第338話:常識という名の鎖
地下牢での対話を終え、一行は公爵邸のリビングに集まった。
これで、すべてのピースが出揃ったことになる。
シリルが、長テーブルに並べられた資料と報告書を一つずつ指し示しながら、冷徹な声で事実を整理していく。
「まず、千二百年前。魔王ですら太刀打ちできない大厄災が存在しました」
全員が、静かに耳を傾ける。
「当時の防衛において、厄災本体へ攻撃を届かせるためには、Lv10の大火力がどうしても必要だった。……つまり、あの時代において『Lv10が唯一の正解』だったというのは、紛れもない事実です」
誰も、それを否定しなかった。
世界樹の記憶で見たあの光景を思えば、当時の人々の選択は正しかったとしか言いようがない。
「ですが、厄災は倒されず、封印されました」
シリルは資料をめくる。
「その後も、前線で成果を上げたLv10の魔法や剣術だけが、分かりやすい英雄の象徴として残ってしまった。それが教育に、組織の評価に、身分に、採用条件へと定着し……」
彼はそこで一度言葉を切り、静かに続けた。
「いつしか『唯一の正解』として、世界中を縛る鎖に変わってしまったのです」
「……Lv10至上主義は、誰かの陰謀ではなかった、ということか」
サンネが、苦いものを噛み潰すような顔で呟いた。
「はい。ただの……時代遅れになった、正解です」
シリルが結論を述べる。
誰かが悪意を持って仕組んだのではない。
人々が、かつて自分たちを救った力を盲信し、それ以外の選択肢を切り捨ててしまっただけなのだ。
◇ ◇ ◇
「わらわたちは、千二百年前の化石のような常識に、ずっと縛られ続けてきたというわけじゃな」
ルミナリアが、自嘲気味に扇子を弄んだ。
「誰も疑わなんだ。わらわを含めて……誰一人としてな」
「エルフもですわ」
エリーゼが、静かに目を伏せる。
「長期防衛のためのLv5という口伝の意図を忘れ、ただそれを守るだけの生き方をしてきました。……わたくしたちもまた、過去の正解に縛られていたのです」
サンネも、ミラも、マジカも、一様に沈痛な面持ちで頷いた。
それぞれが信じてきた誇りや強さの証明が、実はただの思い込みに過ぎなかったと知らされたのだから。
そこでヘンドリックは、ずっと引っかかっていた、ある男のことを思い出した。
首魁。
あの、善意で世界を壊そうとした老学者のことを。
「……あの老人は、『生まれと技能で人生が決められる理不尽』を壊そうとしていた」
その言葉に、全員の視線が集まる。
「あいつは、鎖があることには気づいていたんだ」
ヘンドリックは、静かに続けた。
「だが、その鎖を作ったのが『世界の理』そのものだと勘違いした。……だから、理そのものを書き換えようとした」
だが、理は最初から自由だったのだ。
人々が勝手に常識という鎖を作り、それに縛られていただけ。
「存在しない鎖と戦って、自滅したわけですね」
アルフォンスが、眼鏡を押し上げながら淡々と言った。
「……教えてやれなかったな」
ヘンドリックは小さく息を吐いた。
あの男のやり方は間違っていた。四桁に及ぶ実験体の記録が、それを証明している。
だが、あの怒りそのものまでが間違っていたとは、どうしても思えなかった。
もし、もっと早く伝えられていたら。鎖を作ったのは理ではなく、俺たち自身なのだと。
そうしていれば、あの男は、まったく別の道を歩けたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「さて。過去の話は、ここまでです」
シリルが、バンッとテーブルを叩いて空気を変えた。
「まだ、解明されていない謎があります。なぜ大厄災の名前と姿が記録から消されているのか。誰が、どのようにして封印を完成させたのか」
そして、と彼は声を落とした。
「なぜ、闇の世界樹の脈動が強まっているのか、です」
その言葉に、部屋の空気が一気に張り詰めた。
光と闇、二本の世界樹は、大厄災を封じるための要だ。
その闇の世界樹から、かつての厄災の鼓動と同じ脈動が響き、調査へ向かったダークエルフの部隊が消息を絶っている。
「厄災は去ったんじゃない。封じられただけだ」
ヘンドリックは、全員の顔を見回して告げた。
「そして、その封印が……今、綻びかけている」
沈黙が落ちる。
だが、誰の顔にも恐れはなかった。
◇ ◇ ◇
「……行くしかないな。闇の世界樹へ」
ヘンドリックがそう言うと同時に、エリーゼがすっと隣に立ち、その手を取った。
「ええ。今度は、わたくしたち全員で、ですわ」
強い瞳に射抜かれ、ヘンドリックは思わず苦笑した。
「ああ。……約束したからな」
サンネが力強く頷き、ミラが「ボスについて行くんだゾ!」と尻尾を振る。マジカが腕をまくり、ルミナリアが優雅に微笑んだ。
「ちょっと待ってよね」
水を差したのは、ベルだった。
「お兄ちゃんたち、また勝手に出発する気? アルフォンスさん、行程表と物資のリストは?」
「すでに作成済みです」
アルフォンスが分厚い書類を差し出す。
「領地の決裁は私がすべて滞りなく処理しますので、閣下は安心して行ってきてください。……ただし、予算には上限がありますからね!」
「そこはシリルの台詞じゃないのか」
「私はもう、諦めました」
シリルが遠い目をした。
有能な家令と、小言の多い妹。そして、頼もしい家族たち。
千二百年前の常識という鎖は、もう誰も縛らない。
◇ ◇ ◇
出発の準備が進む中。
ふと庭の方から気配を感じて、ヘンドリックは窓の外を見た。
世界樹の根元に立つドライアドが、じっとこちらを見つめている。
その頭上の枝で――一枚の葉が、ゆっくりと黒く染まっていくのが見えた。
『パパ』
頭の中に、彼女の声が響く。
いつもの明るさは、そこにはなかった。
『もう一人の私が、呼んでるの』
ヘンドリックは、息を呑んだ。
光の世界樹と、切り離された闇の世界樹。
あれは、元は一本だった。ならば、あの樹にもまた、彼女と同じ「もう一人」がいるのかもしれない。
千二百年間、闇を抱えたまま、たった一人で眠り続けていた誰かが。
『……そういうことか』
ヘンドリックは、静かに拳を握った。
千二百年前、人々は必死に生き延びた。その選択を、誰も責めることはできない。
だが、彼らが遺した宿題を片付けるのは、今を生きる自分たちの役目だ。
黒く染まった葉が、風もないのに、ひらりと落ちた。




