第一話 断罪イベントまで、あと三年
前世の記憶が戻ったのは、十三歳の誕生日、大階段で裾を踏んで転び、頭を打った瞬間だった。
「お嬢様! ヴィオレッタお嬢様、しっかりなさって!」
侍女の悲鳴を遠くに聞きながら、私の頭の中には、二つの人生が同時に流れ込んでいた。
ひとつは、公爵令嬢ヴィオレッタ・アシュフォードとしての十三年。厳格な父、社交界の作法、王太子オーレリアン殿下との婚約。
もうひとつは――日本で、ゲームばかりしていた、誰かの記憶。
自室の天蓋付きベッドで目を覚まし、侍女が差し出した手鏡を覗いて、私は確信した。
流れるような銀の髪。切れ長の、紫の瞳。年の割に手足が長く、十三にして既に「威圧感がおありで」と社交界で囁かれる、攻撃力の高そうなこの美貌。極めつけは、寝台の脇に立てかけられた、柄に銀細工の入った扇。間違いない。
「……乙女ゲーム『星降る夜のプレリュード』の、悪役令嬢だわ」
王立学園を舞台に、男爵令嬢のヒロインが王子や貴公子たちと恋に落ちる、王道の恋愛ゲーム。
そしてヴィオレッタ・アシュフォードは、ヒロインを虐め抜いた末、三年後の学園卒業パーティーで婚約破棄され、国外追放される女。断罪イベントまで、あと三年。
「詰んでる。……いえ、待って。私、このゲーム、知ってる」
知っている。それはもう、骨の髄まで知っている。プレイ時間、約三百時間。ただし――問題が、ひとつだけあった。
私が三百時間やり込んだのは、本編ではない。
外伝『プレリュード・ノワール』。悪役令嬢ヴィオレッタを操作し、攻略対象たちを言葉と策略で精神的に破滅させ、バッドエンドへ叩き込む、問題作にして怪作。
「愛の物語の裏で、悪意はどう動くのか」という製作陣の悪ノリが生んだ闇のスピンオフだ。
思い出せる。あれは前世の、大学生の頃。限定版――本編と外伝のセット箱で、確か一万二千八百円もした――を、ゲーム仲間の友人が、なぜか二つ買ってきたのだ。
そして片方の箱から外伝のディスクだけを抜いて、私に押し付けてきた。
『外伝は悪趣味そうだから、私は無理。……あんた向きだと思う』。失礼しちゃう、と言いながら受け取って、気づけば全攻略対象の「闇落ちルート」を完全制覇していた。あんた向き、は完全に正しかった。悔しいけれど。
一方、本編のほうは、その友人のプレイ動画を横目で見た程度。つまり、今の私の頭にあるのは、こんな知識ばかりだ。
王太子オーレリアン――急所は「父王に認められない恐怖」。剣術大会の敗北直後、「陛下が失望しておられた」と一言囁けば、確かめられない不安が三年かけて彼を蝕む。折り方難易度、星二つ。
騎士団長子息ジークハルト――急所は「守れなかった妹」。三年前の誘拐未遂以来、妹は屋敷に籠もっている。妹に似た少女を危険に晒す状況を作れば、彼の理性は音を立てて飛ぶ。折り方難易度、星三つ。
天才魔導士ノエル――急所は「才能しか見られない孤独」。「皆、貴方の魔力目当てよ」と、事実を少しだけ歪めて囁き続ければ、人間不信が完成する。折り方難易度、星一つ。一番簡単で、一番後味が悪い。
「……我ながら、最低の知識だわ」
ベッドの上で頭を抱えた。恋の始め方は知らないのに、心の壊し方だけ、教科書が書けるほど知っている。
攻略サイトの用語で言えば、私の頭の中は「デバフ辞典」だ。こんな知識、破滅回避の何の役に――。
……いえ。待って。
折り方を知っている、ということは。
どこで折れるかを、正確に知っているということ。折れる場所が分かっているなら、そこに先回りして、支えを入れられたら?
そもそも断罪イベントの構造を思い出せ。あれは「ヒロインが虐められたから」起きるんじゃない。攻略対象たちが病み、ヒロインに精神的に依存し、その依存の熱量で私を裁くから起きるのだ。
なら――彼らが健全に育てば? 病まず、依存せず、まっすぐ育ってしまえば、断罪イベントは燃料を失って、そもそも成立しない。
「……決めた」
私はベッドから降り、書き物机に向かった。心配して覗きに来た侍女に「お勉強ですわ」と扇の先で下がってもらい、羽根ペンを取り、真新しい手帳の一ページ目に、決意を記す。
『破滅回避計画。方針――攻略対象、全員分の心の急所を、守り抜く』
武器は、闇のスピンオフ三百時間で培った、心の解体新書。使い道を、今日から裏返す。




