第290話:ダークエルフ襲来・後編
ダークエルフの刃が、セリアに向けられていた。
彼らの真の狙いは、回復しつつある世界樹の魔力そのものではなかった。光の樹と深く感応できるセリアを連れ去り、彼女を鍵として『闇の世界樹』をこの地に根付かせること。
その恐るべき目的を知ったアレンは、口元から流れる血を拭うこともせず、ゆっくりと立ち上がった。
「……そうは、させません」
アレンの瞳に、普段の冷静な記録係としての光はなかった。そこにあるのは、たった一つのものを絶対に守り抜くという、執念にも似た炎だった。
彼は懐から、真新しい白紙の羊皮紙を取り出した。しかし、今回は羽ペンを使わない。
アレンは自らの親指を強く噛み切り、滲み出した赤い血をインク代わりにして、羊皮紙に恐るべき速度で術式を書き込み始めた。
「狂ったか、エルフ。己の血で術式を描くなど、魔力回路を焼き切る自滅の道だぞ」
リーダー格のダークエルフが嘲笑うが、アレンの手は止まらない。
実はアレンは、エルディスから密かに『対ダークエルフ用』の戦闘術を叩き込まれていた。しかし、先ほどの戦いで悟ったのだ。攻撃に転じれば、その一瞬の隙を突かれてセリアが狙われる。ならば、己のすべてを防御に変換するしかないと。
「セリアは記録じゃない。私が守るべき、ただ一人だ」
アレンが血で染まった羊皮紙を天に掲げる。
「絶対聖域・命の盾」
瞬間、強烈な赤い光がセリアの周囲を包み込み、球状の強固な結界が形成された。それはただの魔法障壁ではない。アレン自身の生命力と魔力を直結させ、外部からのあらゆる物理・魔法攻撃のダメージを、結界ではなくアレン自身の肉体で肩代わりするという禁忌の防衛術だった。
「チィッ! ならば術者ごと叩き斬るまでだ!」
ダークエルフたちが一斉にアレンへ襲い掛かる。
湾刀がアレンの肩を斬り裂き、闇の魔法が彼の腹部を打つ。
「ぐああっ……!」
「アレン!」
結界の中で守られているセリアが、悲鳴を上げて内側から叩く。しかし、アレンは絶対に結界を解かなかった。
「来ないでください……あなたは、そこで……」
血を吐きながら、アレンはセリアに背を向けたまま立ち塞がり続けた。
一撃、また一撃。ダークエルフの猛攻を受けるたび、アレンの視界は白く明滅し、立っていることすら奇跡のような状態になっていく。
「しぶとい男だ。だが、これで終わりだ!」
リーダー格のダークエルフが、ありったけの魔力を込めた湾刀を大きく振り上げた。アレンにはもう、それを避ける力も、弾き返す魔力も残っていなかった。
『……ここまで、か』
セリアの無事を祈り、アレンが静かに目を閉じた、その瞬間。
――ドゴォォォォンッ!!
凄まじい轟音と共に、リーダー格のダークエルフの体が、庭の端まで一直線に吹き飛ばされた。
「……は?」
残されたダークエルフたちが呆然と振り返る。
そこに立っていたのは、窮屈そうな王城の正装の襟元を苛立たしげに引きちぎり、くたびれたローブを羽織り直す、小柄で猫背の男だった。
ヘンドリックだった。
背後には、息を切らしたエリーゼやサンネたち妻の姿もある。
「……俺の留守中に、俺の庭で、俺の家族に何をしている」
ヘンドリックの声は、地を這うように低く、絶対的な零度の怒りを孕んでいた。
「貴様、何者だ!」
ダークエルフの一人が斬りかかるが、ヘンドリックは指を軽く鳴らしただけだった。
展開されたLv1の複合魔法が、圧倒的な質量となってダークエルフたちを襲う。派手な爆発はない。ただ、空間そのものが彼らを押し潰し、一瞬にして残敵全員が地面に縫い付けられ、完全に無力化された。
「……遅くなって、悪かったな」
ヘンドリックが振り返ると同時に、アレンの魔力が尽き、赤い結界がふっと消滅した。
支えを失い、満身創痍のアレンがその場に崩れ落ちる。
「アレン!」
セリアが悲鳴のような声を上げ、倒れ込んだアレンに泣きながら駆け寄った。彼女の美しい衣服が、アレンの血で汚れることも全く気にしていない。
「しっかりして! 死なないで、アレン!」
セリアの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、アレンの頬を濡らした。
アレンは霞む目で、泣いているセリアの顔を見つめた。
「なぜ……なぜそこまでして、私を……」
セリアが嗚咽を漏らしながら問いかける。
アレンは血まみれの手をゆっくりと伸ばし、セリアの震える指先にそっと触れた。
「……あなたが、大切だからです」
その言葉を最後に、アレンは静かに意識を手放した。
「アレン! アレン……っ!」
セリアは気を失ったアレンの体をきつく抱きしめ、庭に響き渡る声で泣きじゃくった。
エリーゼが静かに歩み寄り、すぐに回復魔法の光を放ち始める。サンネやミラも心配そうに見守っている。
ヘンドリックは、ボロボロになった記録係と、彼を抱きしめるエルフの娘の姿を黙って見つめていた。
『……よく守ってくれた。あとは、俺に任せろ』
ヘンドリックは短く息を吐き、静かに背中を丸めた。
アレンとセリア。二人の間にあった単なる同族、あるいは記録係と保護対象という距離感は、この日を境に、決定的な変化を遂げることになった。




