襟首掴んで引き寄せて
王城編37話
綾香の告白。
本編では魔力を喪失して消滅した綾香。
もし、主人公たちのように魔力循環が可能だったらどうなるか、そんなifを描いた物語です。
地球の記憶は、この世界で発掘される化石に過ぎない。
この世界で目覚めて学んだ事だ。
魔族を筆頭に、この世界にはさまざまな異種族が存在する。
そして、あのゲームのように、剣や魔法の世界でもある。
横山綾香は、地球が歴史となったあの日、魔力のトップランカーとしてイベントに招待されていた。
大勢の観客の前でヘッドセットを着け、ギルドメンバーと共にボスレイドを世界配信するはずだった。
しかし、一瞬だけノイズを感じたその直後、この世界で目覚めた。
体感にして、わずか数秒のことだった。
綾香を含め三人が、この世界の「文化標本」として復元された。
どうやって目覚めたかなど覚えてもいない。
そして、慣れるまもなく「王」と呼ばれた魔族の王に謁見させられた。
二十歳くらいの青年のような王だった。
日本で見た黒目黒髪を持つ、不穏な空気を醸し出す男性。
その人が綾香たちの何かを弄ったのだと気づいたのは、脳が掻き回されるような激痛と、世界が揺れるような目眩に襲われた後だった。
吐きそうになるのをなんとか堪える。
みな限界だと思った、その時、回復ランカーだった宇野茜が、指を組んで祈る仕草をしたのが見えた。
その瞬間、彼女から溢れた淡い光が綾香ともう一人、市橋正義を包み込んだ。
(綺麗……)
綾香はその光を知っていた。
回復職の使う初期魔法だ。
その後は、綾香があの世界の魔法を覚醒し、市橋もまた聖騎士のスキルを使ってみせた。
あの場面から、まだ数ヶ月しか経っていないのに。
(こんな時にも、私は家族の事を思い出さないのね)
綾香は自嘲した。
何度目かになる転移魔法は、綾香を「持ち主」の塔へと連れ戻してくれる。
17年生きてきて、自分という存在を認め、褒めてくれた唯一の相手。
振り返ると、彼にこの魔力を利用されていた事にも気づく。
綾香の魔力の代償は、そんな些細な事すら気付かないほどに「思考」を奪う事だった。
思考が奪われ能力を使い切ったその先は、多分確実な「死」があるのだと今になって気づく。
しかし、狭められていた思考の中でも、視線の先には彼がいた。
能力を認め、使い、褒美をくれて、時には休暇も与えてくれる。
(私はただの道具なのに)
全ての魔力を使い切った体が限界を告げている。
自分自身だからこそ分かる空虚な感覚。
残りの命が尽きるのはあと僅か。
綾香の持ち主である、魔王継承権第一位のシグルドは冷静沈着で、恐ろしい程合理的な考えを持っていた、はずだった。
その男が今、目の前で自分の魔力喪失を焦っている。
使い終わった道具は捨てるだけ、そう言い切りそうなシグルドが、空になった綾香の命を繋ごうと医師や研究員を呼ぼうとしている。
(少しは気に入ってくれてたのかな)
綾香の頬が紅潮する。
シグルドは綾香の背中に触れ、己の魔力を受け渡そうと流してくる。
彼の熱が優しく伝わる。
しかし、空の器が満たされる事はない。
手応えがないことを感じたのか、綾香に向かって「俺から奪えるか?」と訊く。
綾香は軽く首を振った。
奪えるはずがない。
奪いたくもない。
もう、自分の底が、抜けてしまった。
その感覚に気づいていた。
(魔力のない、ただの人間)
珍しく焦りを見せるシグルドとは対照的に、綾香の心は落ち着いていた。
改めて、シグルドらしい几帳面に整えられた執務室を見渡した。
すう、と息を吸い込むと、シグルドの落ち着いた香りが胸に広がる。
シグルドは、魔力を喪失した綾香の状態に気づいてから、すぐさま机に向かい医師を手配した。
この塔に辿り着く頃に、自分はここに立っていられるだろうか。
綾香はシグルドを見つめる。
机の上には紙に包まれた薬や、液体の入った小瓶を並べ、適した薬があるかを探しているようだ。
その姿が、ただ、嬉しかった。
綾香は服に隠れたネックレスに触れる。
胸の上にあたる石を摘んだ。
感覚を覚えていられるように。
きゅ。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、綾香は俯き目を閉じる。
(きっと、だいじょうぶ)
綾香はその瞬間を待つ。
シグルドは、いつまでも座らない綾香に向け声をかけた。
「綾香、今は座れ」
こんな時でも、魔族の魔力が枯渇する場合の危険性を教えてくれる。
綾香は、魔族ではないのに。
綾香は思い切り息を吸い込んだ。
顔はまだあげられない。
それでも。
「シグルドさんっ!」
綾香は自分でも驚いた。
想像より大きな声。
シグルドもまた、そんな綾香に驚いた様子だった。
転移したその場所で、立ち尽くしている綾香に声をかける。
「どうした。……まさか、動けないのか?」
シグルドはガタンと音を立て席を立つ。
綾香の側へと足早に近づく。
綾香の手を伸ばせば届く距離まで近づいた。
その瞬間、綾香は勢いよく顔をあげた。
背伸びをし、両腕をバッと開く。
両手を開いて、限界まで伸ばす。
この突然の行動が予測できなかったのか、シグルドは目の前で止まったまま。
綾香は、躊躇わずシグルドの襟元の生地を思い切り掴むと、自分に向けて引き寄せた。
シグルドの頬に、綾香の鼻がぶつかる。
あまりにも拙い口づけだった。
唇を重ねる度胸は、持ち合わせていない。
綾香の、人生で初めてのーー。
感情が膨れ上がる。
(私は、この人が好きなんだ)
綾香は唇をゆっくりはなす。
唇が肌から離れる感覚が心地よい。
その距離のまま、感情のままに破顔した。
「シグルドさんっ! 大好きですよ」
次の瞬間。
その姿は、何の前触れもなく消える。
はずだった。
+ + +
薄れていた感覚が突然補われた。
例えるなら喉がカラカラに乾いていた時に冷たい水を飲み干したような。
「え?」
綾香は自分の手を見た。
ひらひらと動かしたり、握ってみたり。
次いで体を見る。
床にしっかりと体重が乗っている。
おぼつかなかった足元がどっしりと安定していた。
「……あれ?」
先ほどまで確かに感じていた、自分の魔力が尽き、生命力が薄れて消える感覚。
今はどこにもそれがない。
慌てて胸元を触る。
中にあるネックレスを指先でしっかりと摘む。
確かな感覚。
「え、え、え?」
綾香は完全にパニックを起こしていた。
その一部始終をシグルドは黙って見ている。
頬を抑えながら、眉間に皺を寄せて。
この場の空気を感じて綾香が慌てて言う。
「さ、さっきのは!」
普段大人しい綾香が、完全に動揺している。
「これでお別れだって思ったからつい!」
(しまった!)
口に出した瞬間、失言に気づく。
綾香の顔は、首まで真っ赤になっていた。
目の前のシグルドは、ゆっくり瞬きをする。
沈黙。
見つめるその視線が「言い訳をしてみろ」と告げている。
綾香は耐えきれなくなって言葉を続けた。
「その、だから……別れの挨拶のつもりで、別に深い意味は……」
言葉が続かない。
その直後、不機嫌そうな表情でシグルドが一歩近づく。
綾香は思わず硬直した。
「深い意味はない?」
シグルドの低い声。
落ち着いているのに、威圧的な。
「……」
綾香の体がぶるりと震える。
消える前提で思い切った行動をした。
立場を考えたらとんでもなく不敬な行動に違いない。
この場から逃げたかった。
しかし、この場所を離れて生きていく手段など何もない。
シグルドは綾香を見下ろしたまま言う。
「突然人の襟を掴み引き寄せたかと思ったら告白をし、勢いのままにキスをしておいて、深い意味はない、だと?
自分の行動を一つひとつ説明されると、まるで犯罪者にでもなったかのような気持ちになり、二の句が継げない。
「……す、すみません」
少しずつでも後退りしていたのか、完全に壁際へと追い詰められる。
そんな綾香を見たシグルドは、盛大にため息をついた。
その眉間から皺は消えている。
「お前は本当に……」
どこか、少し呆れた声。
そして綾香の顎にすっと手をかける。
「覚悟もなく、巫山戯た行動をしたものだ」
綾香の顎は、くいと持ち上げられた。
「……え?」
次の瞬間。
綾香の鼻がシグルドの鼻に触れている。
息の仕方を忘れるような、突然の口付け。
瞬きをすることさえ忘れてしまうほど、突然の行為だった。
一瞬だったのか。
それとも数秒だったのか。
綾香にはわからなかった。
あたたかく薄い皮膚がゆっくりと離れていく感覚のあと、シグルドが静かに言う。
「なるほど、お前たちは魔力を奪うのではなく循環させるのか」
唇を舌で舐めながら分析している。
「綾香が回復した理由は理解した。これからは効率を考えて適切に触れ合わねばな」
綾香の思考は違う意味で停止していた。
人生で初めての連続だった。
告白も、頬への口付けも、その先も。
シグルドは呆然とする綾香の額に唇を落とす。
「……これでも補えるのか、覚えておこう」
口角を上げ、目を細めるシグルドを見続けていた。
(……今の、何?)
「勝手に消える事は許さない。どうやら俺は、存外お前を気に入っているらしいからな」
その言葉に心臓が掴まれたようにぎゅっと痛む。
顔は紅潮したまま、思考が追いつかない。
シグルドはもう一度綾香にゆっくりと口付けた。
「……理解したか?」
「む、無理です」
思考と羞恥心が戻ってしまった綾香は、自分のご主人様との経験値の差に振り回されることとなる。




