第15話 井戸端の女たち
気がつけば、季節が動いていた。朝の空気が変わっている。吐く息が白くなり始め、石畳を踏む足が冷たい。畑の隅に植えた冬麦が、小さな芽を出していた。
赴任から四ヶ月目。
朝、マリアのパン屋を訪ねた。パンを買うついでに、住民の近況を聞く。マリアは領地の情報通だ。誰が何に困っているか、パンを売りながら全部把握している。
パンを二切れ買った。一つは自分用、もう一つはフィーネ用。フィーネは朝食を抜きがちだ。帳簿を読みながら朝を迎えていることが多い。
「フィーネ様の分? あの子、ちゃんと食べてるかい」
「食事中にメモを取るのが好きなようです」
「あはは。あたしも若い頃は仕事に夢中で食べなかったけどね。——あの子、最近ちょっと顔色が良くなったよ。赴任した頃は、まるで幽霊みたいに白かったから」
(前世の上司に「顔色で健康管理しろ」と言われたことがある。マリアは天然の保健師だ)
「ナカムラさん。最近ね、井戸端で女たちが揉めてるよ」
「揉めてる?」
「洗濯場。噴水の水が使えるようになってから、みんなそこで洗濯するんだけど、場所取りで毎朝喧嘩してる」
「場所取り」
「朝四時から来る人もいてね。うちの隣のカタリーナなんか、洗濯板を置きっぱなしにして場所を確保してるんだよ。それで他の人が怒って——」
(場所取りの「置きっぱなし」は、前世の花見の場所取りシートと同じだ。公共スペースの私的占有。時代も世界も変わっても、人間のやることは同じらしい)
「あと、子供の病気。熱を出す子が増えてるのに、産婆のリーザ婆さんがもう歳で、一人じゃ回りきれない。薬草も足りない」
俺はメモを取った。
洗濯場の場所取り——公共施設の利用ルールが未整備。
子供の病気——医療体制の不備。産婆一人体制の限界。
薬草の不足——保健衛生の基盤がない。
フィーネも隣でメモを取っている。見ると、「せんたくじょ——マリアさんにきく」「こどものびょうき——リーザおばあちゃんにきく」と書いてある。「誰に聞くか」まで書いている。
(「誰に聞くか」を自分で考えている。——これは、「聞きに行く」の先に「適任者を見つける」があることを、無意識に理解しているのだ)
(前世なら保健センターと福祉課の管轄だ。この領地にはどちらもない)
「マリアさん。今度、井戸端の女性たちと話がしたいんですが、集まってもらえますか」
「あたしが声かけるよ。——でも、男の人が来ると構えちゃう子もいるから、フィーネ様と一緒に来たほうがいい」
「そうします」
◇ ◇ ◇
三日後。マリアの店の裏庭に、女性住民が八人集まった。
フィーネが隣に座っている。緊張している。猫の木彫りをポケットの中で握っている。
今日のフィーネは、母の形見の髪留めをいつもより丁寧に留めていた。小さな髪留めが赤毛にきらりと光って、少しだけ大人びて見える。「住民の前に出る時は、きちんとした格好で」と自分で決めたらしい。誰にも言われていないのに。
(髪留めを丁寧に留めてきた。——この子なりの「行政の正装」なのだろう)
「今日は、皆さんの困りごとを聞かせてください」
最初は黙っていた。だが、マリアが「あたしから言うよ」と切り出すと、堰を切ったように出てきた。
「洗濯場、毎朝取り合いなんだよ。朝五時から並ばなきゃいけない」
「うちの子、先月から咳が止まらない。でもリーザ婆さんのところは順番待ちで——」
「薬草を買いたくても、どこで買えるかわからない」
「産婆さんがあと一人いてくれたら……」
「あたしの孫も、この間熱を出してね。リーザ婆さんに診てもらうまで三日待ったよ。三日よ、三日」
「その間、お孫さんはどうしてたんですか」
「タオルをひたいに当てて、祈ってたよ。それしかできなかった」
フィーネの手が、メモ帳の上で止まった。
(三日待つ。——その三日が、命に関わることもある。保健体制の整備は、「いつか」ではなく「今」必要だ)
俺はすべてメモに書いた。フィーネも隣で書いている。
会が終わった後、フィーネが言った。
「ナカムラさん。こんなに困っている人がいたんですね。——私、知らなかった」
「知らなくて当然です。困っている人は、自分からは言いに来ません。聞きに行かなければ」
「聞きに行く……」
「フィーネ様。一つ提案があります」
「はい」
「『保健係』を作りましょう。住民の健康状態を把握して、薬草の管理と配布を行う人です」
「保健係……誰が?」
「マリアさんに聞いてみましょう。適任者を知っているはずです」
(行政のプロは、自分が全部やろうとしない。適材適所を見つける。——前世の上司の二つ目の口癖だった)
洗濯場については、利用時間の区分を決めて掲示板に貼り出した。朝五時から七時は南区、七時から九時は北区。
単純なルールだが、効果は絶大だった。翌日から喧嘩がなくなった。
フィーネが帰り道、小さく言った。
「ナカムラさん。今日の会で、私、一つ気づいたことがあります」
「なんですか」
「マリアさんに『声をかけて』ってお願いして、マリアさんが『あたしから言うよ』って切り出して、そうしたらみんなが話し始めましたよね」
「はい」
「つまり——困っている人は自分からは言えないけど、『聞いてくれる人』がいれば話せる。『聞きに行く』だけじゃなくて、『聞いてくれる人を見つける』のも大事なんじゃないかって」
(——この子は、教えていないことを自分で気づく。「聞きに行く」の先に「聞いてくれる人を見つける」がある。それは行政の本質だ。十三歳で、教科書なしでそこにたどり着くのか)
「フィーネ様。それは、非常に正しい洞察です」
フィーネが一瞬ポカンとした後、頬が真っ赤になった。
「あ、その、たいしたことじゃ——」
フィーネが両手を振った。矢印を「否定」と書くように、全身で「たいしたことじゃない」を表現している。頬のそばかすまで赤い。
(褒めると、この子は必ず否定する。褒められ慣れていないのだろう。——情は移さない、と言っているが)
帰り道、フィーネはメモ帳に何か書き足していた。覗き込むと「まりあさん→きいてくれるひとをみつける」「りーずばあさん→さんば」「ほけんがかり→だれがいい?」と書いてある。
(「誰がいい」まで自分で考えている。——「聞きに行く」「聞いてくれる人を見つける」「適任者を探す」。その三段跳びを、教えていないのに自分でたどり着いた)
「困っている人は、自分からは言いに来ません。聞きに行かなければ」
洗濯場の場所取り、子供の病気、薬草の不足——
住民の声を集めて、保健係を作り、利用ルールを掲示板に貼った。
全部、地味な仕事。でもこの地味さが、街を変える。
そしてフィーネは、教えていないことに自分で気づいた。
「聞きに行くだけじゃなくて、聞いてくれる人を見つけるのも大事」。
▶ 次話「子供が走る街」——噴水の前で子供が笑う景色。
でも、その笑顔の裏側に「治療所がない」という現実が。
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