96.レオンのワンオペ
ディアナが熱でうなされている。
結婚してから初めて、ディアナが体調を崩した。医者が簡単に言う。
「これは典型的な乳腺炎だね」
「はあ……」
レオンは乳牛のことを思い浮べたが、多分今口にしていいことではないので、そのことは心の中に留めておく。
「胸のここに、しこりがあるね」
「はい」
「ここを押しながら子どもにお乳を上げれば、この詰まった塊を子どもが吸い取ってくれるから」
「……?」
「乳腺のつまりさえ取れれば熱は引いて行く。とにかく子どもに根気強く乳を吸わせることだ」
医者はそう言い置いて出て行き、レオンは籠の中のアルベルトと向き合った。
「……アル、お前しかお母さんの病気を治せないらしいぞ」
「うー」
アルベルトは不機嫌そうに足をばたつかせ、掛布団をはいでいる。
ディアナが言った。
「レオン……私、しんどいからしばらく寝るわ。アルのお世話よろしく」
「分かった」
するとアルベルトは空気を察したのか、ふえふえと泣き始める。
「……お前が泣いてたら、お母さんが寝られないぞ」
レオンはそう囁くと、籠ごとアルベルトを持ち上げた。
「だからたまにはお父さんと水入らずで……」
「ギャー!」
アルベルトは泣き叫んだ。レオンは慌てて籠を持って外に出る。
「な、何でだよ。さっきお乳飲んだばっかりだろー?」
「ギャー!!」
埒が明かないので、レオンは息子を抱っこ紐で背中にくくりつける。きっと歩き回っている内に眠ってくれるだろう。ディアナの背中で寝ているのをよく見かけたから間違いない。
「世話が焼けるな……とりあえず、ひと眠りさせてやろう。ディアナもアルも」
レオンは泣き叫ぶアルベルトを背負うと、牛小屋の掃除を始めた。
しかしアルベルトは負けじと泣き叫び続ける。
「……おっかしーな」
と、背中に温かい感覚──
レオンはぞっとして抱っこ紐を解いた。
アルベルトはおしっこをしており、レオンの着ているシャツはびしょ濡れになっていた。
上半身裸のレオンは洗濯にいそしむ。
アルベルトは新しいおむつをあてられてすっきりした顔をし、仰向けになって足をばたつかせていた。
「はーあ」
レオンはシャツを干しながらため息をついた。
「これじゃ、仕事がはかどらないよ……」
アルベルトは自分の拳を口の中に突っ込む動作を繰り返している。
「そうだ……これですっきりしたから、寝てくれるかも」
レオンはアルベルトを抱っこした。
背中をとんとんと叩いてやり、寝かしつけを試る。
アルベルトはしっかりと目を見開いてレオンを見上げていた。
全く寝る気配がない。
「お前……お母さんといる時と様子が違うな?」
「あう!」
「元気……」
レオンは次第にぼやけてくる意識を奮い立たせ、作戦を変えた。
「そうだ。遊んであげたら、疲れて寝てくれるかも……」
アルベルトは、父親から与えられた木のおもちゃを放り投げた。
おもちゃは壁にぶつかり、無残にも真っ二つに割れた。
「あっ、新しいおもちゃなのに……!」
「うー」
「また村の商店街で買って来るしかないか……」
「う!」
何でも放り投げるお年頃なので、もっと柔らかいものがいいのかもしれない。
「アル、これはどうだ?布のボールだ」
布で出来た手縫いのボールを、アルベルトはがぶがぶと噛む。
「どうだ?楽しいなー」
しかしアルベルトは、しばらくするとまた泣き出した。
「ど、どうした?」
「ギャー!」
反り返って泣く息子を見て、レオンは察した。
アルベルトは母のお乳を欲している……
「このボールの形状……余計なことを思い出させちゃったかな」
「ぎゃー!」
「やっぱり外に行こう。これじゃあディアナが眠れないよ……」
外に出ると、アルベルトは景色が変わってようやく泣き止んだ。
しかし作業をしようと立ち止まると、再び泣き出してしまう。
レオンはあてもなく歩いた。
しばらく行くと、温泉小屋でおばさま方が集まっているところに出くわした。
レオンはほっとする。
「あら!レオンじゃないの」
「お、お久しぶりです……」
「あら、背中にいるのはアルベルト?」
「はい。アルがなかなか寝なくて……」
おばさま方はひとしきりはしゃぐと、手を伸ばして来た。
「そうなの?ねえ、どうせ寝ないなら、その赤ちゃん抱っこさせてよ」
レオンは面食らうが、なぜか救われたような気持ちになって抱っこ紐を解き、子を差し出す。
おばさまたちは代わる代わるアルベルトを抱っこした。
「可愛いわね~」
「ぷっくぷくに太って来たわね~」
「首も座って来たわね~」
その平和な光景を眺めながら、ふとレオンはディアナが子を背負って出て行ったまま、なかなか帰って来ないことがたびたびあったことを思い出した。
きっと彼女も、どうにもならなくなってこの辺りまで歩いて来たに違いない。
そして同じように、何か荷を下ろしたようにここでほっとしたことがあるに違いないのだ。
アルベルトは景色の変化を目で追うのに夢中で、いつしか泣くことをやめていた。
レオンは赤子を返されると少し心が元気になって、再び丘の上の自宅を目指した。
家に帰ると、ディアナが起きていた。
「うー……胸がパンパンに腫れて痛いのよ」
「前の授乳からかなり時間が経ってるから、吸わせてみるか?」
ディアナは横になったままアルベルトを受け取ると、彼にお乳を含ませた。
アルベルトは足をばたつかせながら、夢中になってお乳を吸い上げた。
ディアナは乳の赤く腫れた箇所を、痛みを我慢して押しながら、子に与える。
ディアナとアルベルトは添い乳をしたまま、眠ってしまった。
夕方、レオンは黙って台所で調理する。
乳腺炎の時は、乳製品を避けたほうが良いらしい。水分を取ったほうが良いとも聞いたので、水分多めの卵粥を作る。
レオンはふと呟いた。
「何も分かってなかったなぁ……」
自分もディアナも働いていた。それなのに、彼女にばかりアルベルトを背負わせていた。
「母親が倒れたら、こんなに一日が大変なのか……」
二階からディアナが降りて来る。
「はー、授乳させたらお腹が空いた……あら?」
「そう言うと思って、作っておいたよ。ほら」
「えー!?どうしたのレオン。私の頭の中でも読んだ?」
「……そうだな。読んだ」
ディアナはテーブルの席に座り、差し出された粥の湯気に顔を近づける。
「わー、美味しそう。いただきます!」
「熱いから気をつけて」
「アツッ」
「……だから気をつけてって言ったのに」
言いながらレオンは二階に上がって、アルベルトの入った籠を覗き込んだ。
息子は満足げに眠っている。
それをじっと眺めてから、レオンは再び一階へ戻った。
「……大変だったな、ディアナ」
「うーん、でも久々に寝られてスッキリしたわ。胸もだいぶ軽くなったし!」
「今度から、食事は全部俺が作るよ」
「ほんと?やったあ!」
熱が下がってようやく食欲が戻った妻を眺め、レオンは微笑む。
「これからも、がんばろうなぁ」
「どうしたの?今日のレオン、何か変」
「子どもが出来れば、誰だってどこかしら変わるよ」
「そうね……ま、良い方に変わってくれればいっか」
レオンは頬杖をついたままディアナの快男児のような食べっぷりを眺めると、そのままずるりとテーブルに身を委ね、深い眠りに落ちて行った。




