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医療機器のディーラーは、馬車馬のように働く。
ライバル会社の社員に聞いても、口を揃えて「うちはブラックだ」と言う。
みなし残業代というダークシステムにより、ほぼ毎日のように終電まで会社に縛りつけられるのだ。
今年で三十六歳。健康診断は中性脂肪で引っ掛かり、体はガタつき始めている。
何者にもなれず、社会の中でちっぽけな歯車として、ただ役割を全うしてきた。
だからこそ、異世界で主人公が無双したり、美女に持ち上げられてハーレムを作る、そんな夢のある物語が好きなのかもしれない。
いつものように疲れ果て、いっそアスファルトの上に倒れてしまおうかと考えていた帰り道。
あと五百メートルほど歩けば家に着く……そんなとき。いつもは真っ黒な細路地から、うっすらと青い光が漏れ出しているのに気付いた。
大通りから覗き込んでみれば、なんとも不思議。地面からほんの少し浮いたところで、音もなく空間が渦を巻いていた。
「えぇ……」
もう何年も遊べていないけど、ゲームでいうワープのポータルみたいな感じ。
「これってまさか、小説でよく見る異世界への入り口なんじゃ?」
もし別世界に繋がっているのなら、先に広がるのはブルーオーシャン。邪魔なライバル企業の社員はいない。
長年培ってきた営業の技術を使えば、新規顧客を獲得し放題だ。
千載一遇のチャンスが巡ってきた。
「どうもー。カネミツメディックスの日比谷と申しますー」
俺は、頭を下げて青い光の渦に飛び込んだ。
視界に広がるのは、極彩色が歪むトンネル。体が宙に浮かぶ。
いつの間にか意識を失っていた。
「ん?」
気付くと、知らない街に立っていた。
スーツ姿にリュックを背負っているのはそのまま。だが、風景が違う。
闇に包まれた石造りの建物が並んでいる。空を見上げれば、満天の星空には丸い月のようなものが二つ。
すぐにここが地球とは異なる世界だと分かった。
「何やってんだ俺は……」
ポータルはすでに消えており、元の世界には戻れそうにない。
明日は人工透析に使うダイアライザーの新商品をプレゼンするために、腎臓内科の先生にアポを取ってある。
絶対に達成できないノルマに追われて頭がおかしくなっていた。
急に冷静になり、自分の愚かさを呪う。
『シュワッチ!』
『どこの国だここ?』
『おっさんリーマン、異世界へ』
そのとき、脳内で声が聞こえた。
抑揚はあるけど感情がない。まるでオーディオブックを読み上げるような音声だ。
「うわっ! だ、誰かいるのか?」
心臓が跳ね上がり、あたふたしながら辺りを見回す。
だが、ついさっき確認したばかり。当然、人の気配はない。
『びびってて草』
『演技くせえw』
『はよステータスオープンしてくれやw』
どういうわけか、確かに声がする。
二回目にして気付いた。これは耳を介していない。脳に直接響いているようだ。
見知らぬ場所で急に声を掛けられたら、誰だって驚く。そんな反応を見て、謎の声は俺を小馬鹿にしている。
そうだ、ここは異世界。姿が見えないことから察するに――
「まさか、妖精の仕業か?」
奴らはイタズラをして喜ぶらしいからな。
転生してからナビゲーターキャラと冒険する物語はいくつも読んだことがあるし、この声もそれの一種だろう。
『なぜバレた?』
『そうそう、俺ら妖精だよw』
『こんなに早く気付かれたの三百年ぶりかも。おっさん天才か?』
当たりか。褒められてしまった。
俺の中にある教科書の知識によると、主人公はみな妖精の言う通りステータスオープンから始めていた。
よし、やってみよう。
「ステータスオープン!」
右手を前に突き出し、輝かしい未来を切り開く呪文を唱えた。
目の前に自分の情報が記載されたウインドウが開……かない。
静かな夜の街に、俺の叫び声が虚しく響く。
「……あれ、妖精さん? 何も起こらないんだけど?」
ステータスは表示されなくても、異世界にきたことで身体能力は上がっているかもしれない。
ぴょんぴょん飛び跳ねてみたり、ちょっと走ってみたけど、運動不足のおっさんのまま。
『騙されてて草』
『なにそのポーズ。いい歳して恥ずかしくないんか?』
『おっさんのステータスオープン(笑)』
『プロフィールサイトにでも書いとけよw』
『魔法はいけるんやない?』
俺の発言一つに対して、何倍にもなって煽りが返ってくる。こいつらみんな性格が悪い。
次は魔法を試してみよう。




