【18】恋に焦がれて泣くセミよりも 鳴かぬホタルが身を焦がす
目が覚めたとき、優しい風が吹いていた。白い天井で、窓が開いていた。
「おはよ、ユウちゃん」
自分がベッドで寝かされていることに気付く。
見知らぬ部屋だな、と思ったが、すぐに病室だと分かった。
彩花はベッド脇の椅子に腰掛けていた。大部屋のようで、カーテンが敷居のように引かれていた。
「彩花……、っ……」
鈍痛が頭を締め付けた。
「あんなの飲むからだよ。馬鹿だなあ、ユウちゃんは」
「どれくらい……、気を失っていた……」
「一年ちょっと」
「一年……!?」
「嘘。あはは、二日だよ二日。思ったより早い目覚めだったね」
驚いて身体を起こしかけた拍子に、筋肉痛のような痛みが全身に走った。
いったい何があったか、と記憶を振り返る。
「そうだ……、僕は」
「あ、結局そっちが残ったんだ」
「え? あ……」
僕? 僕。違和感がない。
記憶が混濁していた。僕は僕なのに、どういうことか、私の記憶を全て持っていた。
別人の記憶のようにも思えるのに、はっきりと、それが自分の記憶だと認識はできているようだった。
「違う……、たぶん、混ざってる……」
「混ざってるのか」
それはそれで、と彩花は綺麗にカットしたリンゴを爪楊枝で差して、口元へとさしだしてきた。
「あーん」
僕はそれをひったくって、口に放り込んだ。とても甘かった。
「けちー」
「けちじゃない。それで、どういうことか、説明してもらいたいのだが」
「あ、ユウちゃんっぽい」と何が面白いのか彩花は笑った。
「いやあ、大変だったね」
「大変だった。が、どうして彩花が知ったような口なんだ。あれは全て、僕の中で起こったことのはずだ」
お姫様も、山上も、全て妄想上の産物。自分だとおもっていた僕ですら、作られた人格にすぎなかった。むしろ今は、どこまでが現実で、どこまでが現実でなかったのかが知りたかった。
「うん。まあ、そうなんだけど」
んー、と彩花は口をすぼめた。
「メイドさん、いたじゃん」
「いた」
「あれ、私」
彩花はあっけらかんという風に、自分を指さした。そしていたずらをした子供のように「ごめんね」と舌を出した。僕は「まじかよ」とつぶやいてしまった。
「変装、上手かったでしょ」
「上手かったというか、全く別人だった」
「薬のせいで、そう思い込んでたんだよ。でも、無意識では気付いてるっぽかったよ」
「気付いていた?」
「お姫様が言ってたでしょ。私と知り合いだって。つまりお姫様は、メイドが綾目彩花だって気付いてたわけ。だってあの時点でお姫様が会ってる人間は、私とユウちゃんだけでしょ。じゃあお姫様にとっての知り合いは、必然的に私のことになる。お姫様はユウちゃん自身でもあるわけだから、ということは、ユウちゃんが気付いてたってことになるのさ」
おお、たしかに、と僕は気付かされて驚いた。
「それにそうじゃなきゃ、つまり私が幻でないことが分かってなきゃ、私をお店で働かさないもん。お姫様はちゃんと端っこの一番暗いところに隔離して、あんまり人を近づけさせないようにしてたけど、私は普通に接客させられてたじゃん? 当然、あの毒を飲まない人とも、酔っ払いじゃない人とも話すわけさ。私を幻だと思ってたなら、そんなことしないでしょ」
たしかに、そうだ。
お姫様を奥の席の、最も暗いところに座らせていたのは、出来うる限りはっきりと見えないようにするためだった。本当にそこにいたのは――そこにあったのは、お姫様の姿ではなかったから。
「でもお前、大学は」
「試験おわってしばらく暇って言ったじゃん。夏休みだよ、夏休み」
「あ……」
そういえばそんな会話をしたな、と思い出した。
大学生の夏休みは長いんだよ、と彩花は何故か胸を張った。
その後、じゃあ説明をしますか、とわざとらしく咳払いをした。
「最初にお姫様を私に見せた時さ、私ピーンときたんだよね。たしかにお姫様っぽい何かは見えてた気がするんだけど、すごい既視感あってさ。よく考えたらお店の中に飾ってある絵があるじゃん。あれ同じだったんだよね。でもその時はそれが幻なんだとは思わなかったからさ、まじでユウちゃん子供を誘拐してコスプレでもさせたんじゃないかなーって思ってたわけ。ぶっちゃけユウちゃんがなんかヤバい感じになってるのは、こっち来たときから気付いてたし、いよいよ犯罪にまで手をだしたのかなこいつ、っておもったんだけどさ」
ひどい言われようである。しかし毒を撒く、という犯罪に手を出していることは事実なので、僕は黙って顎を引いた。
「でも同時に、もしかして、って思ったの。あの絵、お姫様とメイドでしょ、描かれてるの。じゃメイドの格好してったらもしかしてそのまま受け入れられるんじゃないかな? ってね。それが案の定なわけですよ。私がない金はたいてメイド服かってきて変装してみたら、これがすんなり受け入れられるもんだから驚いたね。それでまあ私はユウちゃん家に住むことになるわけだけど、私はユウちゃんの寝てる間とか使ってね、色々調べてみたわけさ。そしたらもう一発だよね。白い花の資料なんか全然隠す気もなく棚に入ってたしさ、倉庫いったら普通に咲いてるし。あちゃーこりゃやべーわ、って思ったよね」
彩花の口調は、友人との会話のようなとても軽い調子だった。僕のことを気遣っているのだろうか。
「でもね、正直、私にはどうすることもできなかった。花を燃やしちゃおうかなって思ったけど、そしたらユウちゃんがどうなるか分からなかったし。それに、恋に焦がれて鳴く蝉よりもってやつでさ、あの人が亡くなって、ユウちゃんが身を焦がす思いだったのは知ってたし、そんなユウちゃんにとっての唯一の救いがあの花なんだとしたら、私には何もできるわけなくてさ。だから私は、ただそのまま、ユウちゃんの側にいることしかできなかった」
彩花は少し翳りのある顔で、窓の外を見やった。
「本当にヤバいことはじめたら止めよう、とは思ってたんだけど、でも結局、ユウちゃんは、ユウちゃんの中で、自分のことを解決した。さすがユウちゃんだよ。すごい。あの花の毒って、本当にヤバいんでしょ。ものすごい依存症状が出るって書いてあったし。例のオリジナルカクテルでちょこっと飲んだ私ですら、その傾向はあったくらいだしね。よくそれを、燃やすまで出来たよね」
僕は首を振った。
それは褒められることではなかった。
堕落した人間が、ただ死を恐怖しただけにすぎない。死の恐怖さえなければ、きっと今でも花を使っていた。今思えば、僕があの時小瓶の毒を飲んだのは、山上に対する怒りではなく、自分に対する怒りだったのかもしれない。焼こうか焼くまいか葛藤する自分に、ぐずぐずするな。今すぐ焼け。花を焼け。と叱咤をするための、最後の力だったのだろう。
僕は最後まで、あれに頼っていたのだ。
「私の知ってるのは、それだけ。あとはユウちゃん自身が、一番よく知ってると思う」
彩花はリンゴをほおばった。しゃりしゃりと気持ちの良い音がした。
「ビルは、どうなった」
「三階が燃えただけ。消防隊がすぐきてくれたおかげで、一階のコンビニはなんと無事でした。二階のお店もちょっと焼けちゃったけどね。でも周りにも特に火は燃え移らなかったし、ユウちゃんを除けば死傷者もゼロ。まあ、最小限の被害で済んだよね」
「そうか……、よかった」
ほっとした。これ以上誰かを巻き込まなくて、よかった。
「退院したら、自首しなきゃ」
しかし毒を撒いていたことに変わりは無い。
「自首? なんで?」
「三人も、被害者が出たろ。毒で。ヨウコさんとか」
「あー、あれ」そういえばそうだ、と思い出したように彩花は言った。「ぶっちゃけたいしたことなかったらしいよ。ヨウコさんはめっちゃぴんぴんしてて、昨日なんかお見舞い来てたからね。で、三人って何? 残り二人は私も知らないんだけど」
「え……? 山上が、言ってたんだけど」
彩花は「ほう」とわざとらしく腕を組んだ。
「たしかに体調不良者はいたみたいだけど、そっちも大丈夫だと思うよ。山上っていうのは、お姫様と同じユウちゃんの中の一人でしょ。たぶん、ユウちゃんに決心させるために、嘘をついたんじゃないかな」
僕は眉を寄せた。
確かに言われてみれば山上が僕の葛藤の現れであったのならば、その可能性は十分に考えられた。今ではその確認のしようもないけれど。
「でも、そうだとしても、僕が毒を撒いていたことに変わりはない」
「まあ、それに罪悪感を感じるのはわかるんだけどさ、でもどうなの、誰も死んでないし、花は焼けちゃったし、ついでに資料も焼けちゃってるし、それ自体はバレないよ。って言っても、家に火はつけてるから、それでは捕まると思うけどね。ていうかそれの説明しだしたら、ユウちゃんが薬中だっていうのは警察にバレちゃうかもね。ガンバレ」
あっけらかんと、彩花は言った。僕はそれが少し愉快で、もうそれ以上何を言う気もしなくなった。
僕は軽く手に力を込めた。まだ、あの慣れ親しんだ毒の名残が身体中に残っているのを感じていた。まだ抜けきるには数日かかるだろうと思った。しかし毒が抜けていけば、同時に僕はきっとそれを欲しくなる。今も既に、手が小さく震えていた。この中毒症状そのものは、一週間や二週間で治る物ではなさそうだった。
けれど、もうあの花は存在しない。
どれだけ僕が欲しようとも、ないものには手は出せない。そうであるならあとは時間が解決してくれるだろう。多少の苦痛は、潔く受け入れるつもりだった。
全ては、終わったのだろうか。彼女の死からおかしくなってしまった僕の時間は、全てあの炎の中に消えたのだろうか。あの日心象に見た雪の世界は、とけてなくなったのだろうか。僕にはどれも、実感がなかった。ただ今は、すがすがしい気持ちだけがあった。もういいのだ。と、心のどこかで思っていた。
「僕は何がしたかったんだろうな」
無意識に、そうぽつりとつぶやいていた。
お姫様の言うように、僕は生きたかったのか、それともただ死を恐れただけなのか。
もしくは山上が言ったように、復讐がしたかったのか。
復讐をしたかったにしても、それならなぜバーなどという形をとったのか。あの花の毒ならば、もっと効率的な復讐の仕方があったはずなのに。僕には僕自身のことが、よくわからなかった。
彩花がちょっとおどけた顔をしてから、言った。
「何者かに、なりたかったんでしょ」
彩花は茶化すようだったけれど、僕ははっとして顔を上げた。そういえば、そうか。そんなことを言ったことも、あった。子供の頃の話だ。僕は何者かになりたかったのだ。
「そうか……」どこかそれはしっくりと、腹の中に据わった。「それだけのこと、か」
僕は苦笑した。結局、それだけのことか。
「彩花」
「ん?」
「ありがとう」
僕がそう言うと、彩花は笑って、「ユウちゃんらしくないなあ」と言って笑った。
開いていた窓から、風が流れてきた。穏やかで気持ちの良い風だった。空を見ると雲があったが、真夏のような力強い入道雲はもうどこにもなく、薄く広がった雲があるだけだった。耳を澄ませてみると、セミの声はもう聞こえなかった。
僕は何者かになれただろうか、と心の中でつぶやいた。
僕はいったい何になったのか、なろうとしていたのか。
彼女だったら、何と答えてくれるだろうか。
また、風が吹いた。それは風鈴の音のごとく清らかで、またどこまでも涼しげであった。
「私の王子様に、なってくれたではありませんか」
fin