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悪役令嬢は嫌われたい  作者: あさり
番外編 小説家 星空きらら
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71/71


この場は一応、クラウス・マグロスとステラ・ウォーグナーの見合いの場である。マグロス家別邸の庭園を、二人並んで散策している。


しかし、話題に上っているのは少女小説家の星空きららであり、さらに言えばその著作のボーイズラブ作品である。


そして、ステラ・ウォーグナーこそが、星空きららの正体なのだ。


『月照る夜は僕の隣に』の話を嬉々として語るクラウスだったが、隣でハムスターのように丸く小さくなっていくステラに気づいて眉を顰めた。


「もしかして……この手の話はお嫌いだっただろうか」

「い、いえ! そんな事は! ただ、それよりも普通の少女小説のお話がしたくて」


クラウスが雨に濡れた子犬のような顔をするので、ステラは焦る。『ツキボク』の話は正直して欲しくないが、クラウスを悲しませたいわけではない。


「星空きらら先生の作品で、他に好きなものはありますか?」


話題を変えよう。自分の事を先生とつけて呼ぶのは小っ恥ずかしいが、この際どうでも良い。


「私はぁ、月刊バイブルで連載している『乙女心のトリセツ』が大好きでぇ」

「そうか! ステラ嬢もやはり星空きらら先生のファンなのか!」


とりあえず、星空きららの一番の代表作とされる作品の名前を出す。パッとひまわりが咲いた様に顔を明るくしたクラウスに、ステラは少しの居心地の悪さを感じた。


クラウスの趣味と苦い思い出を、良いネタとしか考えていなかった事。クラウスが好きだと言ってくれている作品を、作者本人が恥だと思っている事。そして自分が星空きららだと言う事を隠し、あまつさえファンだと偽っている事。


先ほどまでの自分を振り返り、「あれ、私って結構酷くない?」と気づく。


はた、とステラが足を動かすのをやめると、クラウスは勢い数歩前に出てしまった。


どうかしたのかとステラの方を振り返れば、顔色悪く俯いている。


「……すみません」

「な、何だ? どうかしたのか」


突然足を止めて謝罪の言葉を口にしたステラに、クラウスは困惑を隠せない。


「足を挫いたか? お腹が痛くなったりとか」

「い、いえ。そんな事は」

「ではどうしたんだ?」


(どうしたって? 罪悪感に苛まれているんだよ! 主に自分の身勝手さに対して!)


そう思ったところで言えるわけがない。


「大丈夫ですから。すみません」

「本当か? しかし……」


オロオロと自分の身を案じてくれるクラウスにこれ以上心配はかけられないと、ステラは気を取り直した。


ここには何をしに来たのか。そう、取材である。今の時点ですでに成果として大きなものがあるが、当初予定していた内容はまだ取材できていないのだ。


後でどれだけ自己嫌悪することになろうが構わない。今はとにかく面白い小説を書くための材料集めをしよう。


この場にメイドがいたら大きなため息をつくだろう。ステラはそう思ったが、気にせず再び庭園の小道を歩き出した。


この取材のせいでクラウスに不快な思いをさせようとも、結局は大好きな星空きららの作品として還元するからチャラである。とも考えたが、流石に最低な考えだったので言葉には気をつけることにする。


話題の舵を取るため、クラウスよりも先に口火を切った。


「それはそうと、クラウス様が以前アリス・トイドール様にアプローチなさっていた事は、当時学院に在学していた元生徒たちの間では有名ですよね。失恋した時どんな気持ちでした?」


残念な事に、ステラは現実の会話ではオブラートを使わなければいけない事を知らなかった。


デリケートであろう話題を提示されたクラウスは、なぜか表情を崩す事なく真面目な顔をしていた。


「これはいわゆる恋バナ、という事で良いか?」


ステラの目を見て問いかける。


「恋バナです」


ステラもクラウスの目を真っ直ぐと見返して答えた。


本当はそんなつもりは毛頭なかったが。恋バナにする事でクラウスの口が滑らかになるのだったら何でも構わない。


「ならば今夜はうちに泊まるか?」

「……はい?」

「俺がそちらにお邪魔しても良いが、突然の事だからご迷惑になるだろう」


クラウスは至って真面目な様子だ。ステラは脳内に浮かぶ〈?〉を必死で抑え込みながら、クラウスの言いたい事を理解しようとした。


が、結局それは叶わず、直接聞く事にした。


「あの、どうして泊まるだ何だという話に?」

「え? 恋バナはお泊まり会でするものじゃないのか?」


何だその聞いたことのない固定概念は。呆気に取られるステラを差し置いて、クラウスはそのよく分からない論法で話を進めた。


「お泊まり会の夜、部屋を暗くしてベッドに潜り込んでからポツポツと話し始めるのが恋バナだろう」

「男女二人が暗い部屋でベッドに潜り込んだら、いかがわしいにも程があるっての!」


思わずタメ口でツッコミを入れてしまうステラ。


「そうか。男女で恋バナをすることが少ないのはそう言う理由だったのか」

「だとしたら恋バナができる男女は恋人同士や夫婦に限られますね」

「つまり俺の場合は男の友達と恋バナするしかないと」


クラウスと男友達のめくるめく愛のメモリーを想像してしまい、ステラはかぶりを振った。もうその趣味は卒業したのだ。


「お泊まり会だけが恋バナの舞台ではないですよ」

「そうなのか? しかし、星空きらら先生の作品では恋バナは大抵このシチュエーションなのだが」


ぎくり、とステラは肩を強ばらせた。思い返すとそうかもしれない。


「それは……主人公と友人の親密さを表現しつつ、友人の気になる人との恋愛模様をサイドストーリーで膨らませる伏線になったり、三角関係の時は友人が恋敵である事を知った主人公の友情と恋愛の葛藤を描くのにちょうど良いからであって……」


思わず言い訳じみた事を口走ってしまう。しまった、これじゃまるで星空きらら本人のセリフではないかと焦るステラだったが、クラウスは何も気にする素振りも見せずに頷いた。


「なるほど! 一理ある意見だ。ステラ嬢は星空きらら先生の作品をかなり読み込んでいるのだな」

「いえ、まあ」

「創作の恋バナが葛藤をテーマにしているのならば、現実の恋バナもさぞや心を動かす物なのだろうな」


クラウスにとって恋バナはさぞかし素晴らしい物なのだろう。駄目だ。恋バナから話題を逸らそう。ステラは第二の取材テーマである『クラウスの失恋話』を諦めた。


気を取り直して次のテーマ、と思ったのだが、ここで問題が一つ。


第三の取材テーマは『乗り気じゃない見合い相手と相対した感想』だ。流石のステラも、


「私、あなたとの見合いが面倒臭くて仕方なかったんですぅ」


と言えばどんなにクラウスを不快にするかは分かっていた。どうしたものか。


隣を歩くクラウスは未だ恋バナへの憧憬を語っている。いつまでも自分が作り出した恋バナ像を礼讃されるのは忍びない。ステラは腹を決めた。


「もしも、仮に、万が一、なのですけれど」


念のための保険は欠かさない。


「私がこのお見合いを嫌がっていたら、どう思われます?」

「お見……合い……?」


クラウスはステラの言葉の意味が分からないとばかりに首を捻った。


「まさか、お忘れになっていたなんて事は」

「いや、ああ、お見合いか。そうだな、お見合いだ」


何かを誤魔化すかの様にお見合いお見合いと繰り返すクラウス。どうやらこの場がお見合いの場だということをすっかり忘れていたらしい。


(マジかこの人。星空きららの事しか頭にないわけ)


ステラは呆れを隠そうともせずに口をあんぐりと開けた。


「それで、えーと、お見合いが何だったか」

「もう良いです」


ステラは当初の思惑が外れに外れている事にため息をついた。それを見たクラウスがこれはまずいと眉を顰める。それもそうだ。こちらから持ち掛けた見合いの話を一瞬でも忘れていたとなれば、相手の不興を買ってもおかしくない。


だが、クラウスが何か取り繕う前に、ステラが口を開いた。


「ところで、星空きらら先生はどんな方だと思いますか?」

「突然だな」

「クラウス様がきらら先生をどういう風に思ってらっしゃるのか、興味があるのです」


これは事実だ。クラウスの、というより読者の星空きららのイメージはどの様なものなのか、ファンを前にして気になったのである。ファンとの交流を断ってきたステラにとって初めての事だ。


先程のステラのため息を気にしつつもクラウスは素直に答えた。


「きらら先生は小さな庭のある家に住んでいる気がする。よく手入れされた庭先には白いガーデンテーブルとチェアが置いてあって、先生はそこで執筆作業するのだ。その日の気分でブレンドしたハーブティーを楽しみつつ、庭に遊びに来る小鳥や猫を愛でていると良いアイデアが浮かぶだろう」

「……へえ」


饒舌なクラウスに若干戸惑いつつ、ステラはやっとこさ相槌を打った。


ステラの作業場は実家の自室で、本棚に入りきらなかった本があちらこちらで山積みになっている。メイドからは本の墓場と呼ばれている。


「先生は恋愛経験豊富な大人の女性だが、その時の恋人を一番大事にする人で、今のパートナーとは長い付き合いで結婚も視野に入れているだろう。庭にくる猫とは別に長毛種の猫を飼っていて、パートナーと共に大切にしているのだ」

「わぁお」


想像と現実の違いを知ったらクラウスはどう思うのだろう。ステラは少し気になったが、夢を壊すのは可哀想だと自重した。クラウスが理想の王子様として乙女の夢を守りたいと思っているのと似通っている。


因みに、ステラは初恋もまだな恋愛経験ゼロの小娘である。


「と言うのが非公式ファンクラブ会誌のコラム『きらら先生のプライベート大考察!』に書かれてあった」

「そんなのがあるの!?」


ここでクラウスの口から思いもよらない情報が飛び出してきた。


「ひ、非公式のファンクラブ? プライベート大考察? という事は、結構たくさんの読者がこの、この、なんですか、考察という名の理想を共有しているわけですか」

「理想……そうかも知れないな。きらら先生は容姿年齢貴賤全て不詳、謎の多い人だからこそ、こうであって欲しいという思いが生まれるのだろう」


ステラは過去の自分の選択を後悔した。まだ齢十二の時、幼い作家だという色目で見られたくなくてプロフィールを非公開にしたのだ。それがまさかこんな形で仇となるとは。


「良ければ会誌のバックナンバーを貸すが」

「い、いえ、その、えーっと。見たい気もしますがちょっと怖すぎるので、結構です」


クラウスの厚意だけ受け取り、ステラは丁重に辞退した。自分のことをまるで女神の様に書き奉っているだろう会誌を、素面で読むことなど出来ないだろう。


「ちなみにクラウス様はその考察で納得してるんですか?」

「いや、そうでもない」


目の前の人間が自分の盲目的なファンでは無かった事にほっと胸を撫で下ろすステラ。


「きらら先生が家で飼ってるのは、猫よりも白くて大きな犬の方がしっくりくるのではないだろうか」

「そこかい!」


とてつもなくどうでも良いところで引っかかっているらしい。


ところで、先程からステラはちょくちょくタメ口になってしまっているのだが、クラウスは一向にそれについての反応を見せない。


(大らかなのか、鈍感なのか……)

「星空きらら先生はベールに包まれた謎多き人物だ。だが、きらら先生は一体どんな人なのか、この謎が明かされる時は近い」


星空きららに夢中で気付いてないだけだな。ステラは安堵とも憂慮ともとれるため息をついた。


「謎が明かされるって、何かあるんですか?」


ため息ついでに問いかける。


「近々きらら先生のサイン会が開催されるのだ」

「……ッヒュ」


喉に風が通る音がした。ステラが吐いたため息を吸い込んだのだ。


途端に背中を冷たい汗がダラダラと流れる。


(わ、忘れてた……!)


先ほどのクラウスを責められない。それどころか、どう考えてもこっちの方がタチが悪い。


月刊バイブルにて連載中の『乙女心のトリセツ』最新六巻発売記念のサイン会。担当編集に話を持ちかけられた時は特に何も気にせず承諾したが、今のステラにとってはそれは愚行でしかなかった。


「ステラ嬢も参加するのだろう?」

「いっ、いえっ、その私は……大事な予定があるので」


クラウスを前にして星空きららのファンであるという体を取っているが、分身でもしない限り自分のサイン会に参加出来るはずもない。ステラは咄嗟に嘘をついた。


「そうか。それはさぞかし残念だろうな」


ステラの言葉を聞いて、クラウスは心の底から残念そうに眉を下げた。


「そうなんですぅ。ホントにガッカリでぇ」


ここぞとばかりに調子良く肩を落とす仕草をするステラ。語尾が伸びているのは、心にもない適当な嘘をつく時にでる小さい頃からの癖だ。


「では、俺がしっかりきらら先生の情報を集め、あなたにも共有しよう。ステラ嬢が当日来られないのに申し訳ないが、俺はとても楽しみなんだ」

「あっ、はい! お話を聞くのを楽しみにしてますぅ」


ステラの脳内は、すでに当日をどうやってやり過ごすかで一杯だった。クラウスの目を誤魔化すだけではない。ファン全員に失望されないために、どうするか。


結局、この日はステラもクラウスもお見合いどころではなく、後日また会う約束だけして解散したのだった。


○○○


サイン会当日、メイドは身支度を済ませたステラの姿を見て、痛む頭を押さえた。


白い刺繍が施された紺色のワンピースドレスと、同じ色のヒールの低いパンプス。それは良い。問題は首から上である。


真っ黒の目出し帽を被り、その上に虹色に反射する競技用水泳ゴーグル。唯一肌が見える口元は、全体的に赤く染まっている。目出し帽を被った時にリップが擦れたのだろう。


「さあ、行こう!」

「正気でいらっしゃいますか? そんな市民プールに現れたカニバリズム殺人鬼みたいな格好でファンの前に出るのはおやめ下さい」


せっかくお化粧もヘアセットもしたのに台無しですわ、とメイドがぶつくさ文句を言う。


「殺人鬼なんて、そんな言い方ないでしょ」

「シリアルキラーの方がよろしいですか?」

「変わんないじゃん!」


ステラが頬を膨らます。が、目出し帽を被った上からでは頬のあたりが微かに動いた程度だった。


「全く、どうしてその様な真似をなさったのです」

「こんな地味な小娘が星空きららなんて知ったら、ファンが悲しむと思って」

「シリアルキラーのコスプレをして登場した方が失望されますわ」


メイドがステラのシリアルキラーのコスプレになってしまった変装を剥ぎ取る。ぐちゃぐちゃになった黒髪とメイクが擦れてパンダの様になった素顔が現れる。


「お顔を隠したいのであれば相談なさって下さい。私にだって考えはあります」

「ホント!?」

「はい。ですからお嬢様は()()()()()()()()()、待っていてくださいね」


メイドは言葉の一つ一つを言い聞かせる様にゆっくりと発音し、ステラを鏡台の前に座らせて部屋を出ていった。


メイドが帰ってくるまでの間、ステラは万年筆をこねくり回して次の単行本用に書き下ろす小説の内容を考えていた。


コメディ色強めのラブコメにしようと言う方針は決まっているのだが、なかなか良い設定が浮かばない。


うんうんと唸っていると、メイドが戻ってきた。


「奥様からお借りしたものです。これをつけて行きましょう」


その手にあるのは古めかしい仮面。目元周辺を隠す様に作られており、赤地に金の装飾が施されている。


派手だな、とステラは思った。


「奥様が仮面舞踏会でブイブイ言わせていた頃のコレクションのうちの一つです。他のものはもっと華美でした」

「マジか。その話、娘としては聞きたくないけど作家としては是非取材したい」


何はともあれ、目出し帽を被るよりはマシである事はステラにもわかった。大人しくこの仮面をつけてサイン会に登壇する事にする。


メイドに再度化粧を施され、髪を結い上げられる。迎えの馬車に揺られ、会場に向かった。


サイン会の会場は王都で一番規模の大きな書店の催事場だ。仮面をつけずに一般客に混じって会場の様子を覗くと、色とりどりのお洒落をした老若の女性たちが長蛇の列を作っていた。


その中に、一人だけ身長が高く頭の飛び出た人物がいた。


疑う余地などない。クラウスである。


眉目秀麗、筋骨逞しい青年が女性の中に立っていれば否応なく目立つ。周囲の女性たちは目を輝かせ、頬を染めてクラウスのことを見つめていた。


当のクラウスは素知らぬ顔である。が、ステラにはわかる。女性たちの視線を気にして涼しい顔をしているのだろう。なにせ彼は憧れの王子様のイメージを守ろうと努力している人なのだから。


ならばその努力に敬意を表して、こちらも理想の星空きららになろうではないか。年齢は流石に誤魔化しきれないかもしれないが、大人びた振る舞いなら出来るはずだ。なにせ、身近に年上のメイドという手本が常日頃からあるのだ。


ステラは気合を入れた。


星空きららとステラ・ウォーグナーが繋がる要素をファンに、特にクラウスには絶対に見せてはならない。なぜなら


「『ツキボク』の続編は書かないのかな?」

「ホントそれ。みんな期待してるのにね」


ステラ・ウォーグナーが『月照る夜は僕の隣に』を書いた人物だと知られたくないからである。


(完っ全に黒歴史! 消し去りたい。この事実を地中深くに封印したい)


控室に入り、頭を抱える。そんなステラをメイドはやれやれと困った様に見ていた。


「お嬢様、そろそろ時間ですわ。大人の女性の振る舞いをするなら、お気持ちを切り替えて下さいませ。過去の過ちの一つや二つ笑い飛ばせるくらいになりませんと」

「それが出来たら苦労しない……ってか、こんな仮面をつけようともしないかな」


若かりし頃の母の仮面をつけて、ステラは重い腰を上げた。とうとうベールに包まれていた星空きららがファンの前に姿を現すのだ。


仮面をつけた女性が現れると、会場に数多の黄色い声が響いた。


「ずっと……ずっとファンです!」

「ありがとうございます」

「ううぅ、大好きですう」


憧れの作家を前にして、感極まって涙を流す女性もいた。そんなファンの姿を目の当たりにして、ステラは仮面をつけていて良かったと心底思った。


理想は理想のまま。現実を知らなくても幸せな方が良いではないか。


シリアルキラーの格好で来なくてよかった。必死に止めてくれたメイドに感謝する。


サイン会は恙無く進み、とうとうクラウスの番になった。


「俺はファン歴は浅いですが、本当に応援しています!」

「ありがとうございます」

「特に『月照る夜は僕の隣に』が好きで、何回も読み返してます!」

「……ありがとうございますぅ」


男らしい青年がこのサイン会に参加しているだけでも目立つのに、その口からボーイズラブ作品の名が出てきた事で周囲の人間がギョッとした顔でクラウスを二度見した。


勘弁してくれ、とステラは内心毒づく。あの作品は同人で発表したものであり、出版社を通していない。それがとても評価されて人気になってしまったおかげで、担当編集から出版社のレーベルからもボーイズラブを書かないかと言われるのだ。


もちろん、そんな事を一ファンであるクラウスが知る由もない。ステラは嘆息を呑み込んだ。


「サインですよね、お名前をお聞きしても?」


クラウスに向かって笑みを浮かべる。


通常、作家や俳優など著名人がサインをする場合、転売防止のために宛名を書くことになっている。今回の星空きららのサイン会も例外ではない。


ステラはクラウスの名をもちろん知っているが、何も聞かずに宛名を書けば知人であることがバレてしまうかもしれない。ステラが星空きららとしてクラウスに名前を聞くのは当然のことだった。


「ステラ・ウォーグナーさんへ、とお願いします」

「え?」


気の抜けた声を出してしまい、慌てて咳払いをして誤魔化す。


「ステラ……さん、ですか? でもあなたのお名前では……」

「はい! 俺はクラウスと言います。ステラは今日ここに来ることができなかった友人の名です」

「よろしいのですか?」

「俺は先生と直接話せただけで満足ですので」


そんな筈はない。ステラは思う。自分で言うのもなんだが、クラウスは星空きららの大ファンである。サインだって欲しいに決まっている。


躊躇してサインを書けずにいると、クラウスは心配そうに眉根を寄せた。


「あの、もしや参加した本人以外にはサインが書けないのですか?」

「いえ、そのような事はありません。ですが……本当によろしいのですか?」

「もちろん。友人も先生の大ファンなんです。きっと喜びます」


なんなんだ。なんなんだこの人は。ステラは胸に膨らむ言いようのない感情に襲われた。


自分を差し置いて友人()を喜ばせる方を優先するのか。そんなに友人()を大切に思ってくれているのだろうか。なんて性根の優しい人なのだろう。


心臓がトクンと高鳴る。


これが――これが胸キュンか!


ステラの脳内で鐘が仰々しく鳴り響く。少女小説を書き続けて幾星霜、現実で胸キュンを経験したのは初めてだった。


「わかりました。ご友人のお名前で書かせていただきますね」


ステラはとうとうサインペンを走らせた。クラウスが期待のこもった眼差しでその手元を見ている。


「はい、どうぞ」

「ありがとうございます! ん? これは……」


ステラは――いや、星空きららはクラウスに向かって悪戯な笑みを浮かべた。




「という訳で、これがそのサイン本だ。ぜひ受け取って欲しい」

「本当に良いんですか? ありがとうございます!」


サイン会から数日経ち、再びマグロス別邸の庭園で面会したクラウスとステラ。クラウスから差し出されたサイン本を受け取り、ステラは感激した。疑っていたわけではないのだが、後で惜しくなってステラに渡さないのではないかと思っていたところがあったのだ。


「きらら先生が粋な計らいをしてくださったのだ。これを見てくれ」


クラウスが隣に立つステラの手の中にあるサイン本の表紙を捲る。自然、二人の距離が近くなり、ステラは密かに肩を強ばらせた。


ピンク色の表紙を捲ると、薄ピンクで無地の見返しがある。そこにステラの、丁寧に書こうとしつつも結局雑になってしまった、黒字のサインが書かれてある。


『ステラさん、クラウスさんへ 愛を込めて 星空きらら』


「ステラ嬢と俺の連名で書いてくれたのだ!」

「わあ……」


本当に嬉しそうにニコニコとサインを眺めるクラウス。それを見てステラは無表情になりそうな顔になんとか笑顔を貼り付けた。


(なんっで! こんな恥ずかしいことしちゃったかなあ!)


初めての胸キュンで浮き足だったあの時の自分を呪う。


(だってさ、だって、クラウス様にもサイン書いてあげたかったんだもん!)


「こんなに嬉しい事はない」

「でしたら、クラウス様がお持ちになって下さい」

「それはいけない」


ステラがクラウスの方にサイン本を差し出すと、クラウスは首を振ってそれを押し戻した。


「きらら先生はあなたに向けてサインを書いて下さったのだ。ステラ嬢が持っていてくれ」

「……はい」


クラウスに真っ直ぐ見つめられ、ステラは素直に引き下がった。


あの時から、どうもクラウスの言動に弱くなっている気がする。


そうして(自分が書いた)サイン本を受け取ったステラは、メイドに揶揄われつつも自室にその本を飾った。ステラとクラウスの名が連なって書かれている。


「初めての胸キュンの感覚を忘れない為だから! 作家活動に必要な事だから!」

「……お嬢様はご自身で書かれたお二人の名前宛のサインを、ご自身の部屋に飾られるのですわね」

「必要な事なの! 他意はないから!」

「そう言う事にしておきましょう」


次に会えるのはいつだろうか。そんな事を考えて、ステラは飾ってあるサイン本を見た。メイドの台詞が脳内で繰り返される。


――ご自身で書かれたお二人の名前宛のサインを、ご自身の部屋に飾られるのですわね――


(こんな事、クラウス様には絶対に知られたくない!)


また、星空きららの正体を隠さなければいけない理由ができてしまった。


クラウスとまた会いたい気持ちと、隠すためには接触を控えるべきだと言う事実。二つの間に板挟みにされ、ステラは大きなため息をついた。


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