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ネズミの胃袋

第一話


朝七時を少し過ぎると、まなみの働く喫茶店は急に忙しくなる。


カラン。


「おはよう」


「おはようございます」


カラン。


「いつもの」


「はい」


コーヒー。


トースト。


卵。


サラダ。


またコーヒー。


まなみは焼き上がったパンを皿に乗せ、半熟の目玉焼きを添えた。


カウンターの向こうでは、オーナーがコーヒーを淹れている。


四十代後半。


痩せているわけではないのに、立っていてもあまり場所を取らない男だった。


無地のシャツ。


少し長い前髪。


眠そうにも、機嫌が悪そうにも見える顔。


朝から特に愛想はない。


客も慣れている。


「今日も喋らないねえ」


常連の男に言われても、


「朝なんで」


それだけ。


まなみが横を通る。


「二番、コーヒー」


「はい」


それだけ。


オーナーはコーヒーを淹れる。


まなみは運ぶ。


モーニングの時間は、それで充分だった。


八時。


八時半。


九時。


店の中を、パンとコーヒーの匂いが行き来する。


九時を過ぎる頃から、スーツ姿が減る。


十時には、空いたテーブルが増える。


十一時。


カラン。


一組。


十二時。


二組。


それを過ぎると、店はゆっくり静かになっていく。


まなみは使い終わった皿を下げた。


カウンターを見る。


オーナーは新聞を開いている。


コーヒー。


新聞。


時々、客。


だいたい、いつもこうだ。


まなみは窓際のテーブルを拭いた。


顔を上げる。


窓の向こう。


小さな庭を挟んだところに、木の建物がある。


少し前までは、なかった。


最初に気づいたのは、木材だった。


ある朝、店に来ると庭の向こうに何本か積んであった。


次に見た時には、柱が立っていた。


その次には、壁。


屋根。


毎日見ていたはずなのに、作っているところはほとんど見ていない。


朝来るたびに、少しずつ何かが増えていた。


いつの間にかカウンターができた。


椅子が数脚置かれた。


そして数日前、看板がついた。


『ネズミの胃袋』


まなみは初めて見た時、しばらくその文字を見た。


変な名前。


何の店なのかは知らない。


正面が大きく開いていて、中には調理台がある。


だから、たぶん食べ物屋だ。


それくらい。


ただ、最近になって人がいる。


男。でかい。


今日もいる。


店の前で何かしている。


まなみはテーブルを拭きながら見る。


黒っぽいシャツ。


太いパンツ。


キャップ。


大きな身体にゆったりした服。


一つ一つはよく分からないのに、全部になると妙に格好がいい。


年はオーナーより少し上だろうか。


顔がいい、とは思わない。


でも。


(オシャレ)


それは思う。


男が袖をまくった。


中へ入る。


また出てくる。


何かを運んでいる。


まなみは布巾を動かす。


外から声がした。


「すみませーん」


二人組の客が、『ネズミの胃袋』の前に立っている。


男が出てきた。


客が何かを尋ねる。


「まだ」


声が低い。


客がまた何か言う。


「十五時から」


もう一度、客。


男が片手を振った。


「いったいった。帰れ帰れ」


しっしっ。


本当に追い返した。


二人組は困った顔をして、庭を出ていった。


まなみの手が止まる。


(感じ悪)


男は気にする様子もなく店へ戻った。


まなみも布巾を動かした。


カウンター。


新聞の上から、オーナーの目が一度だけこちらを見る。


まなみも見る。


オーナーは新聞へ戻った。


何も言わない。


まなみも何も言わなかった。


*


昼を過ぎると、客はぽつぽつになった。


一人来て。


帰る。


しばらくして、二人来る。


帰る。


やがて、店内にほとんど音がなくなった。


まなみはゴミ袋を持って裏へ出た。


カフェと『ネズミの胃袋』の間。


庭を抜けて、裏手へ回る。


共用のゴミ置き場。


袋を持ち上げた時、向こうから誰かが来た。


さっきの男。


何かを抱えている。


まなみは少し端へ寄る。


近づいてくる。


そこで初めて、思った。


(でか)


遠くから見ていた時より、ずっと大きい。


肩が高い。


まなみの視線が自然に上がった。


キャップの下に、無骨なおじさんの顔。


近くで見ても、やっぱり服は格好いい。


ふと、男が持っているものに目が移る。


瓶。


紙袋。


葉っぱ。


新聞紙に包まれたもの。


肉なのか、野菜なのかも分からない。


少しだけ、瓶の中を見る。


茶色いもの。


何だろう。じっと見すぎたのか、男と目が合った。


まなみは視線を戻す。


男は通り過ぎなかった。


少し間があった。


男が腕を掲げる。


「作ってみるか?」


まなみが顔を上げた。


「……え?」


男はそれ以上、何も言わない。


目だけが、小さな店の方へ向く。


まなみも見る。


調理台。


カウンター。


また男を見る。


「……やめておきます」


「そ」


それだけだった。


男は興味をなくし、まなみの横を通り過ぎる。


まなみはその背中を見た。


大きい。


やっぱり、オシャレ。


そのまま『ネズミの胃袋』へ入っていった。


まなみはゴミ袋を捨てた。


店へ戻る。


窓の横を通った時、また隣を見る。


男はもうこちらを見ていない。


料理をしていた。


まなみは店内へ戻った。


(……なんで私?)


*


休憩。


スマートフォンを眺めていると、妙な記事が出てきた。


森の写真。


道路。


その上を埋める、小さな黒いもの。


まなみの指が止まる。


ネズミ。


ものすごい数だった。


記事を開く。


近くの森林で、野生のネズミが大量に目撃されている。


理由は分かっていない。


その下には、SNSの投稿が並んでいた。


《匂いについて行ってるらしい》


《森の中に店があるって聞いた》


《ネズミまで寄ってくる匂い》


《辿り着いたら至高の味が食えるとか》


写真を見る。


木。


道。


黒い影。


店は写っていない。


料理もない。


まなみは画面を少し見た。


(そんなもんあるか)


閉じた。


顔を上げる。


オーナーは新聞を読んでいる。


静かな夕方だった。


*


玄関を開ける。


「ただいま」


「おかえりー」


先に返ってきた返事は、母のものではなかった。


靴を脱いでリビングへ入る。


みなとがいる。


白いTシャツ。


ジーンズ。


床に座っている。


それだけ。


なのに、どうしてそれで完成するんだろうと思う。


(顔いい)


何度見ても思う。


そのみなとの腹の上に、赤ちゃんが乗っていた。


小さな手が、みなとのTシャツを握っている。


「見て」


まなみを見るなり、みなとが言った。


「何」


「めっちゃ俺のこと好き」


「……」


「ずっと離さない」


「服ね」


「俺」


「服」


「俺だって」


まなみの母が笑う。


「今日ずっと相手してくれてたよ」


まなみはバッグを置く。


「今日も預かってんの?」


「うん。お姉ちゃん、迎え遅くなるって」


母が答えるより先に、みなとが言った。


みなとの実家でもないのに、ここにいることがあまりに普通だ。


みなとの姉が仕事で遅くなる日は、こうして母が赤ちゃんを預かることがある。


そのまま、みなとまでいる。


母と話す。


赤ちゃんを抱く。


冷蔵庫を開ける。


「何か食うもんある?」


「もうすぐご飯」


母が言う。


「何?」


「まだ決めてない」


「肉がいい」


「自分の家で食べなよ」


まなみが言う。


「ここで食う」


「決定なん」


「うん」


みなとは笑う。


まなみも笑った。


顔がいい。


性格も好きだ。


一緒にいて楽だった。


家族も、みなとが好きだ。


みなとと、特別な関係になれたらと思う。


でも。


二人の今の状態が何なのかと聞かれたら、うまく答えられない。


みなとは赤ちゃんの手を持ち上げる。


「まなみ帰ってきたよー」


赤ちゃんの腕を振る。


「おかえりー」


「それ、みなとが言ってるだけやん」


「違うよ。今この子が言った」


「喋れんし」


「俺には分かる」


「はいはい」


こんなやり取りだけで、胸が弾む。


*


夜。


迎えが来るまで寝かせておこうとしたけれど、赤ちゃんは、なかなか寝なかった。


みなとが抱いて歩く。


まなみが代わる。


また泣く。


みなとが変な顔をする。


泣き止む。


まなみが笑う。


また泣く。


ようやく静かになった頃には、二人とも眠くなっていた。


布団に赤ちゃんを寝かせる。


まなみが横になる。


反対側に、みなとも転がる。


三人。


赤ちゃんの小さな寝息。


まなみは目を閉じた。


しばらくして、赤ちゃんの頭の上で、手に何かが触れた。


みなとの指。


目を開ける。


みなともこちらを見る。


何も言わない。


指が重なる。


そのまま手を繋ぐ。


赤ちゃんを挟んで。


まなみはまた目を閉じた。


*


翌日。


「行こう」


「……どこに?」


みなとがスマートフォンを差し出した。


昨日、まなみも見た記事。


道路を埋める、黒い小さな影。


大量のネズミ。


《匂いについて行ってるらしい》


《辿り着いたら至高の味が食える》


そんな書き込みが並んでいる。


「ここ」


「ほんとに?」


「行くよ」


「店あるかも分からんのに?」


「あるかもしれんやん」


もう行く顔をしている。


「俺、食ってみたい」


まなみは画面を見る。


昨日は、そんなものあるわけないと思って閉じた。


みなとは違うらしい。


あるかもしれない。


だったら行ってみる。


それだけでいい。


「じゃっ、いくか」


みなとが手を取った。


「もう行くん?」


「行くよ」


「ほんとに?」


「うん!」


引っ張られる。


まなみは結局、その手についていった。


*


みなとの車に乗る。


助手席で、まなみは記事に載っていた場所を見ていた。


「こっち?」


「たぶん」


「たぶんなん」


「この辺らしいよ」


みなとは楽しそうに運転している。


窓の外を、いつもの街が流れていく。


森なんてない。


住宅。


店。


信号。


いつもの道路。


本当にこんなところに、記事に書かれていたような店があるんだろうか。


しばらく走ったところで、まなみは窓の外を見る。


見覚えのある道。


「……こっち来るん?」


「うん」


「この先、私の店あるよ」


「あ、確かに」


みなとは、ここへ来たことはあまりない。


でも、まなみがどこで働いているかは知っている。


いつもの角が近づく。


ここを曲がれば、カフェが見える。


車が曲がった。


その瞬間。


道路の端で、何かが動いた。


まなみの目が止まる。


一匹。


二匹。


――違う。


次から次へと出てくる。


黒い、小さな身体。


十。


二十。


そんな数じゃない。


道路の脇から溢れるように現れて、一斉に走り出す。


ざざざざざざざざ――。


「――えっ!?」


まなみが身体を起こした。


ネズミ。


大量のネズミ。


道路を埋めるほどの群れが、車の前を横切っていく。


「え、ちょ……!」


窓へ寄る。


小さな身体が重なり合うように流れていく。


みなとは普通に車を走らせている。


「何?」


まなみが、みなとを見る。


「……今……」


「ん?」


もう一度、外を見る。


いる。


確かにいる。


でも。


みなとの顔には、何もない。


驚いていない。


避けてもいない。


見えていない。


まなみは振り返った。


ネズミの群れが向かっていく。


見慣れた庭。


見慣れたカフェ。


そして。


その隣。


最近できたばかりの、小さな木の店。


ネズミが、そちらへ流れていく。


まなみの目が看板を捉える。


『ネズミの胃袋』


「…………え?」


車が止まる。


まなみは店を見る。


昨日。


客を追い返していた、でかい男。


ゴミ捨て場で、


「作ってみるか?」


と言ってきた男。


「……ここ?」


みなとが前を見る。


「ん?」


「ここ……隣の店」


「こんな近くだったんだ」


まなみは庭を見る。


もう、ネズミはいない。


一匹も。


*


『ネズミの胃袋』の前には、昨日の大柄な男がいた。


今日もでかい。


今日もオシャレだ。


キャップ。


ゆったりしたシャツ。


太いパンツ。


店先で何人かの男と煙草を吸いながら話している。


みなとは車を降りると、迷いなくそちらへ向かった。


「すみませーん!」


まなみは少し後ろを歩く。


男がみなとを見る。


「ここ、飯食えるんですよね?」


「三時から」


みなとが時計を見る。


まだ三時にはなっていない。


「あー……」


一瞬だけ考える。


すぐ笑う。


「開けてもらえません?」


「帰れ帰れ」


昨日と同じだ。


手まで同じ。


しっしっ。


みなとは笑ったまま動かない。


「そこをなんとかぁ」


「なんともならん」


「腹減ってるんすよ」


「知らん」


「ちょっとだけ」


「時計見れないのか?」


「見れます」


「じゃ見ろ」


みなとが素直に時計を見る。


「……まだですね」


「だろ」


「でも、もうちょっとじゃないですか」


「三時は三時だ」


「じゃあ、ここで待ってていいです?」


「帰れっつってんだろ」


まなみは少し後ろから二人を見ている。


男は本当に帰らせようとしている。


みなとは本当に気にしていない。


「お願いしますよー」


「やだよ」


「何かちょっとだけないです?」


「ない」


「絶対ありますって」


「帰れ」


「そこをなんとかぁ」


男が、面倒くさそうに顔を上げた。


その視線が、みなとの肩を越える。


止まる。


まなみと目が合った。


一拍。


「……お前」


まなみは少しだけ頭を下げた。


「……どうも」


昨日と同じ男。


昨日と同じ、小さな店。


男がまなみを見る。


店の中を見る。


また、まなみを見る。


「お前が作るならいいよ」


「……え?」


みなとが振り返った。


まなみを見る。


「作れるの!?」


「いや、知らん」


「やった!」


「待って。私、作るって言ってない」


みなとはもう嬉しそうだ。


「作って!」


「なんで私が」


男はもう店の中へ入っている。


説明はない。


まなみはその背中を見る。


昨日。


「作ってみるか?」


今日。


「お前が作るならいいよ」


何なんだろう。


この人。


*


男が出してきたのは、料理ではなかった。


肉だった。


大きな塊。


すでに何かが擦り込まれている。


赤い粒。


黒い粒。


潰された葉。


油。


表面は少し乾いている。


まなみは手を洗い、差し出されたトレーを受け取った。


ずしりと重い。


みなとが横から覗く。


「うわ」


近づく。


「めっちゃうまそう」


「生だよ」


「もううまそう」


まなみは肉を見る。


それから男を見る。


男は何も言わない。


赤く熾った炭の上に、網が渡してある。


男が、そちらへ目をやる。


まなみもそちらを見る。


「……焼けってこと?」


返事はない。


みなとが言う。


「焼こう!」


「だから何で私が」


「俺食うから」


「それは知ってる」


「腹減った」


「知らん」


男が、少し離れたところへ戻っていく。


まなみはトレーを持ったまま残された。


みなとは隣で嬉しそうに待っている。


「……」


まなみは火の前に立った。


*


トングで肉を掴み、網に置く。


じゅうううっ。


脂が弾ける。


一瞬で匂いが変わった。


香辛料が熱を持つ。


油に溶けた匂いが、煙と一緒に立ち上がる。


みなとの身体が前へ出る。


「うわ、やば」


「近い」


「いつ食える?」


「今置いたばっかり」


「腹減った」


「さっきからそれしか言わんやん」


肉の端が色を変える。


脂が落ちる。


じゅっ。


火が上がる。


まなみが肉を返した。


焼けた面。


濃い茶色。


ところどころ黒く焦げた香辛料。


みなとが覗き込む。


「絶対うまい」


まなみは肉を見る。


火を見る。


もう一度返す。


少し離れたところ。


男がいる。


こちらを見ている。


何も言わない。


まなみはまた肉へ目を戻した。


何度か返すうちに、みなとの口数が減った。


肉が焼き上がるのを、ただ待っている。


*


ナイフを入れる。


肉汁が滲む。


みなとがもう横にいる。


「いい?」


「……たぶん」


「いただきます」


一切れ。


大きく口を開ける。


噛む。


一度。


二度。


止まる。


まなみはその顔を見る。


みなとがもう一度噛む。


喉が動く。


「……うま」


すぐ次を取る。


「え、何これ」


また口へ。


噛む。


今度は笑う。


「めっちゃうまい」


もう一切れ。


「こんなの初めて食べた」


本当に嬉しそうだ。


まなみは、みなとの口元を見る。


頬。


噛む顎。


飲み込む喉。


次の肉へ伸びる手。


「まなみも食ってみ」


一切れ差し出される。


まなみは首を振った。


「いい」


「うまいよ?」


「うん」


「食わない?」


「いいよ。食べて」


みなとはまなみを見る。


でも、理由は聞かない。


「じゃ、食う」


ぱく。


また食べる。


まなみは笑った。


少し離れたところ。


男が見ている。


みなとが食べる。


まなみが、それを見る。


男の視線が落ちる。


皿。


まだ残っている肉。


まなみの手は、一度もそこへ伸びていない。


男がまなみを見る。


まなみは気づかない。


「これ最後いい?」


「いいよ」


「ほんとに?」


「うん」


「じゃ、もらう」


みなとが最後の一切れを頬張る。


噛む。


飲み込む。


「うまかったー」


満足そうに息を吐く。


まなみは、その顔を見ている。


庭の端。


石の陰。


小さな鼻が出る。


すん。


一匹。


少し離れた草の中。


もう一匹。


車の中から見たあの大群は、もうどこにもいない。


肉の焼けた匂いだけが残っている。


男は何も言わない。


小さな店の看板が、風に揺れる。

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