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「もっと愛されたいよぉー!!」
フリードと入ったカフェテラスで、セナは思い切り、だがしかし小さな声で嘆いた。
本当はもっと大きな声で叫びたかったセナだが、この場所でそれはできない。
なぜならカフェの向かいの孤児院に、エーベルがいるからである。
エーベルは現在、騎士学院の代表生徒だ。代表生徒となると、さまざまなイベントに参加しなければならない。今日はそのうちのひとつ、孤児院訪問の日だった。
孤児院訪問とは、女子学院と騎士学院の三年生以上から選抜された代表生徒たちが、毎月数回孤児院へ訪問しては孤児たちと親交を深める定期交流会のことである。セナとフリードはまだ一年生なので、代表生徒に立候補することはできない。
つまり、セナは現在、代表生徒として孤児院訪問中のエーベルを、フリードを巻き添えにして絶賛ストーキング中なのである。
「まぁ落ち着けよ」
向かいに座っていたフリードは、ホイップクリームたっぷりのアイスカフェラテのストローを咥えながら、嘆くセナを励ました。
「いいじゃん。セナはもうエーベルさんと婚約してるんだし」
けれど、セナの口は尖ったまま。乙女の不安と不満は、そう簡単には消えないものだ。
「ったく、これ以上なにが不満だって言うんだよ?」
「だって……今のご時世、婚約破棄なんてザラでしょ? もしこの先、エーベルさまの前に私よりずっと素敵なご令嬢が現れたら、取られちゃうかもしれないじゃない」
そう。婚約破棄なんて、この世界には道端で野花を探すより簡単に転がっている話なのである。
「だからって、そんなこと気にしてたらキリないじゃん。もっと自信持てって」
「……でも」
そう簡単には頷けない。
エーベルのとなりに立つなら彼のスペックに見合うひとでなければと思うが、現時点でセナは完璧にはほど遠い自覚がある。
身長も低いし、童顔で、声も子供のように高い。大人っぽい、だなんて、これまで一度も言われたことはない。
「大丈夫だよ。エーベルさんは、そう簡単に既に決まってる婚約を反故にするようなひとじゃないだろ?」
たしかに、エーベルはとても誠実なひとだと思う。いつだって冷静で、セナを大切にしてくれている。それは分かっている。
けれど。
「それは、本当の意味で婚約者とは言えないよ……」
セナは、そういう完璧なエーベルを知れば知るほど、じぶんがエーベルとはとても釣り合っていないような気がして、自信を失くしていくのだった。
セナは自身の手をぎゅっと握り込む。
その瞬間、気づいた。
「そういえばエーベルさまって、ちゃんと私に触れてくれたことない気がする」
「……いや、さすがにそれは気のせいだろ?」
「ううん……ないよ」
セナはふと、部屋にエーベルを招いたときのことを思い出した。
あの日、エーベルに手を引かれたときはどきりとしたが、結局あのあとは少しのあいだセナと談笑しただけで、エーベルはあっさり帰ってしまった。
「やっぱり私って、子どもなのかな……男のひとにとって、魅力ない?」
「そんなことないって」
落ち込むセナは、向かい合って座るフリードの背後、ガラス窓に目を向けた。そこにはもちろん、セナ自身が映っている。
桃色の髪に、赤い瞳。華奢な身体を包む、純白の女子校学院の制服。
「顔は……まあまあイケている気がするんだけど」
うん。客観的に見ても、そこそこ……などと、セナは鏡に映るじぶんをじっくりと観察する。
「フリードはどう思う!?」
意見を問うと、フリードは無言でテーブルに身を乗り出し、じいっとセナを見つめた。セナはごくりと息を飲み、彼の言葉を待つ。
「……うん。まあ、顔はな。百歩譲っても」
「顔はってなによ。てか、百歩譲ってってなによ」
ひどい。
「べつに?」
素知らぬ顔をしながらも、セナはフリードがちらりと視線をセナの胸元あたりにやったことを見逃しはしなかった。フリードの目は口ほどに物を言う。
どうやら、問題は身体つきのようだ。
セナはテーブルに項垂れた。泣きたい。
「……俺はなにも言ってないからな?」
「目が言ってた」
「…………」
そう。セナは、残念なことに胸がない。
「……いや、べつに、そこまで気にすることじゃないんじゃないか? 今のままでも、おまえはじゅうぶんきれいだと思……」
「フリード!」
セナがおもむろにフリードの手をぎゅっと握った。
「おおっ!?」
さすがに驚いたのか、フリードがわずかに身を引く。それでもセナはフリードの手を離さない。
「ど、どうした!?」
「ねえ、今こうやって私と手繋いで、フリードはドキドキする?」
沈黙ののち、
「……はあ?」
フリードが眉を寄せ、ため息をつく。明らかに呆れていた。しかしセナはかまわず続ける。
「いいから、する!? しない!?」
「そりゃ、俺は……あ、いや」
フリードがなにか言いかけて、そのままなぜか気まずそうに固まった。
フリードは青ざめた顔でセナの背後を凝視している。そしてセナは、ようやくじぶんたちのテーブルに不自然な影が落ちていることに気がついた。
そろそろと振り向くと、
「エーベルさまっ!?」
エーベルはにこにこといつもの笑みを浮かべて、セナを見下ろしていた。
まずい。エーベルをストーキングしていたことがバレた。
セナはフリード同様に青ざめた。
「こ、これはエーベルさま、ごきげんよう。奇遇ですね……こんなところで会うなんて」
どう誤魔化そうか必死に考えるが、言い訳がまったく浮かんでこない。泣きそうになりながら、それでも必死に頭をフル稼働させていると、不意にエーベルがセナの手を取った。
「突然ごめん。セナ。少し話したいんだけど、いいかな」
「えっ? あ……」
エーベルはセナのとなりにいたフリードを気にしつつも、少し強引にセナの手を引く。セナは息を呑んだ。
「ご、ごめんフリード。またあとで」
そうフリードに言い残し、セナは手を引かれるがまま、エーベルについていった。
少し歩いた先の路地裏に入ると、ようやくエーベルはセナの手を離した。 直後、エーベルが覆い被さるようにセナを壁へ追いやる。
「ねぇ、セナ。君ってもしかして、案外男を惑わせる小悪魔タイプなのかな」
「へ……?」
いつもと少し違う雰囲気のエーベルに、セナは戸惑う。
「今日、俺が孤児院にいるって分かってて、彼とデートしてた? あんな、見せつけるみたいに手まで繋いで」
「あれは……」
手を繋いでいたわけではなくて、女としての魅力を……と、言いかけて口を噤む。恥ずかしすぎてとても言えない。
なんと言おう、と考えているあいだにも、エーベルは両手をセナの顔の横の壁にとんとつけ、セナを完全に身動きが取れないようにした。
「えっ……エーベルさま?」
エーベルの整った顔を前にして、セナは思考が停止する。完全に停止した思考とは真逆に、セナの心臓は爆発寸前。パニックになっていると、エーベルが顔をわずかに傾けて、ゆっくりセナに近づいた。
どこか潤んだ瞳に、セナは瞬きすらできずに唇を引き結び、固まる。
――うそ。これってもしかして、キス……!?
思わず目をぎゅっと瞑ってかまえていると、かすかな風が右頬を撫でた。直後、ぽすっと右肩が重くなる。
セナはそろりと目を開ける。エーベルは、セナの肩に頭を預けていた。
「……あ、あの、エーベルさま……?」
直にエーベルのぬくもりと息遣いに触れて、どきどきが最高潮に高まっていく。
なんだか今日のエーベルは、いつもと雰囲気が違うような気がする。どうしたのだろう。
内心困惑していると、エーベルがぽつりと呟いた。
「……ごめん」
「えん」
「せっかく友だちと遊んでたのに、俺、邪魔したよね」
セナは目を見開く。
「いえ。ぜんぜん……。その、私こそすみません。実は今日はエーベルさまがお仕事だって分かってたんですけど、お休みだし、一目見たくてフリードに着いてきてもらったんです」
「……そうなの?」
「はい……」
「なんだ、よかった」
ほっとしたように笑いながら、エーベルはセナをギュッと抱き締めた。
エーベルの体温に、セナの心拍は最高潮にときめく。もしかしてこれが、嫉妬というヤツなのだろうか。もしそうなら、
――か、可愛すぎる……!
心のなかで悶絶していたとき、
「エーベルー! おーい!」
「どこ行ったんだよ、エーベル!」
すぐ近くから、エーベルを呼ぶ男性の声がした。おそらく、エーベルとともに孤児院にやってきた騎士学院の代表生徒だろう。
その声に気付いたエーベルは顔を上げ、「もう来たか……」とため息を漏らしたものの、エーベルはセナから離れない。
「……あ、あの……エーベルさま、ご学友が呼ばれてるみたいです……?」
そろりと言ってみるが、
「……うん」
うん、じゃない。
「そろそろ、戻ったほうがいいのでは」
「……うん」
いや、だから。
頷きながらも、エーベルはセナを抱きしめたまま動かない。ふたりの周囲には、なんとも甘い空気が漂っている。
幸せすぎてどうにかなりそうだが、いつまでもこうしていては、いつかだれかに見つかってしまうかもしれない。いくら婚約中とはいえ、こういった場面を見られてしまうのは、あまりよろしくないだろう。
セナはエーベルから離れると、
「戻りましょう! お互い、ひとを待たせてますし」と告げた。エーベルは少し不満そうにしながらも、頷いた。
「……ねえ、俺たちって、婚約者同士だよね?」
路地を歩くさなか、唐突にエーベルがセナに問いかけた。
「えっ? は、はい……?」
困惑しつつ頷くと、エーベルはそっとセナに近付き、セナの唇に触れるだけのキスをした。
「!?」
不意打ちのキスに、かちこちに硬直するセナを見て、エーベルは満足そうに微笑む。
「よし、戻ろうか」
エーベルはセナの手を握ると、来た道を戻り始める。繋がれた手のひらからは甘い体温が伝わってくる。
「……どうしよう」
セナが呟くと、エーベルが「なにか言った?」と振り返った。しかし、セナにはエーベルの視線に気づく余裕はない。
幸せすぎて死にそう、とセナは心のなかでひとり悶絶するのだった。