第一章 ポポロ村交番、本日も異常あり!
異世界の目覚めは手取り14万の交番で。社畜警官、理不尽の前に立つ
「あ……やっと、眠れる……」
それが、高杉隼斗の、地球における最後の記憶だった。
年齢、二十五歳。某家電量販店の泥仕込み営業マン。
連日のサービス残業、上司からの理不尽な罵倒、終わらないエクセルの入力作業。午前三時の薄暗いオフィスで、心臓が唐突に早鐘を打ち、視界がブラックアウトした。
痛みよりも先に、これで明日のクレーム対応に行かなくて済むという安堵があった。
完全なる過労死だった。
*
「……ん、あ?」
次に目を開けた時、隼斗はどこかカビ臭い、けれど妙に落ち着く空間にいた。
体を起こすと、そこは古びた革張りのソファーの上だった。
灰色のスチールデスク、壁に並んだロッカー、小さな流し台。そして、奥には鉄格子のはまった小部屋(留置房)が見える。
「……交番?」
どう見ても、日本のどこにでもある見慣れた駐在所だった。
状況がまるで呑み込めない。天国(あるいは地獄)というのは、ずいぶんと官僚的な造りをしているらしい。
デスクの上に置かれたノートパソコンの画面が、チカチカと光っていた。
吸い寄せられるように画面を覗き込むと、そこには無機質なゴシック体でこう書かれていた。
『ようこそ、アナステシア世界へ。あなたは本日付で、ポポロ村駐在所の【巡査】に任命されました』
「……は?」
『神々の手違いにより、あなたの魂はこちらの世界へ流れ着きました。お詫びとして、異世界での生活基盤と、ユニークスキル【犬のお巡りさん】を付与いたします。村の治安維持に努めてください』
寝ぼけた頭で文字を追う。異世界転生。ライトノベルで読んだことがある。
だが、なぜ交番なんだ。なぜ勇者でも魔法使いでもなく、お巡りさんなんだ。
ふとデスクの横を見ると、ハンガーに真新しい制服が掛けられていた。
水色のシャツに、紺色のズボン。帯革と呼ばれる分厚いベルトには、ニューナンブ(回転式拳銃)、手錠、特殊警棒、催涙スプレーが重々しく装備されている。さらにご丁寧に、防弾チョッキと防刃服までセットになっていた。
「いやいやいや、待て待て。俺は警察学校なんて出てないぞ。ただの家電量販店の営業マンだぞ!」
パニックになりかける隼斗の目に、デスクに置かれた一枚の紙切れが飛び込んできた。
『給与明細』と書かれている。
「給料、出るのか……?」
恐る恐る紙を手に取る。どんな世界であれ、金は命だ。社畜の悲しい性で、まずは待遇を確認してしまう。
【基本給】 180,000円(※当世界では1円=1銅粒として換算)
【交番維持費・備品代控除】 -40,000円
【差引支給額(手取り)】 140,000円
【賞与】 なし
「…………手取り14万!?」
隼斗の絶叫が、小さな交番内に響き渡った。
「嘘だろ!? 異世界に来てまで底辺労働者かよ! 交番の維持費を天引きってなんだよ、完全にブラック企業じゃねえか!」
頭を抱えて崩れ落ちる。前世であれだけ身粉を砕いて働いて、死んで転生した先が「手取り14万の駐在さん」だなんて、いくらなんでも夢も希望もない。
フラフラと立ち上がり、交番の引き戸を開けて外に出る。
せめて、支給されているはずの白バイかパトカーでもあれば慰めになるが……。
「……ママチャリ」
交番の横にちょこんと停められていたのは、見慣れた「警視庁」のシールが貼られた、ギアすらない白いママチャリだった。
「終わってる……俺の異世界ライフ、完全に終わってる……」
膝から崩れ落ちそうになった隼斗だったが、ふと顔を上げて息を呑んだ。
目の前に広がる光景は、どう見ても地球のそれとは違っていた。
石畳の道、木造とレンガが混ざったファンタジーな建物。
そして何より、道を歩いているのは、犬の耳や尻尾を生やした獣人たちや、中世ヨーロッパのようなローブを着た人々だった。
ここが「ポポロ村」。人間、獣人、魔族が入り乱れる緩衝地帯。
のどかな農村に見えるが、どこか混沌とした空気が漂っている。
その時だった。
隼斗の鼻が、ツンとした異臭を捉えた。
酒の匂い。そして、安っぽい鉄の匂いと、微かな焦げ臭さ。
(なんだ……? やけに鼻が利く……これもスキルの効果か?)
『犬のお巡りさん』。どうやら、警察官としての基礎知識だけでなく、犬並みの嗅覚や聴覚をもたらす能力らしい。
「痛っ……ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
路地の奥から、甲高い子供の悲鳴が聞こえた。
ビクッとして肩を震わせる隼斗。争いごとは嫌いだ。痛いのも怖い。
だが、足は勝手に悲鳴の方向へと動いていた。
路地を覗き込むと、大柄な男が、犬の耳を生やした小さな獣人の子供を蹴り飛ばしていた。
男は薄汚れた革鎧を着た、いかにもガラの悪そうな冒険者だった。ひどく酒に酔っている。
「おいクソガキ! 俺の足を踏んだ落とし前はどうすんだ! そのボロい服をひん剥いて売ってやろうか!」
「うぅ……ごめんなさい……っ」
男の手のひらには、野球ボール大の『炎』が浮かび上がっていた。
周囲にいる村人たちも、魔法を恐れて遠巻きに見ているだけで、誰も助けに入ろうとしない。
「ひぃっ……!」
隼斗は咄嗟に電柱(のような木柱)の陰に身を隠した。
膝がガクガクと震える。魔法だ。本物の魔法。あんなものを食らったら、ただの人間である自分なんて一瞬で黒焦げだ。
怖い。関わりたくない。見なかったことにして、交番でカップラーメンでも啜ってやり過ごそう。
どうせ手取り14万だ。命を懸ける義理なんてない。
そう自分に言い聞かせて、背を向けようとした。
『いいか高杉! 売れないお前は会社のゴミだ! 強者が弱者を食い物にする、それが社会のルールなんだよ!』
ふいに、前世の上司の怒鳴り声が脳裏をよぎった。
毎日毎日、理不尽に怒鳴られ、頭を下げ、自分を殺して生きてきた。
反抗する勇気もなく、ただヘラヘラと笑って、弱者として搾取され続けた。
そして、その果てに待っていたのは、孤独な過労死だ。
――また、見過ごすのか?
隼斗は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
路地では、男が泣き叫ぶ子供の胸ぐらを掴み上げている。
強い者が、理不尽に弱い者を虐げる光景。
「……ふざけんなよ」
ポツリと、隼斗の口から低い声が漏れた。
震えは止まらない。怖いものは怖い。
だが、それ以上に『理不尽』に対する猛烈な怒りが、腹の底からドス黒く湧き上がってきた。
(俺はもう、絶対に搾取されない。そして……理不尽に踏みにじられる奴を、見過ごさない!)
覚悟を決めた瞬間、頭の中から霧が晴れたように迷いが消え失せた。
営業マン時代に培った、クレーム対応時の極限の冷静さが蘇る。
【犬のお巡りさん】のスキルが、男の情報を冷静に分析する。
男の息からは強烈なアルコール臭。手元の炎は揺らぎ、魔力制御が甘い。重心はフラフラで、見た目ほどの脅威はない。
隼斗は、深く息を吸い込んだ。
防刃服の感触を確かめ、腰の警棒と催涙スプレーの位置を指先でなぞる。
そして、顔に完璧な『営業スマイル(お巡りさんモード)』を貼り付けると、木陰から堂々と歩み出た。
「あのー。そこのお兄さん」
間の抜けた、しかしよく通る声が路地に響く。
冒険者の男が、鬱陶しそうに振り返った。
そこには、見慣れない青い制服を着た、ひ弱そうな青年が立っていた。
隼斗は、胸ポケットから黒い手帳(警察手帳)を取り出し、バシッと男の目の前に突きつけた。黄金の旭日章が鈍く光る。
「ポポロ村駐在所の者ですが。ちょっと、お話いいですかね?」
手取り14万の異世界お巡りさんが、初めて理不尽に立ち向かった瞬間だった。
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