香りと名前
第二話
翌朝、まなみは普通にバイトに行った。
昨日、何百匹いるのかも分からないネズミの群れを見た。
その群れが向かった先は、職場の隣にできたばかりの店だった。
そこで、よく分からない肉を焼かされ、みなとがそれを食べた。
今まで食べたことがないくらいうまい、と言った。
だからといって、今日のシフトがなくなるわけではない。
店に着くと、オーナーはもういつもの場所にいた。
「おはようございます」
「おはよう」
まなみはエプロンをつけ、髪をまとめた。
カップを並べる。
昨日のうちに仕込んでおいたモーニングを確認する。
最初のコーヒーを淹れると、静かな店内に馴染んだ香りが広がった。
ふと、窓の外で何かが動いた。
まなみは何気なく顔を上げた。
生瀬だった。
昨日、帰り際にみなとが聞いた。
「そういえば、名前なんていうんすか?」
男は少しだけ顔を上げた。
「生瀬」
「生瀬さん。俺、みなとです。また来ます」
「来んな」
みなとは笑っていた。
だから、まなみも名前だけは知っている。
その生瀬が、庭にしゃがみ込んでいた。
店の前には、小さな台が出してある。
足元には、木箱や瓶がいくつも並んでいた。
ボウル。
束ねた葉っぱ。
色の違う粉が入った瓶。
大きな蓋つきの容器。
生瀬は葉を一枚ちぎると、指先で揉んだ。
鼻先へ持っていく。
しばらく嗅いで、別の瓶を開ける。
今度は何かの粒を手のひらに落としている。
――何してんだろ、あれ。
見たことがない。
生瀬は粒を潰し、葉と一緒にボウルへ入れた。
別の瓶を開ける。
指でつまむ。
ぱら。
今度は少しだけ。
何かを足す。
また混ぜる。
「……何か混ぜてる」
「何が」
オーナーが新聞の向こうから言う。
「いや、独り言です」
「そう」
まなみは窓を拭きながら、また見る。
生瀬はボウルに鼻を近づける。
少し考えて、また何かを足した。
「……」
まなみの手が止まる。
「窓」
「やってます」
「止まってるけど」
「今やります」
まなみの首が、ほんの少し伸びた。
「まなみー」
「あ、はい」
オーナーに呼ばれ、店内に意識を戻す。
客が来ていた。
「いらっしゃいませ」
いつものモーニング。
パンを焼く。
皿を出す。
仕込んでおいたものを盛り付ける。
コーヒーを淹れる。
「お待たせしました」
別の客が来る。
注文を取る。
皿を下げる。
洗う。
次のコーヒーを淹れる。
午前中は、それなりに忙しい。
その合間にも。
窓の外で生瀬が立ち上がる。
まなみの目が動く。
生瀬が何かを運ぶ。
目が動く。
しゃがむ。
また動く。
仕事に戻る。
しばらくして見ると、生瀬は大きな容器から肉の塊を出していた。
――うわぁ、何あれ。
さっき混ぜていたものを、肉に擦り込んでいる。
赤茶色の粉。
黄色いもの。
潰した黒い粒。
細かい緑。
――胡椒?
違う。
――何あれ。何になるん。
生瀬が肉を裏返す。
大きな手。
指の間まで使って、肉の表面に何かを擦り込んでいく。
顔だけが、少しずつ窓の方を向いていく。
手はカップを拭いている。
目は外。
生瀬が今度は庭の端へ行く。
まなみの眉が上がる。
葉っぱを摘んで戻ってくる。
眉間に皺が寄る。
それを肉の上に置いた。
目が丸くなる。
「……気になる」
ぽろっと声が出た。
オーナーが新聞から、ふとまなみに目を移した。
まなみは窓の外を見ている。
自分に言ったわけではないらしい。
オーナーはすぐ新聞へ目を戻した。
ページを一枚めくる。
外では、生瀬がまだ何かしている。
――うわぁー、何あれー。
まなみの顔だけが忙しい。
生瀬が肉を容器へ戻す。
蓋を閉める。
立ち上がる。
そして。
ふと、こちらを見た。
目が合った。
「――」
まなみの胸が、どくん、と鳴った。
慌てて視線を落とす。
カップ。
布巾。
カウンター。
何でもいい。
私は何も見てません。
最初から仕事しかしてません。
そんな顔で、手元のカップを拭く。
一度。
二度。
生瀬の視線がまだあるような気がする。
見ない。
絶対に見ない。
でも。
ほんの少しだけ、気になる。
まなみは顔を動かさないまま、目だけをそっと窓の方へ向けた。
*
十五時。
『ネズミの胃袋』に男が一人来た。
五十代くらい。
日に焼けた顔。
小さな登山用のリュックを足元に置いた。
「今日は軽いのある?」
生瀬が見る。
「腹減ってんの?」
「減ってる。でも最近、肉が重くてさ」
「じゃあ肉」
「聞いてた?」
「聞いてた」
カフェから、まなみが見る。
――肉なんや。
生瀬が朝の容器を出す。
蓋を開ける。
あの肉。
朝より色が深い。
表面にスパイスが馴染んでいる。
男が覗く。
「それ、重そうだけどなあ」
「座ってろ」
生瀬がキャップを後ろに回す。
袖をまくる。
手を洗う。
フライパンを火にかける。
肉を一枚。
置く。
ジュッ。
まなみが振り返る。
音が、カフェまで届く。
ジュウウウ――。
肉の縁から脂が滲む。
スパイスが油を吸って、色が濃くなる。
生瀬は触らない。
ただ焼く。
「……」
まなみが鼻から息を吸う。
――うわ。
胡椒とは違う。
少し甘い。
でも、そのあと鼻の奥がすっとする。
何。
生瀬が肉を返す。
ジュッ。
焼けた面。
茶色く焦げたスパイス。
脂。
「……絶対おいしいやつ!」
「何が」
「あ、独り言です」
オーナーは新聞をめくる。
*
生瀬が焼けた肉をまな板に置く。
すぐには切らない。
少し待つ。
その間に、小さな鍋から何かをすくう。
透き通った汁。
そこに柑橘を絞る。
肉を切る。
ざく。
中心まで火の入った断面から、透明な肉汁が滲む。
皿には、肉と、ほんの少しの野菜。
最後に、さっきの汁を少しだけかける。
「ほら」
男が見る。
「結局、肉じゃん」
「食え」
一切れ。
口に入れる。
噛む。
「……」
もう一度噛む。
男の眉が上がる。
「何これ」
生瀬は片付けている。
「肉」
「それは分かる」
もう一切れ。
「軽いな」
「肉だけどな」
「いや、肉なんだけど……」
三切れ目。
「これなら食えるわ」
生瀬が言う。
「そりゃよかったわ」
カフェから、まなみが見ている。
男はもう喋らない。
肉。
野菜。
肉。
汁を飲む。
また肉。
さっきまで、
「最近、肉が重い」
と言っていた男の皿が、どんどん空いていく。
まなみは生瀬を見る。
朝からずっと触っていた、あの瓶。
肉。
大きな手。
――何つけたんだろう。
男が最後の一切れを食べる。
噛む。
飲み込む。
「あー……」
水を飲む。
「山のあと、これ食いたいな」
「山で食えよ」
「作れねえよ」
「じゃあ山やめろ」
「なんでだよ」
まなみが吹き出す。
生瀬がこちらを見る。
目が合う。
「……」
まなみは慌てて窓を拭く。
少しして。
また見る。
生瀬はもう、皿を洗っている。
あの瓶だけが、まだ台の上にある。
――あれ、何。
*
午後四時。
本当に一時間で『ネズミの胃袋』は閉まった。
まなみがゴミ袋を持って外へ出ると、生瀬は庭先にしゃがみ込んでいた。
朝からずっと何かをしていた場所だ。
横を通る。
「お疲れさまです」
生瀬が顔を上げた。
「ん」
少しだけ目が合う。
まなみはそのまま歩こうとして――止まった。
「あの……」
「ん?」
また顔を上げる。
「今日の、あれ……」
「どれ?」
「その、外で触ってたやつって……」
生瀬は急かさない。
まなみが言葉を探している間も、しゃがんだまま待っている。
「朝、肉みたいなのに……なんか、色々つけてましたよね」
「うん」
「……あれ、今日出してたやつですか?」
「そう」
「ああ……」
まなみは頷いた。
少し間が空く。
生瀬が言う。
「気になった?」
「あ……はい。ちょっと」
言ってから、朝から見ていたことを自分で白状していることに気づいた。
「隣なんで。なんか、見えて」
言い訳みたいに付け足す。
生瀬は少し笑った。
「見えるな」
それだけだった。
からかわない。
「……何つけてたんですか?」
「色々」
「色々……」
「嗅ぐ?」
「え?」
生瀬が足元にあった小さな瓶を一つ取った。
蓋を開けて、まなみの方へ差し出す。
まなみは少し迷ってから近づいた。
瓶に顔を寄せる。
鼻から吸う。
甘い。
そのあとから、土みたいな、木みたいな匂いがくる。
知らない香りだった。
もう一度嗅ぐ。
「……なんですか、これ」
「なんだと思う?」
「えぇ……」
もう一度。
生瀬は答えを言わない。
ただ、まなみが嗅いでいるのを見ている。
「分かんないです」
「だよな」
瓶を受け取って、蓋を閉める。
それだけ。
「じゃ、お疲れさまです」
「ん」
まなみはゴミ捨て場へ向かった。
数歩歩く。
鼻の奥に、まださっきの香りが残っている。
甘い。
木みたいな。
少しだけ苦い。
何だったんだろう。
振り返ると、生瀬はもうこちらを見ていなかった。
地面に並べた瓶の続きを触っている。
まなみはもう一度、鼻から小さく息を吸った。
*
ゴミを捨てて店に戻った。
さっきの肉が何だったのか、結局よく分からなかった。
「……色々ってなんなんだろ」
小さく呟きながら裏口を閉める。
少しして、店のドアが開いた。
顔を上げる。
「あ、みなと!」
みなとが笑った。
「おつかれ」
それだけで、まなみの顔がふっと明るくなる。
「どうしたん?」
「近く来たから。まだ仕事?」
「もうちょっと」
「じゃ、待ってよ」
みなとはカウンターの椅子に座った。
「こんにちは」
新聞の向こうでオーナーが顔を上げる。
「どうも」
それだけ言って、新聞を畳む。
コーヒーを一杯淹れて、みなとの前に置いた。
「ありがとうございます」
まなみは片付けをしながら、ちらっと見る。
みなとがコーヒーを飲む。
――かっこいい。
座っているだけで華がある。
もう一回見る。
目が合った。
「なに?」
「なんでもない」
慌ててカップを重ねる。
みなとが笑う。
「そういえば昨日の、めっちゃうまかったな」
「そんなに?」
「うん。あれはやばい」
思い出したみたいに笑っている。
「まなみ、食べてなかったよね」
まなみの手が少し止まった。
「……うん」
「もったいなかったね!」
本当に、それだけ。
みなとはまたコーヒーを飲む。
「そうかな」
まなみも、それ以上は言わなかった。
仕事を終えて、二人で店を出る。
「じゃ、お疲れさまでした」
「お疲れ」
みなとが自然に先を歩く。
「まなみ、行こ」
「うん」
まなみがその横へ追いつく。
二人の声が少しずつ遠くなる。
庭先で、生瀬が顔を上げた。
手には、朝から触っていた何かの葉。
歩いていく二人を見る。
みなとが何か言う。
まなみが笑った。
生瀬の目が、その二人を少しだけ追う。
角を曲がる。
見えなくなる。
それから生瀬は視線を戻した。
手の中の葉を一枚ちぎる。
鼻先に持っていって、匂いを嗅いだ。
庭の端。
草の陰で、小さな鼻も動いた。
すん。




