2
エーベルとセナの出会いは、今から一年ほど前に遡る。
学校帰り、フリードと街に遊びに行く約束をしていたセナは、今日のように騎士学院の前でフリードを待っていた。
しかしそこで、見知らぬ男子生徒たちに絡まれてしまったのである。
彼らは遊び慣れているのかかなり強引に、セナがいくら断ってもしつこく付きまとってきた。いよいよ恐怖でセナが泣き出しそうになったとき、たまたまとおりがかったエーベルがあいだに入って助けてくれたのだ。
それはもう、王子さまのごとく優しく、スマートに。
その姿に一目惚れしてしまったセナは、それからエーベルに猛アタックを始めた。
今日のように毎日騎士学院の校門前で出待ちをしたり、寄宿舎まで手作りのお菓子を持って押しかけた……否、訪問したこともあった。
そしてセナは両親にも相談した。エーベルと出会った経緯から打ち明け、どうしても仲良くなりたいのだと言うと、セナを溺愛する両親は喜んで協力した。
その努力の甲斐あって、婚約までこぎつけたのがつい一か月前のこと。
学院からの帰り道、セナはとにかくはしゃいでいた。エーベルとこうして帰ること自体はもう何度もあるが、まだ新鮮だし、慣れなくてドキドキする。
学院からセナの実家までは、歩いて十数分ほどだが、エーベルといっしょだと、いつも家に着くのはあっという間だ。
今日は学院であった楽しい話と、先生の面白いジョークの二本立てだったのだが、エーベルはやっぱり優しい笑顔でずっとセナの話を聞いてくれていた。
「それじゃあ、セナ。またね」
「あ、はい……」
エーベルは優しく微笑むと、セナに背を向け、歩き出す。
「あっ……あのっ! エーベルさま!」
咄嗟にセナはエーベルの手を掴んだ。
「ん?」
エーベルが振り向く。
「どうかした?」
憧れのエーベルと婚約者という間柄になって、早一ヶ月。しかし、セナとエーベルの関係は、出会った頃と比べても、まったくといっていいほど進展していない。
エーベルは、いつだって優しいし、セナのどんな話も笑顔で聞いてくれる。けれど、それだけだった。婚約してからこれまで一度も、セナはエーベルとキスどころか、手を繋ぐ行為すらしたことはない。
セナは思い切って告げた。
「あの、エーベルさま。よかったら、このままうちで少しお茶とかどうですか?」
セナにとって、エーベルは初めての恋人だ。
この先どうやって進展していけばいいのか、具体的なことは分からない。だが、とりあえず親公認の仲なのだから、自宅に誘うことくらいは許されるだろう。
とはいえ急な誘いだし、きっと断られちゃうだろうな、という諦めが半分胸を占めつつも、けれど捨てきれない欲を滲ませた瞳でセナはエーベルを見上げた。目が合うと、エーベルはセナに向かってにこりと微笑んだ。
「いいの?」
「えっ?」
思ってもいなかった返答に、セナは素っ頓狂な声を出す。
「でも、いきなり上がってご家族に迷惑じゃないかな?」
「…………」
セナはしばらく呆然としたまま、エーベルが考え込む姿を見つめた。そして、ハッと我に返る。
「ぜっ、ぜんぜん、迷惑なんてこと、ぜったいにないです!!」
「そう? それじゃ、お邪魔しようかな」
「は、はいっ!」
想定外の進展に心のなかで叫び声を上げつつ、セナはエーベルを部屋に招き入れた。
エーベルはセナの部屋に入ると、部屋のなかを見回して、「セナらしい可愛い部屋だね」と微笑んだ。
「そ、そうですか?」
相変わらず余裕があって隙がないエーベルと違って、セナの心臓は生まれて初めてというくらい高鳴っている。大好きなエーベルがじぶんの部屋にいるという事実が、信じられない。
「ここ、座らせてもらってもいいかな?」
「はい! どうぞ! あ、い、今お茶持ってきますね! わっ、あ、なんだクッションか。す、すみません散らかってて……」
エーベルは緊張のあまり挙動不審になるセナを見て小さく笑いながら、セナの手を掴む。
「ひやっ……!?」
セナは声にならない悲鳴を上げ、その場で固まる。
「落ち着いて、セナ。お茶はいつでも飲めるんだし、とりあえず座って話そうか?」
「うっ……すみません……」
エーベルにゆったりとした口調で言われ、セナはそろそろとその場に座った。エーベルの笑顔のおかげか、少し落ち着くことができた。
もしこの場にフリードがいたら、どちらが家主なんだ、とツッコミを入れられてしまいそうだ。
セナはちらりとエーベルを盗み見る。
部屋に入っても、エーベルは緊張した顔を見せるどころか、涼しい顔。セナのほうは緊張のあまり、今にも胃がひっくり返りそうだというのに。
それにしても、婚約者の部屋にきてこの余裕ってどうなのだろう。
曲がりなりにも、セナとエーベルは婚約中のカップルだ。部屋でふたりきりになれば、もしかしたら恋人同士としてなにか発展があるかもしれない、なんて、ちょっと期待をしていたのだが。しかし、エーベルにその気配はない。
エーベルは果たして、セナのことをどう思っているのだろう。
婚約の話がすんなり進んだおかげで、セナはまだエーベルにじぶんのことをどう思っているのか、ちゃんと聞いたことがなかった。
というより、聞くのが怖かったのだ。もしエーベルの本音が、セナの望むものではなかったら、と。
シュミット公爵家の令嬢であるセナと、クスター侯爵家の子息であるエーベル。
クスター侯爵家にとって、格上であるシュミット公爵家と縁戚関係を結ぶということは、かなりの好条件だ。なのだが、それがなくともセナとエーベルの縁談は、クスター侯爵家にとっては願ってもない話だった。
その理由は、セナの父、ロイド・シュミットの職業にあった。
ロイドは、王宮で秘書官をしているのだ。
秘書官といえば、王宮内でかなり高い地位にある人間。つまり、騎士見習いであるエーベルがロイドと親族になれば、エーベルは将来騎士となってからも安泰の地位を得られるというわけである。
エーベルのこの余裕っぷりを見てしまうと、エーベルがセナとの婚約を決めたのは、もしかしたらそれが理由なのではないか、と考えて、考えれば考えるほど不安になってしまう。
「ねぇ、セナ」
「ひゃっ、ひゃい!?」
不意に名前を呼ばれ、セナは我に返る。顔を上げると、エーベルと目が合った。
「さっき、いっしょにいた騎士学院の男子ってさ」
さっき?と、セナは首を傾げる。
「あ、もしかしてフリードのことですか?」
セナが聞き返すと、エーベルは控えめに笑ってうなずいた。
「……彼とは、その……ずいぶん仲がいいのかな」
控えめながらも不安げに訊ねてくるエーベルに、セナはきょとんとした。
「はい、まぁ」
「よく、ふたりで会うの?」
「そうですね。幼なじみだし……私、もともと人見知りで友だちがいなかったから、フリードがいつも面倒を見ててくれたというか」
「それじゃあもしかして、この部屋にもよく来たりする?」
顔を上げると、エーベルと目が合う。
「へ? ええ、まぁ……たまにですけど……」
「……そう……」
沈黙が落ち、セナは顔を上げる。エーベルの表情を見て、ハッとした。
「す、すみません!」
セナは慌てて謝った。エーベルが困惑気味の顔をする。
「なんで謝るの?」
「だ、だって、婚約者がいるのに、家にべつの男性を上げるなんて……意識が低過ぎますよね」
エーベルの反応を見て、セナもようやく察した。先程のエーベルの表情は、フリードへの嫉妬や不安ではなく、セナとフリードの関係によっては外聞が悪い、というほうの心配をしていたのだ。
「あぁ、いや。それはぜんぜんかまわないよ」
「え……い、いいんですか?」
「セナにとっては、家族同然の存在なんだろうしね」
「それは、そう……ですね」
喜んでいいのか、悪いのか。じぶんでじぶんの気持ちがうまく理解できなかった。
セナは「お茶、持ってきます」と立ち上がった。エーベルに気付かれないよう、部屋の外へ出てから、小さくため息をついた。




