# 第一話 獣の値段
人を殺したいと思ったことはあるか。
俺はある。
しかも一度や二度じゃない。
刺すか、轢くか、鈍器で殴打か。そこまで具体的に考えた。
だが結局、まだ誰も殺していない。
だから世間的には「普通の人間」らしい。
笑える話だ。
◇
午前六時。
シャッターを開けると、冷えた鉄の匂いがした。
俺の店は古い雑貨屋だ。
雑貨を売り、修理をし、趣味程度に包丁研ぎをする。
だが正直、儲かっていない。
五年赤字。
終わってる。
スマホを開く。
動画投稿サイト。
昨日上げた動画の再生数は三百八十七。
コメントはゼロ。
「頑張ってますね」
そんな慰めすら無い。
無。
俺はスマホを伏せた。
心臓の奥が冷えていく。
これが一番危ない。
怒りじゃない。
絶望だ。
怒りなら殴れば抜ける。
だが絶望は腐る。
静かに脳を侵す。
店の奥からケトルベルを持ってくる。
二十四キロ。
鉄の塊。
ロシアンスイングを始める。
一回。
二回。
三回。
肺が熱くなる。
頭の奥で暴れていた何かが少しだけ静かになる。
昔からそうだった。
動いていないと壊れる。
ガキの頃から落ち着きが無かった。
教師に怒鳴られた。
親にも怒鳴られた。
「お前はなんで普通に出来ない」
知らねぇよ。
出来ねぇから困ってんだろ。
今ならADHDと病名が付く。
だが当時は違う。
変なガキ。
邪魔なガキ。
ムカつくガキ。
それだけだった。
中学では教師に首を絞められた。
蹴られた。
殴られた。
俺も暴れた。
だが親は助けなかった。
それが一番残った。
痛みじゃない。
「誰も助けない」
その事実だ。
スマホが震えた。
通知。
『値下げできますか?』
またそれだ。
お前らは職人を値切る時だけ元気だな。
俺は無視した。
店の前を軽トラが通る。
朝日が差し込む。
田舎の朝だけは綺麗だった。
生きる理由があるように錯覚できる。
だが昼には現実へ戻る。
金。
数字。
再生数。
失敗。
将来。
全部追ってくる。
その時だった。
ガン、と店の扉が鳴った。
若い男が入ってくる。
二十代前半くらい。
髪を染め、口を尖らせている。
「すいませーん」
軽い声。
嫌な予感がした。
こういう予感は大抵当たる。
「包丁研ぎっていくらすか?」
「物による」
「あー……じゃあこれ」
コンビニ袋から安物の三徳包丁を出す。
刃が潰れていた。
「二千」
「高っ」
来た。
俺の頭の奥がじわりと熱くなる。
「新品買えるじゃん」
「じゃあ新品買え」
男の顔が歪む。
「あ? なんだお前」
その瞬間。
頭の中で何かが切り替わった。
距離。
顎。
喉。
手首。
立ち位置。
一瞬で見える。
ああ、やれるな。
そう思った。
殴れば倒れる。
包丁を持たれても寝技で潰せる。
簡単だ。
本当に簡単。
男はまだ何か喋っていた。
だが聞こえていなかった。
耳鳴りだけしていた。
心臓が静かになる。
この瞬間が一番危ない。
怒っていない。
むしろ冷静だ。
だから壊せる。
男が俺の胸を軽く押した。
「聞いてんの?」
その手首を掴みかけた時だった。
ふと、親父の顔が浮かんだ。
『我慢しろ』
違う。
そんな綺麗な記憶じゃない。
『お前が悪い』
そっちだ。
昔から全部そうだった。
俺が悪い。
俺が我慢。
俺が飲み込む。
その瞬間、急に全部馬鹿らしくなった。
俺は手を離した。
「帰れ」
「あ?」
「帰れ。今なら何もしねぇから」
男は数秒黙った後、舌打ちして店を出た。
軽トラの音だけが残る。
俺はその場に座り込んだ。
手が震えていた。
怖かった。
男がじゃない。
自分がだ。
あと一秒早ければ、たぶん俺はやっていた。
店の壁に頭を預ける。
鉄と砥石の匂い。
静かな店。
赤字。
失敗。
怒り。
全部、腐った泥みたいに積もっていく。
ふと作業台を見る。
包丁が並んでいた。
研げば切れる。
鈍れば切れない。
人間も同じだ。
壊れるまで削られ続ける。
問題は。
壊れた後、何になるかだった。




