第7話
宿を出て、しばらく街を歩いた。
朝の街は、昨日の夕方とはまるで違っていた。
店先には商品が並び、商人たちは客を呼び込む声を上げている。荷車が石畳を鳴らしながら通り過ぎ、その脇を仕事へ向かう人々が足早に行き交っていた。
サクヤはエリアスの隣を歩きながら、周囲を眺めている。
昨日も同じ街を歩いたはずなのに、見えるものが多い。
夜には閉じていた店が開き、人々が動き始めている。その一つ一つが、サクヤには新鮮だった。
「さて、まずは必要なものを揃えようか」
朝食のときに話していた通り、二人は旅の支度を始めた。
最初に入ったのは、旅人向けの道具を扱う店だった。
壁には大小様々な鞄が掛けられ、棚には水筒や食器、野営に使う道具などが並んでいる。
サクヤは店内を見回した。
これまで、自分の持ち物を自分で選ぶことなどほとんどなかった。
屋敷にあるものは、必要になれば誰かが用意してくれた。
だから、並べられた品々を前にしても、何を基準に選べばいいのか分からない。
しばらく眺めた末、一つの鞄に手を伸ばした。
「それがいいのかい?」
「ええ」
エリアスが値札を確認する。
銀貨三枚。
サクヤは何の躊躇いもなく鞄を持ち上げた。
「では、これを」
「ちょっと待って」
エリアスがその手を静止する。
サクヤは不思議そうに振り返った。
「……何?」
「銀貨三枚だよ」
「見れば分かるわ」
エリアスは一瞬だけ目を丸くし、それから、くすくすと笑い始める。
「……何が可笑しいの?」
サクヤは少し眉を寄せた。
「いや……」
エリアスは笑みを残したまま、鞄へ視線を戻した。
「銀貨三枚は、旅で使うには少し大きな金額なんだ。もう少し安いものを探そうか」
「……分かった」
サクヤは素直に鞄を戻した。
エリアスは並んだ鞄をいくつか見比べ、その中から一つを手に取った。
「これならどうかな。大きさも十分だし、値段も手頃だ」
サクヤは鞄を受け取った。
先ほどのものより少し小さい。
けれど、自分が持ち歩くには十分そうだった。
「これでいいわ」
「うん。じゃあ、これにしよう」
二人は鞄を購入し、次の店へ向かった。
衣服を扱う店だった。
店内には様々な色や形の服が並んでいる。
エリアスが旅に向いていそうな服をいくつか選んでいく中、サクヤは壁際に掛けられた一着に目を留めた。
黒い外套だった。
飾り気は少ない。
長めの丈に、動きやすそうな仕立て。
そして、袖口からわずかに覗く裏地は赤かった。
サクヤは外套を手に取る。
指先で衣布を撫でた。
「それが気に入ったのかい?」
「……分からない」
そう答えながらも、サクヤは外套を手放さなかった。
黒い布、その内側に隠された赤。
見ていると、不思議と落ち着く。
これまで服を見て、これが欲しいと思ったことなどなかった。
必要だから着る。
用意されたから着る。
それだけだった。
けれど、これは違う。誰かに勧められたわけでもない。
ただ、自分の目に留まった。
サクヤはもう一度、赤い裏地を見る。
「……好き、なのかな」
自分でも確信の持てない声だった。
エリアスは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、それにしようか」
「いいの?」
「君が選んだんだろう?」
サクヤは外套を見つめる。
「……ええ」
今度は迷わなかった。
「これがいい」
会計を済ませると、サクヤはその場で外套を羽織った。
黒い布が身体を包む。
歩くたび、裾から赤い裏地がわずかに覗いた。
サクヤは一度だけ袖を見下ろした。
やはり、これがいい。
理由はまだ分からない。
それでも、今まで着ていた服よりもずっと自分のものらしく感じた。
エリアスは何も言わず、先に店の扉を開け、サクヤもその後に続いた。
黒い外套を身にまとい、二人は再び街へ出た。
続いて食料を買う。
エリアスは日持ちするものを中心に選んでいった。
干し肉、硬いパン、保存の利く果物。
サクヤは店先に並んだ干し肉をしばらく見つめていた。
「それは干し肉だよ」
エリアスが教える。
「……これを食べるの?」
「街の外ではね」
サクヤは干し肉とエリアスを交互に見た。
屋敷で食べていた料理とは、あまりにも違う。
けれど、それ以上は何も言わず、エリアスが食料を選ぶ様子を眺めていた。
必要なものを一通り買い終えると、エリアスが荷物をまとめる。
サクヤも新しく買った鞄を肩に掛けた。
外套の裾が、静かに揺れる。
二人は再び歩き始め、エリアスが時折、サクヤの歩く速度を確認している。
人の多い場所では、さりげなくサクヤを自分の近くへ寄せることもあった。
「これから街を歩くときは、勝手に離れないでくれよ」
「子供じゃないんだけど?」
「それは分かってるさ」
エリアスは前を向いたまま答える。
「ただ、君はまだ世間を知らなさ過ぎるからね」
サクヤは黙った。
反論できる言葉が見つからなかった。
昨日までの自分は、街のどこに何があるのかさえ知らなかった。
お金の価値も、旅に必要なものも、街の外でどんな生活をするのかも。
何も知らない。
けれど、それを恥ずかしいとは思わなかった。
知らないなら、これから知ればいい。
今まで誰かに教えられることのなかったものを、少しずつ覚えていけばいい。
「エリアス」
「ん?」
「街を出たら、どこへ行くの?」
「まずは次の街だね。今日は途中まで進んで、夜になったら休むことになる」
「……野宿?」
「場合によってはね」
サクヤは少しだけ考え、そう。と小さく答える。
やがて、二人は街の出口へ近づいていった。
大きな門の向こうには、街道が伸びている。
その先には、まだ見たことのない土地が広がっている。
サクヤは一度だけ、肩に掛けた鞄に触れた。
そして、身にまとった黒い外套を見下ろす。
その内側にある赤が、歩くたびにわずかに覗いていた。
どうして気に入ったのかは、まだ分からない。
けれど――これだけは、自分で選んだ。
エリアスが足を止める。
「準備はできたかい?」
サクヤは街の外を見た。
「ええ」
「じゃあ、行こうか」
サクヤは頷き、二人は並んで、街の外へ歩き出した。




