ月かかります。行政の成果はすぐには出ません。待つのも仕事です」
フィーネが小さく頷いた。メモ帳に「ぎょうせい=まつ仕事」と書いた。「仕事」は正字だ。
◇ ◇ ◇
堆肥が効き始めるまでの間に、使える区画を整備した。
焼けていない北側の土地に、冬麦を蒔いた。フィーネが種蒔きを手伝った。小さな手で一粒ずつ丁寧に土に埋めている。
「フィーネ様。もう少し間隔を空けてください」
「これくらいですか」
「もう少し。——手のひら一つ分くらいです」
フィーネが自分の手のひらを見た。小さな手だ。俺の手のひらの半分もない。
「ナカムラさんの手のひらですか、私の手のひらですか」
「……フィーネ様の手なら二つ分にしてください」
(こういう基準の曖昧さは、前世のマニュアル作りでも頭を悩ませた。「適量」「少々」は最悪の計量単位だ)
小さな芽が出るまでに二週間かかった。
芽が出た朝、フィーネが走ってきた。執務室の扉を勢いよく開けて、息を切らして。髪留めが外れかけている。
「ナカムラさん! 芽が! 芽が出ました!」
「そうですか」
「『そうですか』じゃなくて! 見てください!」
畑に引っ張っていかれた。——文字通り、腕を掴まれた。領主に腕を掴まれて畑まで連行されるのは、おそらく行政官として前代未聞だ。
フィーネが畑の前にしゃがみ込んで、小さな緑色の芽を見つめている。朝日がフィーネの赤毛を照らしている。琥珀色の瞳が潤んでいた。今度はアンモニアのせいではない。
「……生きてます。土から、ちゃんと」
(この子が泣きそうになるのは、いつも「当たり前のこと」が戻った瞬間だ。噴水が直った時も、パンの匂いが戻った時も。——「当たり前」の対義語は「有り難い」だったか)
「フィーネ様。これが三圃制の一歩目です。この区画に冬麦。来年は隣の区画にカブと豆を植えます。再来年には——」
「再来年?」
「三つの区画が全部回り始めます。この領地の農業が、ちゃんと回るようになる」
フィーネが立ち上がって、土のついた膝を払った。スカートの裾にも泥がついているが、気にする様子がない。
「再来年かぁ……。ナカムラさん、その時もここにいてくれますか」
(——その質問には答えない。公務員は異動する生き物だ。いつか俺がいなくなっても回る仕組みを作る。それが仕事だ。——だが、「再来年」という言葉を口にするフィーネ様の横顔は、半年前より確実に大人びている。この子は未来を語れるようになった)
「まずは収穫を目指しましょう」
死んだ土を生き返らせる。
堆肥、輪作、休耕——全部、地味な方法。でも「地味」が土地を甦らせる。
「フィーネ様の手なら二つ分にしてください」
——基準の曖昧さに悩むのは、前世でも異世界でも同じです。
▶ 次話「食べることは、生きること」——カブの煮物と出汁の概念。
フィーネの包丁さばきに、若干の生命の危機が伴います。
ブックマークは種蒔き。この物語の成長を見届けてください。




